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大正末期の富原地区

清水 一郎 大正三年三月七日生(八十歳)

時代の推移とともにその地域、集落の住民が転入し転出して常に変化していることは、世の中の人々にとって必然というべきことであります。
当富原部落においても例外ではありません。道路の改良・電化・通信網など社会環境の変化は、昔を考えると想像を絶するばかりの変りようであり、ただただ驚くばかりです。
あらゆる物質に恵まれ非常に豊かになった今日、昔のことを思いおこしてみてはと思い、大正十三年頃の富原地区をふり返ってみることにいたしました。
当時の経済状況を知る上で大変参考になる富原地区内七十九戸の所得金額順別の納税者一覧がありますが、私は最低ランクの納税者でありました。
納税額は戸数割と戸別割の合計額を二期に分て納めていましたが、戸数割は所得金額と住家坪数乗率と斟酌乗率により計算されていました。
名前は伏せますがトップの方は、別表のとおり所得金額千七百八十八円、住家坪数三十三坪で一番大きく、納税額は百二十七円三十九銭で、四十番目の方は所得金額百八十八円、住家坪数九坪で納税額は十円三十四銭です。私は所得金額二十円、住家坪数七坪で納税額五十八銭でした。
割当にあたっては住民会において部長ほか代表者が協議して決めますが、経済的に苦しい時なので納得のゆくまで夜を徹して話し合いがなされ、疲れはてて朝方決定するのが常で、税額の割当には毎年随分苦労させられ、これが部落の一大事業でもあったといわれております。
丁度その頃、今の道々旭中線の道路改修を行っており、富原地区の割当区域となった東四線から街に向って現在の紅葉橋までの間、業者が運んできた砂利を富原住民総出で、手押し車やショベル等で散布作業を行いましたが、私も子供ながら刈り出されて大人の仲間の一人として使役したものです。
紅葉橋は木橋で、時々橋の中程に穴のあいている事もあったし、橋より街に向かって、今の「まるます食堂」のあたりまで両側には白樺の大木と熊笹が茂り、道路には木材を三角に割った木を全面に敷きつめておりました。雨降り後は馬車が通るとゴトンゴトンと割り木を渡りますが、そのたびに泥水が飛び散り歩行者はとても歩けたものではなく、亜麻会社の草地を道路代わりに通行していたものです。
当時の米は一俵十五円前後でありましたが、この頃の富原に住んでいた方々を略図で表示し、先人のご苦労に感謝と敬意を申しあげる次第であります。
○大正13年富原地区納税名簿抜粋(単位:円) (註)戸数割1銭未満切捨
氏名 所得 住家 斟酌 戸数割
年額
戸別割
年額
納税額
所得金額 税額 坪数 乗率 税額 乗率 税額
1,788 10.245 33 690 1.182 67 10.472 21.890 105.500 127.390
318 1.822 19 210 0.359 6 0.937 3.110 14.980 18.090
188 1.077 9 140 0.239 3 0.468 1.780 8.560 10.340
40 0.229 12 70 0.119 2 0.312 0.660 3.180 3.840
20 0.114 7 60 0.102 1 0.156 0.100 0.480 0.580
○大正末期の参考価格
 米   60s   大正12年  13円10銭
13年 15円43銭
11年 16円64銭
甜菜(ビート) 千斤(600s) 7円00銭
1トン 11円67銭
バター 6オンス半 80銭
チューインガム 5枚入 10銭
メンソレータム (小) 45銭
眼科薬スマイル (小) 45銭
炊事割烹衣 (上) 2円40銭
(並) 1円90銭
炊事前掛 (上) 75銭
(並) 60銭
晒天竺大巾 5丈6尺 5円30銭
三省堂六法全書 2円50銭
(送料書留) 11銭


機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉