郷土をさぐる会トップページ     第12号目次

スケートの歴史と昭和三十年代の東中スケート場

高橋 寅吉 大正三年五月十六日(七十九歳)

スケートの歴史

雪が降り氷が張る寒い地方で、始めはスキー・スケートも交通の用具として発達したのが始まりで、長い年月に滑走具となりスキー・スケートがヨーロッパ沿岸部のオランダ・フランス・イギリスと伝わって、十二世紀の末頃には一般の遊戯道具として用いられたといわれています。
日本のスケートが初めてオリンピックに参加したのは一九三二年、アメリカ・レイク・プラシッドの第三回大会からです。
日本では江戸時代で氷滑りをしていたようですが、その頃のスケートというのは下駄の底に割った竹を結んだもので、原始的といってもよい素朴な滑り道具でした。近代的スケートで滑り出したのは明治二十四年三月(一八九一年)、米国製スケート三組を海外留学の博士が帰国の際持ち帰り学生に滑らせたのが始まりで、その後急速に盛んになったものです。
大正九年から十三年にかけて日本スケート会が設立され、昭和四年十一月全国スケート連盟創設、翌年五月一日、スピードスケート第一回全国日本選手権大会が開かれたのです。勿論フィギュアスケート・アイスホッケーも隆盛発展しました。
寒い北国北海道では、大正年代は下駄スケートで、着物を着て足袋を履いて紐で結びつけ、子供等が道路の真ん中をワイワイ滑って遊んだものです。続いてゴム長靴が出回る様になり金具の靴スケートで革紐で締めつけ、得意になって道路の堅い所や水溜まりの氷の上で滑ったものです。
現在のスピードスケートが出回り始めたのは旭川市でも大正末期で、昭和六年に北海道スケート連盟に加入・昭和十二年に旭川スケートクラブが設立されました。その後第二次大戦で一時中断となりましたが、スキー・スケートは北国北海道の冬を代表する花形として、老若男女を問わず手軽に楽しむ事の出来るスポーツとして日常生活に溶け込み発展してきました。特にスピードスケートは若者にスピード快感の魅力があり、練習努力により一〇〇米十秒近いスピードで滑る姿は見ていても実に愉快でした。
東中スケート場
昭和三十年から十年間、私が東中公園(当時水田用水溜池)に一周二〇〇米のスケートリンク設営にとりかかったのは当時余り普及していなかったスピードスケートでしたが、旭川市常盤公園でのスピードスケート大会を見学したのが動機で、是非地方の青少年にも冬の安易なスポーツとしてのスケート場をつくり、寒さに負けない丈夫な体力づくり、楽しみづくりにと思いついたのが始まりです。
池の上ですので表面が凍れば直ぐ滑れます。後は雪はね。道具はホーキ、雪はね作業。水撒き馬穴。これだけ揃えば後は人手だけと簡単に取りかかったのですが実は苦労の連続でした。池の廻りが石垣、お盆に水を張った様なもので、池は絶えず用水が出入りしています。積雪の少ない期間は簡単に利用出来ましたが、其の後正月、二月は毎日が悪戦苦闘。といいますのは、氷がだんだん厚くなり気温も下がり、零下十度以下になりますと氷が膨脹出来ない為大音響と共に各所に亀裂が起り、切角整備したリンクの割れ目から水が吹き出し、低温のため、忽ち凍り始め一夜にして使用不能です。再整備するのに一週間もかかる場合も有り、又二〇糎以上積雪が有ると即刻除雪しなければ、積雪が吸い取り紙式に氷の割れ目や薄い所から水を吸い上げ、雪に沁み込み広がり、表面に近づいた所から凍り始め、除雪も歩く事も困難です。
その他吹雪・大雪・暖気とそれぞれ整備には苦労しました。勿論近所の人、家族挙げての応援も有りましたが、最後の仕上げは自分本人だけ、一番印象として残っているのは、零下二十度の夜半、仕上げの水まき作業を手伝っていた家内が、氷の穴から馬穴で水を汲み上げ中、突然誤って穴の中にドブンと姿を消し、慌てて走って行き引き上げ、自宅まで七十米ぐらいつれ帰れば、着物はバリバリに氷が張り着替えさせるのに一苦労した事です。
設営期間十年間は、上富良野市街地からは勿論富良野市からもバスで愛好者が訪れ、地元の子供等も参加して賑やかな日々でした。特に昭和三十二年二月旭川スケート連盟会員のスピード・フィギュアの選手の方が指導を兼ね参加されスケート大会を開催し、当時としては地元の人は見た事も無い短いスカート姿の婦人、少女のフィギュアスケートの妙技に、参加観覧者一同目を見張り喜こび大盛況でした。
其の後東中スケート場がきっかけで、各地各学校にリンクが出来、東中スケート場は地元小学校にもリンクが出来た事で、児童生徒の利用がなくなり中止する事になりました。只各所に出来たスケートリンクは広くても一周一五米以下の為、特にスピードスケートは小さくとも一周二〇〇米以上なければ技量も上達が遅く魅力が無い為、最初は愛好者も集りましたが逐次減少して、ついには中止のスケート場も増え現在はすっかりさびれたようで誠に残念です。
スケート、特にスピードスケートは練習次第で上達も早く、努力で世界の檜舞台オリンピックで活躍した早来町の橋本聖子さんのようにメダルを貰う事も夢ではありません。上富良野町は北海道のド真中、若い自衛隊員、多くの青少年の町。高校、中学生徒も夢と希望をもてる一周四〇〇米の公認スケート場を是非設営し、スケートの町、明るい町、楽しい町づくりに総意を挙げて取組まれる事を念願するものです。
なお、最近拝見した旭川スケート連盟「六○年のあゆみ」記念誌(一九八五年発刊)、並びに上富良野体育協会、体協二〇年の歩み」記念誌スケート連盟の歴史(一九八八年発行)に、共に東中スケートについての記事、写真が登載されているのを知り十年間の苦労も実っている事を知り喜んで居ります。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉