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《私の終戦日》昭和二十年八月十五日
終戦前後の記憶

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十歳)

徴兵、そして満州へ

私が旭川騎兵部隊の営門をくぐったのは昭和十八年の十月一日、満州に渡ったのは十月の末頃だった。
朝鮮の慶源(ケイゲン)に一ケ月居た後琿春(コンシュン)、住木斯(ジャムス)、海域(カイジョウ)と転々として最終は東寧(トウネイ)地区の石門子(セキモンシ)に移動した。時はすでに昭和二十年になっており、ここまで独立挺身大隊員としての編成式が行われたが、いざ明日から実戦訓練をと張切っていたその翌朝、けたたましいラッパの音で目をさまされた。
完全武装をして、本部の広場に集合した時には、もうソ連の戦闘機が上空を飛び廻り、即時戦場のまっただ中に置かれることになった。
昭和二十年八月、最終の行軍
一、二、三個中隊の編成だった我が一中隊は、昭和二十年八月の暑い日差しの中を歩いていた。斗溝子(トコウシ)の近く迄辿りつき戦闘態勢を整え、大喊廠(ダイカンショウ)に向かうべく夜間行軍に移った。東寧駅を下に見て更に、行軍を続け、三差路の両面に陣地を取り、一時ソ連の攻撃を避けることになった。しかし十日の昼頃になって、敵の攻撃が近寄って来るというので、急いで移動し谷間に身体を隠し、一応戦車を遣り過した。その後反対側の山へ上り、鉄道迄降りて綏芬河(スイフンガ)を渡るべく浅瀬を探しながら漸く渡り終えた。
しかしこの時に多くの兵員を失ったが、大方が勢いのある川水に流されたのではないかと思われた。
兎に角みんなが疲れているので密林でゆっくりと一夜を明かし、太陽が大分高くなってから、恐る恐る山里迄降りた。ピンポン玉の様な馬鈴薯をかじりながら、地図を頼りに行軍を続けたが、先程生芋を食べたせいか下痢を催し、用を達している内に本隊に置き去りにされてしまった。仕方なく二〜三人の芋喰い兵隊と共に、大きな家のそばにうろうろしている兵隊をみつけ近寄って行くと、糧抹の倉庫らしく高梁(こうりゃん)が沢山ある。これを持てるだけ持って、友軍と行動をとる事にした。
その夜は満人の住宅をみつけ、歩哨を立てて一夜をかした。
開戦以来久し振りに屋根のある人家で過ごしたかったが、そうした訳にはいかず早々と出発した。何処とも知らずに歩いている内に、大きな部隊に遇った。
この後尾について歩き、夕暮れになって雨が降って来たので、橋の下に入って雨宿りをすることになった。ほっと一息する中睡魔に襲われてぐっすり寝込んでしまい、又々戦友と二人置き去りにされてしまった。トボトボと心細く歩いている中に、遥かの低地に人家を見付け、一目散にそこを目指して辿り着いた。そこでは丁度友軍が炊き出しの最中だったらしく、石門子出発以来の米の飯にありつく事が出来た。
腹一ぱいになって人心地がついた所で、何処の隊とも知らぬ中に員数に入れられてしまい、山に登り天幕を張って夜を明かした。この地ではソ連の攻撃に備えて、蛸壷を掘ったり、逃げ出して行った朝鮮部落から、豚や鶏などを頂戴して態勢を整えて腰を落着かせた。
終戦の日のその時
合流した兵隊の話を聞くと、此所が我々の目指していた大喊廠(ダイカンショウ)だという。しかし漸く戦意の嵩まってきたところへ、又々下山せよとの命令があり、二、三日前銀飯にありついた所を通って後方の山に移動した。誰かの掘った防空壕で、蚊とブヨに悩まされながら夜を明かし、翌朝は湧水を利用して、各自飯ごうで朝食にありついた。そこへ集合の指令が下り本部へ向かうと、何となく全員がざわめいている。
情報を満足に得られない兵隊の悲しさ、訳の分らないまま只呆然としていると、幹部の上官達が日本刀や拳銃を、惜しげもなく傍の他の深い所をめがけてドボンドボンと投げ捨てているではないか。どうもおかしいなと見ている中に、何処からともなく停戦、和戦、敗戦、終戦と口から口へと伝わって、急にざわめきが大きくなった。
この分だと我々も日本へ帰れるのではないか、やれやれと思ったのは私だけではないようだった。
さて、今日は一体何日だろうと指を折ってみると、丁度八月十七日なのである。徐々に事情が判ってくると、終戦は八月十五日付けだという。ということは我々は終戦になっていることを知らされないままに、汗を流して働かされていた訳である。馬鹿臭いやら、悲しいやら、又一方日本へ帰されて家族と会えるという嬉しさやら、複雑な気持ちが入混っていた。
時は容赦なく過ぎ、出発命令に従って隊伍堂々と言いたいのだが、敗惨兵の悲しさに皆しょんぼり、無言のままの歩きだった。何処へ行くかも判らないままに歩いている中に、前の方に行く兵隊の中から防毒マスクなどを谷底めがけて投げ始めた。幹部もこれは驚いたらしく、銃器類だけは達しのある迄は大事に持って行く様にとの事なので、防毒マスクだけに止めた。
行進の途中には、畑の中に天幕で隠されてあった甘味品や、酒、米などを命令のないまま我先きにとカバンやポケットに詰め込む騒動も起った。残った天幕だけが風に吹き飛ばされていたのが印象に残っている。
それから一日経って、いよいよ武器の返納となって夜営する事になった。敗戦に哭く者、日本に帰れると思いこんで、昨日水筒に詰めて来た酒を呑んで歌を唱う者、まとまりのない烏合の衆となって大騒ぎの中に夜営の夢を結んだ。
一転ソ連の地に抑留
翌日大きな橋を渡る時、ソ連の兵隊が橋の両側で計数器を使ってカチカチと員数を確かめてるのも上の空、名実共に虜囚の身となって、東京城(トンキンジョウ)の収容所で数日を過ごしていた。
こから又三日位行軍により移送され、依河(エキカ)という所で待機させられた。いよいよ鉄道が開通し、家に帰れるとものとばかり喜び勇んで乗った迄はよかったが、とんでもない。ハバロフスクの収容所に入れられたのが九月十五日で、翌日からは満州から押収して来た莫大な戦利品の陸揚げだけ、昼夜の別なく働かされる始末となった。
徴兵から終戦日をはさんで私の終戦日前後の記録で、それから二年後の昭和二十二年の十一月に復員する迄には随分苦労をしたものである。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉