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《私の終一戦日》二十年八月十五日
埼玉県で玉音放送を開く

山岡  寛 大正七年七月二十六日生(七十五歳)

「敵広島に新型爆弾」相当な被害!!

何新聞であったかは記憶しておりませんが、一面の見出し記事である。多分それは八月七日の新聞であったと思う。今でも鮮烈に想い浮かぶ、何とも言い様のない恐怖感!!
その時私は、埼玉県大宮市にあった陸軍の東京第二造兵廠大宮工場で勤務についておりました。兵数名を伴い兵器工場の屋上に、防火水槽を設置する任務を命じられ、当時部隊本部のあった栗橋市から派遣されたものであります。兵器工場のあった担当の中尉(主計中尉)に申告をして指示を仰いだところその中尉の曰くには、「国民の食糧が無くなったら戦争には勝てませんね」と以外な言葉が飛び出してくるではありませんか。軍人に禁句とされていた負けると言う言葉は軽々しく言うべき言葉ではないのですが、この言葉が飛び出してきたのはびっくりいたしました。その上「任務の方は資材がないから何もやらないで良いですよ、遊んでいて下さい。」との事で二度びっくりしました。全くやる事なし、言われたとおり遊んでいるより致し方のない毎日でした。
大宮にあったこの兵器工場は、非常に大きな工場で、工員数千名、技術将校も多数いましたが、いずれも資材が不足しているらしく、系統的な兵器の生産はできないところまで追い込まれていたようでした。仕方がないので、毎日毎日工場の一角にあったプールで、暑さと退屈凌ぎのため泳いでおりましたので、冒頭の新聞記事の原子爆弾の事は知るはずもありません。兎角とてつもない新兵器で攻撃され、膨大な被害があり、しかもその攻撃にはB29が単機で来襲したことなどが、何処からともなく耳に入ってきました。政府の調査団が広島に向かった云々の情報が入ってきて、だんだんと真相が伝わって、単機で飛来するB29は極めて危険であると言うようなことが判ってきました。
やがてプールに浸って呑気な事をしている暇などなくなりました。原隊との連絡で命令を受け、急拠本部の移動した豊野村(埼玉県内)の豊野国民学校で原隊復帰となりました。広島に続く長崎への第二弾攻撃があり、軍の上層部は既に顔色はなく、周章狼狽その極に達しておりました。
これより先、私は遠く択捉島の年萌(としもえ)と言うところの警備の任に就いておりました。この択捉島は国後島、色丹島、歯舞諸島と共に、現在でいう北方領土の一つであります。年萌は、昭和十六年十二月のハワイ攻撃をした、連合艦隊の集結基地で知られる単冠(ひとかっぷ)湾を望む小高い丘の上にあります。湾の奥には夫寧と言う飛行場があり、当時日本の最新鋭の偵察攻撃機の新司偵と言う双発機の基地になっておりました。時々私達の頭上にキーンと言う金属音を残して飛ぶ新鋭機を見ると、戦争に勝てる自信のようなものが感じられました。
昭和二十年三月九日から三月十日の陸軍記念日に敵米軍の対日謀略放送を聞いておりましたが、敵B29の大編隊が東京の下町(東京深川区を中心とした地帯)を集中的に攻撃し、実に一夜にして十九万戸が灰燼と化したと言うものです。油脂焼夷弾の存在は知っておりましたが、体験者の話によると、空からガソリンを撒いて火を付けられたと言っておりました通り、その凄まじさは想像に勝さるものがあると思います。僅か一夜にして首都東京下十九万戸を焼かれた戦跡は太平洋戦史に残る敗戦の記録であり、永久に忘れることの出来ない出来事です。そして焼夷弾による空襲は、地方の中小都市攻撃へと拡大して行くのですが、この大空襲の後に続くものは最後の決戦、敵大部隊の本土上陸であることは衆目の一致する所でありました。
私達の部隊も本土決戦に備え、関東平野の防備のため択捉島年萌を後に六月一日出帆しました。途中洋上で敵潜水艦の潜望鏡が見え大騒ぎになりましたが、小さなポンポン船であった為、標的が小さく攻撃を受ける事なく助かりました。
そして昭和二十年六月九日、前述した埼玉県栗橋市に転進、更に豊野村と言う小さな村の国民学校に私達の中隊は駐屯することになったのでした。
豊野村での想い出は、近くに江戸川の上流があり、この幅五十米位の川で毎日の様に泳いで涼をとっていたと言うことです。この場所は田舎の為空襲の危険もなく、生暖かい水温は、一日中水に浸っていても寒さを感じません。この中には同年兵で丸山一郎君と言う百米を一分二秒の記録を持つプロ級の水泳選手がおり、彼の影響で私も少しは上達したように思えました。またこの川には「ド」と言う魚取り道具が浸してあり、この「ド」を秘かに引き上げると、黒光りする鰻がとぐろを巻いて入っておりました。
これをこっそり頂戴して丸山君と二人で近くの農家に頼み込み、焼いて食べたあの味はなんとも忘れられないものであります。食べた事で思い出すのは、択捉島でのアイヌネギと魚です。この択捉島には丁度一ヶ年暮らしましたが、魚は極めて豊富で、鮭の孵化場や捕獲場もあり、川幅二十米ほどで湖から海に流れ出ておりました。川の水量は多く、手の切れるような冷たさで、刺網を皆で向こう岸まで張って暫く待っていると、鱒やウグイなどが二、三十匹も入るので、魚に不自由する事はありませんでした。
しかし主食の米の配給は十分でなく、年萌にあった捕鯨基地の鯨肉を飯の代わりに食べさせられたのにほとほと閉口しました。米が不足するから鯨の肉を米代わりに食えと言われても、一日や二日ならなんとか我慢も出来ますが、四日、五日に成ると鯨肉のあの匂いがなんとも鼻について、とても喉を通るどころか、鼻先へ持って来ただけでも吐き気がするようになって参ります。もうとても我慢がならないので部隊中がブーイングとなり漸く止めてくれました。
また青物が無いので、乾燥野菜が利用されました。これはキャベツを刻んだものを乾燥したもので、叺(かます)に入れて支給されますが、乾燥不十分のためかカビが発生し、叺から開けるともうもうと黒く粉状に飛び散ると言うひどい物で、食糧と言える物ではありません。春遠く野山にはいろいろの山菜が萌出すので、これは毒草以外は何でも手当たり次第食べたものです。
春雪融けと同時に姿を見せるのがアイヌネギで、暇があればこれを採取し補給しましたが、ビタミン不足で結局、心臓脚気に羅り、足の腿が重く感じる苦通を味わう事になったのでした。しかし一年という短期間で本土へ転身したお陰で今の自分があると思っております。
最近北海道新聞夕刊の「千島紀行」の記事は、特別な関心をもって読んでおりますが、正にこの文字通り、全山が高山植物で覆われており見事であった事が心に残っております。機会を得て是非再度訪れて見たいと念願しております。
さて、埼玉県では前述のように栗橋市、大宮市、豊野村と移動で変わりましたが、終戦の昭和二十年六月から十月にかけて豊野村におり、天皇の詔勅はここの国民学校で聞くことになりました。今まではソ連軍の参戦のニュースを聞いておりましたが、終戦の前日、明日重大放送があると言う事が伝えられました。嫌なものを、聞きたくないものを聞かされるような気分でその重大放送に臨んだのですが、殆どがガリガリと言う雑音の中に、天皇陛下の聞き覚えのある声で「堪え難きを堪え」と言う部分だけは聞くことが出来ました。
放送全体として意味不明ながら、なんとなくこれで終わった、やっと終わったと言う安心感のようなものと、敗戦の結果これからどうなって行くのか、先行不明で不安この上ない心境でした。教室で泣く者あり、黙って座っているものあり、夕方位迄只うろうろしているだけでした。
二日経ち、三日経ち、だんだんと真相が判って来ましたが、既に米軍が上陸していたので、東京方面の人達は着のみ着のままで逃げ出し、助けを求める人で私の身辺もごったかえしが始まり、大変な騒動になって来ました。
この騒動は、八月の終わりから九月初めに掛けてであったと思います。
東京の土地の権利書を持って逃げて来た人が、東京の土地一戸分を三千円で買って下さい、と懇願された事がありましたが、現在の地価を考えると夢のような話です。
戦後いろいろな混乱があり、結局武装解除、そして復員(この言葉は大分後に出来た言葉)は、部隊編成の儘で、計画輸送と言うことになり、どの駅から列車に乗ったか記憶しておらず、途中でぽつぽつと消えていなくなる者あり、しかし誰も咎めるでもなし。
これも記憶に無いのですが、北海道の何処へ着いたか、家族とどうして再会したのか全く記憶から欠落しております。兎に角現在の自分であることだけは間違いなく、あれから既に半世紀になろうとしているのです。感無量とはこの事でしょうか。
多くの戦友を戦争で失い、国土は文字通り焼土と化したのですが、今や日本は世界の富裕国となって、多くの貧しい人々を援助できる立場にまで発展しました。
私も敬老年金を戴く年齢になり、なに不自由のない生活に感謝しつつ日々を送っている次第です。
戦死した多くの戦友に、そして物故された数多くの人々の冥福を祈って、この一文を終わりとさせていただきます。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉