郷土をさぐる会トップページ     第12号目次

静修開拓の足跡(そのU)

上山 佳子 (昭和十九年二月三日生)(四十九歳)
(うえやまよしこ・旧姓田中)

「開拓に夢を托して」
私の人生の原点は、本町(当時は村)静修開拓の地、そこにあります。
地獄絵巻のような、東京の焼野原から逃れる様にして、北海道の開拓地に夢を賭けた父と、未開の地での生活の不安を胸に一杯に、当時一歳と六ケ月の私を背負った母が、辿り着いた地それが当地です。
父田中兼雄(三十二歳)、母キヨ子(二十五歳)の秋の事です。と言っても静修開拓に生活の根をおろしたのは、それから二年後のことで、当時の新聞広告に載っていた「開墾された農地」とは正反対の熊笹と大木の繁った原始林のままで、道路もなく、川伝いに歩いて、ようやく割り当てられた土地に辿り着いた様な状況でした。
本町に着いた当時は、江花青年会館での仮住いでした。その当時お世話になった江花部落の人達の話は、物心のついた子供の頃からよく聞いていました。
私の記憶では、時に、鮮明に、又ところどころは、子供の頃に父母から聞いた話とが、入り混じっている箇所もあります。
ネルの一重着に、近所のおばあちゃんに作って貰ったトウキビ皮の草履を履いて、首に昼弁当を結び付けて、朝靄の中を歩いて行った思い出があります。
江花部落の小高い山の上(現在大友氏宅より五十米下)の火の見櫓の前を通って、山越えをして江幌溜他のある処に降りて、静修道路に出て開拓地へと一年半程通いつめたそうです。
帰り道は、夕陽が沈んでから、来た道を片道二時間五十分位かかり、帰りだけは父の肩車で居眠りをしながら、仮住いの江花青年会館に着いた頃には、午後八時を過ぎていた様でした。
仮住まいのすぐ近くの所に、大きな松の木があり、日が暮れて、小屋に入りそびれた鶏達が、松の枝に止まって「コ・コ・コッ」と鳴く声を、夜霧の中に聞いて、とても不思議な気持ちになると共に、妙にホッとした安心感をもった事を覚えています。
開拓地に入って二年目に、静修二部落にあった中沢澱粉工場の乾燥場の一隅に、次の仮住まいを移し、ようやく開拓地に近づくことが出来て、本格的に鋸と笹刈り鎌、荒地鍬での開墾が始まったのでした。その頃、両親が私とは別な食事をしているのが気になり、鍋の中身を内緒で食べた記憶があり、それが後になって判った燕麦粥(えんばくかゆ)でヌルヌルしていて塩味がした事を今も覚えており三歳の時の思い出です。其の後、開拓地に茅葺き屋根の丸太造りの掘っ立て小屋が建てられました。
「開拓小屋での生活」
掘っ立て小屋の入口は筵を下げただけの粗末なもので、土間には鶏が数羽同居していて家族の副食となり命を繋ぐ糧でもありました。
その奥に板の間に筵を敷いた部屋が一間あって、煎餅布団にくるまって天井板のない茅葺き屋根の隙間から見える星の光や、冷たい粉雪の舞い降りて下る様は、別世界からの使者の様に思えました。
同じ様に仮住いをしていた人達もその頃入植した人達で、十二戸の開拓部落を形成することになるのですが、その内の一戸の家は水を汲む川も近くに無く、悪条件での生活に見切りをつけて、他の地に移って行った為、間もなく十一戸の部落となりました。
その後、樺太からの引揚げ者、既存農家経験の次男、三男の人達五戸が入植して来ましたが、農業経験のない人達の指導的役割りを果す羽目になった父でした。
木を切り出しては熊笹を刈り、火入れをしてから、一鍬掘り起し、それを解(ほぐ)して笹の根を拾い出し、南瓜、薯、蕎麦(そば)の種を蒔き、自給自足の生活が続きました。然し人の力で拓かれる面積には限りがあり思う様に拡張する事は出来ませんでした。
農産物を売却して生活が出来る様になったのは、暫らく後のことで、木を切り出し、棚薪にして売り、冬期になると父は木材山で働き、雪どけ前になると浜の鰊漁の盛んな折りは出稼をして生活費を得たというような苦労の連続でした。
又生活物資はみな配給制で、政府発行の数量限定の商品券の様なものを持ち、リュックサックを背負った徒歩で一日がかりの買い出しは、母達女性の仕事でした。時には歩行距離を少なくするために山越しをして美馬牛駅に行き、そこから汽車に乗って上富良野駅で降り、市街で用事を済ませたりもしました。
当時は長靴などは容易に入手出来ず、軍の払い下げられた大きな防寒靴を履いて歩いた足の重さは、今も忘れられないと母は語って居ます。
そして昭和二十三年四月、弟敏雄が誕生しました。相変らずの掘っ立て小屋暮しの中で生れた小さな命を取り上げて呉れたのは、既存農家で小金貸しのお爺さんでした。次に生れて来る筈だった弟は、助けの手を待つこともなく生れる途中で亡くなってしまいました。
その後妹二人、弟二人が生れ、いづれも助産婦のおばさんが取り上げて呉ました。大雪の満足な道のない季節は、それだけで生と死を分けてしまう時代でもありました。

最盛期の静修開拓部落配置図(昭和30年)    省略


「死刑囚の籠城」
すぐ下の弟敏雄が生れて間もない昭和二十三年の秋近い頃と思いますが、今でも想い出す度に、身の毛もよだつ、ゾーツとする様な突発的出来ごとがありました。
網走刑務所を脱獄した死刑囚が、逃亡中、芦別で農家の人と警察を殺傷した後、山づたいにあちら、こちらと身を隠し、山を降りて来て、私の家が籠城の的となって恐怖の数日を送りました。
今の様に電気、ラジオ、テレビ等の情報網などない頃の、まして開拓地でのことなので、下手に騒ぎ立てる手段もないし、その余裕もありません。
「殺人鬼が芦別山中に逃げ込んで、静修部落に立寄る心配もあり得るので注意する様に」と伝達が届いた時は、既にその殺人鬼は我家に立て籠もって居ました。頭に深い手斧傷の跡が残って居るその男は、樵(きこり)をしていた頃に、仕事仲間と喧嘩した末、相手をあやめたのでした。刑期中に脱獄して、網走から山中づたいに、逃げ通し、日高山中を越えて芦別まで辿り着いて、農家の畑で西瓜を食べているところを咎められて、逆上した彼は農民の人々を殺傷して逃げたということでした。途中一度は捕まりそうになり、その警官にも手傷を負わせて逃げのび、我が家の近くにある落葉松林の坂を、熊の様に舞い降りて来たのでした。
その男が逃亡中の殺人鬼罪人と知って、空手の心得のあった父もさすがに色をなくしました。一宿一飯の恩義を感じてか、特に家族に危害を加えそうな気配はありませんでしたが、然し家中の刃物をしきりに研いでいる脱獄囚の姿を見て、家族の身の安全を考えると一眠も出来なかったそうです。
逆らう事さえしなければ、危害を加えないと考えた父は、男に「この儘、此処に居てもやがて追手がやって来ると思われるので、罪を重ねずに身の為を思って自首する様に」と説得しました。
男も考えた末に、迷惑を掛けるからと自ら開拓部落を去り、警察に出頭したそうです。
「死刑にするのなら何度でも脱獄する!!」と断言したそうで、何しろ刑務所の鉄格子を手で曲げる程の力持ちだった様です。自首する前に、母の作った人参の一杯入った五目御飯を、お櫃の中を覗き込みながら食べている姿に、「何て行儀の悪いおじさんなんだろう」と思った事を覚えています。その自首した後はどんな生涯を送ったことやら、ふと思う事があります。
その後、山火事があり、数少ない家財道具を畑の真中に筵を敷いて、その上に運び出し、布団にくるまって野宿した恐怖は、今でも度々夢に見ます。
幸い開拓小屋の焼失は免れましたが、この小屋も私が小学校に入学する頃には、漸く角材を使った柱と柾葦屋根の家に建て替えられて、掘っ立て小屋での生活は終わりました。
「開拓地と馬」
開拓地に共同使用の名目で、軍馬の払い下げがありましたが、一、二頭の数では全戸の役に立つには程遠く、全戸が馬耕可能になったのは数年後で、始めて我が家に馬が着いた時は、大切な家族が増えた様に覚えて感動したものでした。
始めて私が馬に触れたのは、小学校四年生の時で、何度も乗馬を試みましたが脚が届かず、馬が嫌がって、脇腹を噛みつかれてしまいました。
私と馬との関わりは、その様な事から始まり、江幌中学校卒業後は、病に倒れた父に代り、母とまだ幼かった弟、妹の力を借りながら農業を続けました。人馬一体となって、葛藤の年月を経て、昭和四十年、弟の卒業を見届けてから、第二の人生に旅立つことになりました。
こうして長男である弟敏雄は、好むと好まざるとに関係なく、開拓二世の役割を継ぐ事になるのでした。
「開拓部落の終り」
折角弟敏雄が営農の志をついで、静修開拓の発展に勤めた矢先でしたが、開拓二世の成長と共に、チラリ、ホラリと離農風潮の萌しが現れて一軒、二軒と離れ始めました。残って居た農家は、離農地の売買で二戸分、三戸分の農地を確得し高度成長期の波に乗って、今まで文明、文化とは程遠い様な開拓地に、漸く大型機械を導入し、国の補助金等で耕地整備がなされて、大規模機械化による営農となりました。
その後昭和五十年代に入り、オイルショック、農産物の自由化、設備投資と収入のアンバランス等悩みごとも多く、数々の苦難を乗り越えて営農事業に取り組んで、開拓二世の役割を幾分果して来た弟敏雄も、遂に先行き不安を感じて昭和六十三年住みなれた静修開拓の地を離れて転職にすることとなりました。
四人の弟妹が産声を挙げた静修開拓の地に思いを馳せる時、かつてそこでの生活、苦難の記録を留めるかの様に家近くの橋で最近架け替えられた永久橋の名に「田中橋」と名を付けられ、志半ばで病に倒れ、長い闘病の末に他界した亡き父へのせめてもの供養塔に思えて、また一つの時代の流れを物語って居る様で感慨深いものがあります。
昭和二十年九月終戦後開拓の話が持上ってより、弟が最後の開拓者の様に残って営農につとめ、そうして昭和六十三年春に離農するまで、四十数年間の静修開拓事業は、先の清富開拓部落の様に部落の名前も消えて行くのだろうと思うと淋しい気持ちになります。

機関誌 郷土をさぐる(第12号)
1994年2月20日印刷  1994年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉