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《私の終戦日》昭和二十年八月十五日
衛生兵として薬物管理中に迎えた終戦

浦島 秀雄 大正五年十月七日生(七十七歳)

昭和二十年四月、私は札幌第五方面軍、小樽臨時兵站司令部で陸軍衛生軍曹として軍務に就いていた。司令部以下将校・下士官・衛生兵等、総員四十数名の小部隊である。
兵站の名で示す如く、私の部隊は医薬品の供給、輸送に携わる部隊である。小樽商工会議所の二階が司令部、司令部に近い位置の元料亭が兵校舎である。
起床後、朝食を終えると司令部に出向き朝礼のあとは全員で体操を行ない、次は市内の路上を十分ほど駆け足で回り、心も解してからそれぞれの業務部署に着くことを日課としていた。
昭和十八年十二月一日、二度目の召集を受け、旭川の第七師団第二十六連隊に入隊後、十九年一月に札幌月寒に在る第五方面軍、軍医部付きに移り、四ヶ月後、ここ小樽に派遣されて来ていたのである。
小樽に来てはや一年は過ぎていた。二月中旬頃から夜間の空襲警報発令回数が頻繁となり、夜の小樽市内は燈火管制の実施で暗く、夜間は静かに息する街となっていた。小樽の山も、軍民共同で防空壕を三方より掘り進めており、その貫通も間近と聞く。
私は衛生材料、薬物係の現場責任者として部下六人と共に小樽港の岸壁寄りにある倉庫内で、電燈の灯を頼りに千種類ほどの薬物の詰合せや梱包作業を行ない、これらを各方面の部隊に小樽駅から汽車、また岸壁からは船舶などに積み込んで発送させていた。時局が厳しくなるに伴って夜中の十二時頃まで詰め合せ作業を行うなど、不規則な日が多くなっている。積み込んで送り出した船が撃沈され、再度積み出したことが二度ほどあった。
千島の部隊に薬物を渡すため根室に行き帰りには上官の計らいで妻子が居る我が家に一泊できたが、軍務に就く者の身では得難き夢のようなものであり実に嬉しく、今でも心に残っている。
五月に入ると、札幌に札幌琴似軍衛生材料支廠が開設され、私どもはほぼ全員が札幌に移動し新たな補給業務に着いた。琴似小学校の二教室が支廠の事務所で、下士官、兵は琴似の市街に在る薬品工場の社員寮、旅館などに分宿し、薬物の貯蔵場所として琴似農事試験場の倉庫一棟を借り業務を行なったが、東京の本廠より大量の薬物がつぎつぎと送られてきて、その処理に追われながら八月に入った。
薬物の処理業務も順調にいき、ホット一息入れることができるようになった八月十四日、「明日の正午に天皇陛下の重大なお言葉がある」との通知を受け、心に不安を感じながらも十五日の当日を迎えた。
正午、支廠長以下全員でラジオから流れてくる陛下のお言葉を聞く。雑音が多く聞きづらい点があったが、次第に戦いに敗けたことがわかると、啜(すすり)泣きが始まった。やがて全員に波及し、号泣して崩れる者、叫ぶ者、一時は半狂乱の状態が続いた。そのうち抜刀して立木に走り寄って若木を切る者が出るなど、騒然たる中で支廠長は只無言で嗚咽(おえつ)している。下士官風情(ふぜい)の私の立場では支廠長の心中を察するのみよりない。
己自身を振り返ってみると、昭和十三年九月十二日に始めて兵役に服する召集令状を貰い、第七師団第二十八連隊に入隊した。翌年四月、北支に派遣されて実戦に加わり、十六年十月に召集を解除されて帰郷したが、再度十八年十二月に召集を受け、今日に至っていた。これまでの足掛け七年の兵役は何のためであったのか、二十三歳で軍人となり、戦いが終わった今三十歳、国のため妻子を犠牲にしてきたことをどう考えればよいのか、真に残念の一言に尽き諸々のことを合わせ考えると無念至極と言わざるを得なかった。
翌日の十六日「米軍が来る」ということで、軍刀、肩章などを返納して軍服(……?)だけの姿となる。
十六日から十七日に掛けて米軍は小樽に上陸し、昼夜兼行で多くの兵が軍用車で札幌に入って来た。私は琴似小学校の窓から、国道を実に堂々と進んで来る米軍の進軍を身を縮めて見ていた。
米軍の到着後、直ちに、武装解除の確認を受けると共に衛生材料、薬物など医薬品の確認検査も受け、薬物、消耗品などは日本側に返されたが、レントゲン、顕微鏡は没収された。
残務整理の業務を当分の間行うことになったが、これが実に大変な苦労をする破目となった。薬物などは幾度となく、在庫調査をするのだが、その都度数量が一致せず、一番困ったことは特に木綿ガーゼの持ち出しが多く、皇軍と言われ、規律に厳しかった軍人の姿が消え失せて無くなってしまったことを、実態に依ってまざまざと見せられたものである。
残務整理は二ヶ月余りを要したが、整理が済んで、十一月九日我が家に帰って来た。
昭和二十年は大凶作で、妻は私の留守を守り、水田一町歩を作付したが米の総収穫量は十二俵で、飯米は確保したものの翌年の種籾は本家から借用するという有様だった。分家三年目で丸裸になった。
日本も新しく再出発したが、私も三十一歳で、改めて一から出直すこととなったのであった。
終戦の日前後の社会変化の目まぐるしさと、私自身の境遇の大転換を思い返すと、複雑微妙な思いが込み上げてくるこの頃である。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉