三重団体(草分)の開拓
楡の木の下で
明治三十年春、三重県安濃郡安東村生まれの田中常次郎が中心になって、富良野三重団体(団体長 板垣贇夫・副団体長 田中常次郎)を組織し、その第一陣が渡道、小樽港から歌志内を経て一旦平岸三重団体に落ち着き、ここから先遣隊の田中を隊長に、組長の田村栄次郎、久野伝兵衛、高田次郎吉、川田七五郎、吉沢源七、川辺三蔵、服部代次郎の一行八名が、空知川を遡って富良野清水山の南端に出て、富良野川の合流点を捜しその上流へと上がり、眼前に広がる原野と、遠く十勝岳連峰を右手に眺めながら進んだ。苦労の末に、漸く入植地である西三線北二十九号百七十五番地に着いた。そこは樹木が少なく乾燥しておりカヤやススキの原野で、まん中に一本の楡の木があり、その下で憩い、野宿し到達を喜びあった。
時まさに明治三十年四月十二日で、この日が三重団体(草分地区)入植の日であり、また初めて上富良野へ団体入植し開拓の鍬を下ろした意義深い日として、この年を上富良野開基元年とし、またこの日を町開拓記念日と定めている。
田中団体長他八名の先遣隊は、後に来る家族のための合掌小屋を建て、来たときと同じ経路で平岸三重団体に戻り、待っていた一行を引き連れて五月十五日に出発、子ども、婦人にとって難所が多い空知川筋をを避け、滝川、音江、忠別太(旭川)を経由し、途中忠別太(旭川)で鍋などの生活雑貨を買い込み十八日に漸く目印にした楡の木に到着した。
初期の開墾
第一陣を始め、これに続いて次々に到着する三重団体員が、腰を落ち着ける間もなく始めたことは、各自の入植区域の木を切る作業だった。割り当てられた区画はそれぞれ森林密度や土地の乾湿、肥沃度や水利などの優劣があり、これらの不平不満を調整するのが、前記団体長や組長の大きな役割になっていた。この対策の一つとして伐採や開墾小屋の整備を共同作業で行うなど、団体内の団結と協調がつくられた。
原始林を伐採、抜根して焼却除去し、耕地へと変えて行ったが、本格的な収穫を得るのには三年はかかったと言い、この間の食料は買わなければならない。
持ってきた資金で食いつながなければならず、生活のつなぎ資金を得る為に、明治三十二年に上富良野まで開通し更に十勝方面へ延長されつつある鉄道工事の人夫や、冬山造材の杣夫作業は、貴重な稼ぎ先だった。
草分地域の形成
三重団体は市街地の北側日の出地区を含めて平坦地の殆んど全部であったが、その中心部は現在の草分と言える。
草分地域には、三重団体の他に明治三十七年貸下げを受けた美瑛の堀川松次郎の堀川牧場があり、大正二年十一月十二日に金子 浩がこれを買い受け金子農場を開いた。場所は現在の草分旭と更進の位置である。この農場は、入地が始まったのは明治四十五年(大正元年)頃と見られ、豆景気で続々と入地者がふえていた。その後この農場は所有の権利が次々と移り、旭川の三谷真三郎所有となったが、昭和十四年、三谷の自作農創設によって開放された。
西二線の僅か東方と、北二十七号が日の出との境界で、また鉄道と並行し里仁をへて美瑛・旭川に通じる国道と、日新・清富への西二線と、江幌・静修への北二十八号など幹線道路が通り、かって開拓時代、専誠寺、上富良野簡易教育所(後の創成小学校)を始め、マルイチ金子商店、松井鍛冶屋、森川旅館、一色商店、伊藤木工場、分部木工場等がこの地域にあった。このように三重団体の入植を主に、地域が形成され、百五十戸余りの集落ができあがった。明治三十五年新しく市街地に小学校が開校し、校区が北二十七号(現在の日の出)で分かれたことや、明治三十九年に二級町村制施行の際、全村を十一に区画した行政執行機関の部制が敷かれ、大正二・六年の再編成をへて大正八年一級町村制施行で部制はそのまま行政区制に移行され第二部となる。
このように部制の区画が、地域名や住民会として残っているが、当時はこの呼び方よりは団体・農場牧場名で呼称するのが普通であった。三重団体が現在のように草分等の地域名称が使われるのは、昭和に入って農事実行組合が確立してからと思われる。
十勝岳爆発による泥流災害
大正十五年五月二十四日の災害は、復興か放棄かの決断が迫られる地域存廃の一大事件であった。入植してから三十年が過ぎ、憩いの楡の周辺を始め平坦地一帯には肥沃な水田地帯が広がっており、当日は田植えの準備作業に追われていた。午後四時三十分頃大噴火が起こり、噴出物と熱気で溶かされた積雪に、降り続いていた雨水が加わって大泥流が発生した。
この泥流は美瑛側と上富良野側に分かれ、上富良野側は富良野川に沿って流下して、日新、草分を襲い市街地をかすめ島津地区へと流れた。
日新・草分地域では百三十七名と言う多くの死者行方不明者を出し、畑を削り流し、更に草分では泥流が農地を厚く埋めつくした。泥流に運ばれた多くの岩石や流木が埋まり横たわり、犠牲者の遺体や、遭難した家畜、家屋の残がいが折り重なり、道内外から駆けつけた援助救護隊の活動を難行させた。
当時の草分の中央部(ふうらい橋付近)は前記の通り小市街と言われる集落を作っていたが、悉く被害に遭った。
硫化化合物の強い火山噴出物を含んだ泥土と、多量の岩石や流木に埋めつくされた田畑を眼前にして、被災地復興か放棄かの二論が闘わされたが、当時の村長吉田貞次郎は復興を決断、国と道の支援を受けて復興事業に取りかかった。復興不能地の三十八戸は美瑛留辺蘂御料地に移住を余儀なくされたが、長い時間と膨大な労力と資金によって、現在の田畑地帯に戻されたのである。
(中尾之弘記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉