深山峠の起源
国道二三七号が旧国道から現在の路線に開さくされたのは明治四十四年である。昭和七年に改修し、昭和三十七年に三回目の改修が実施され、昭和四十一年に全線の舗装が完成した。昭和十五年頃西九線からの曲り角を過ぎた附近の道端に、「深山峠」と書かれた標柱が建ててあったのを見たことがある。また、荒 猛夫氏の話によると、ややしばらくあとに「松浦武四郎史跡」と書いた標柱も建てられてあったとの事。誰が建てたのかを調べたが遂に知る事が出来なかった。昭和四十二年発刊の町史によると、国道の郡界(上川と空知)を通称「美馬牛峠」と云っているが、ここからわずかに空知側に下った所が、「深山峠」である。西九線附近の国道で十勝岳が最もよく見える位置にある。
この高原地帯から見る十勝岳はすばらしい、安政五年戊午、上川から十勝に越した松浦武四郎が十勝岳連峰の写生をしたのはどうしてもこの附近にあると思う。開発建設部がここに深山峠という標木を建てたのが、今日の深山峠と云う名称の起源となっている。
高さは郡界に及ばないが森林にさえ切られる事もなく「最も美しく連峰の見える位置にある」と記されている。しかし開発建設部は戦後の機構である事からすれば旭川土木現業所と思われる。
(菅野 稔記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉