郷土をさぐる会トップページ        かみふ物語目次ページ

うるわしきふるさと上富良野

本町区 加藤 清(六十歳)

上富良野町の観光資源の開発については、夫々の経過等の記録が公表され書物として残っていますが、一般に知られていない面で観光開発に貢献なされた方々のご労苦を偲び、又、これ等に深い関心を持っておられる方の歌や詩を集録し、之に幻灯写真を加え「うるわしきふるさと上富良野」と題し観光篇の構成吟を篇集いたしました。

上富良野町は、北海道の屋根といわれる大雪山系十勝岳連峰と芦別連峰にとり囲まれた、富良野盆地の北東部に位置し美しい自然と地味豊かな穀倉地帯で、人情味の厚い純農村であります。
明治三十年四月十二日草分の地に、三重県人により開拓の鍬が打ち下されてから八十余年の歳月を閲みしました。
観光地として我が国最大の山岳公園の南部十勝岳連山は、自然の姿を保ちその雄大さと四季おりおりの美しさは、訪れる人々をして深く印象づけ今や全国一の自然のまゝの景勝の地であります。
― 歌 ―            和田 耕人(松ヱ門)作
    ○ 十勝嶺の 山ふところに 抱かれて
           栄えゆく町 わが上富良野

    ○ あかね空 余光のとゞく 十勝嶺は
           厳かにして 静かなりけり

― 詩 ―
    ○十勝岳        松崎竹教(輝登)作
       噴煙蒼穹に 白煙となり
       峰尖茜して 雪炎舞う
       威あれど猛からず 十勝岳
       万客来り遊びて 神秀を讃う

    ○安政火口を請える  加藤国僚(清)作
       幽谷の果一る処 旧噴の泉
       雲上の花園に 天女の舞
       噴煙を眺望して 霊泉に浴す
       白雲は天に拡がり 夕陽に映ず
十勝岳観光開発の先駆者として、明治四十二年以来自ら山を踏査し岳人が来ると必ず同行して登山、山と仏の道をむすんで上富良野の霊山にしようという聞信寺住職故門上浄照氏の悲願で、その先見の明と旺盛なる実践力を高く評価しその功績を後世に伝えたいと思います。山の句碑の建立は、総べて氏の息のかゝったものでヌッカクシフラヌイ川の勝鬘の滝、維摩の滝、法華の滝及び荒陵の池等も発見、命名されたものです。門上氏と深交のあった方で旭川市慶誠寺住職石田雨圃子氏は、俳人であり山をこよなく愛し殊に雄大なスケールと優れた景観に魅せられ、登山されていました。次の句は今の演習場入口附近で作られた晩秋の十勝岳を讃えたもので紹介いたします。
― 俳句 ―           石田雨圃子作
     秋晴れや 雪をいただく 十勝岳
夏は登山、冬はスキー場として、十勝岳は益々有名になったが本十勝の頂上に山霊として表現する碑を計画、昭和十二年二月西本願寺の法主大谷光照貌下がスキーに登山された機会に、山頂の霊とすべき碑の揮毫を、時の村長金子浩氏が懇請したところ「光顔巍々」の四大文字を揮毫されました。昭和十七年七月門上氏の尽力によって花崗岩の三角柱の石に刻りこみ、本十勝の頂上に建立されました。建立にあたっては、優秀な青年十五名が選任され急峻な道なき泥流の跡を人力で搬送し苦労されたわけです。
長谷川零餘子氏の碑
有名な俳人長谷川零餘子氏が、一度北海道の馬橇に乗りたいと云われたことを、石田雨圃子氏から門上浄照氏に伝えられ十勝岳を推奨されました。大正十二年三月二日石田雨圃子氏と共に長谷川零餘子氏を吹上温泉に案内されました。
当日十一時市街地を出発、大雪のため道は難行を極め橇をひく馬も発汗甚しく、大曲がりからは一〇米進んでは休み又進むと云う状態で雪は益々烈しく降り続き、視界は全くきかず黙々と進む馬橇の中で詠まれたのが次の句であります。
― 俳句 ―
     喰うものに パン二つあり 橇の中
こうして悪条件の中を進み、夜半十一時過ぎ温泉旅館に辿りつき、翌三日朝食をとって廊下を歩きながらできたと云って半紙にサラサラと書かれたのが次の句であります。
― 句 碑―            長谷川零餘子作
     鬼樺の 中の温泉に来ぬ 橇の旅
この句碑は門上浄照氏のお骨折により、翌十三年元吹上温泉玄関横に建立されていましたが、戦後長く草の中に埋まっていたものを、本年(昭和五十三年)九月町で白銀荘前に移設されましたので、山を訪れる人々に往時を偲ばせてくれます。
十勝岳の大爆発
大正十五年五月二十四日午後四時十七分、十勝岳硫黄山の大爆発により、一瞬にして一四四名の尊い人命を奪い、数千町歩の森林美田沃野を流出し、巨万の財物を流出した惨事は、今尚記憶に新しいのであります。町では昭和五十年五月二十四日、厳粛な五十年忌の法要を営み、横死者の霊を慰めました。
― 詩 ―
     ○十勝岳爆発      松崎竹教(輝登)作
        噴煙激ようす 十勝岳
        夜来断続 爆発起る
        火焔は騰々として 雷閃を招き
        黒煙竜の如く 九天に昇る
        草木は騒然として 啼く烏もなし
        衆心恟々として 唯傍観す
        万衆の猛威 応に鎮め難く
        嶽神り威容 万人希う

     ○十勝岳爆発回顧   加藤国僚(清)作
        自然の猛威 抗するに術無し
        美田沃野 泥海と化す
        爾来 風雪五十年
        田畑は復旧して 生業に安ず
九条武子歌碑
昭和二年九月四日、九条武子夫人が北海道仏教婦人大会に出席、旭山公園にお出になり、途中中天高く噴き上る黒煙を遥かに眺望され、十勝岳大爆発横死者の霊の安らかならんことを祈って歌われた歌の揮毫を、門上氏が檀徒の方の協力を得て噴出した自然石に彫刻し建立したのであります。この碑の除幕式には、西本願寺の法主で武子夫人の兄にあたる大谷光明貌下が乗馬で出席され、旭川中学校柴原先生のご令嬢千津子さん(当時八歳)が幕をあけました。
― 歌 ―           九条武子夫人作
    たまゆらの 煙おさめて しづかなる
         山にかえれば 見るにしたしも
十勝岳爆発の供養碑
大正十五年の爆発の際、平山硫黄鉱業所を主体とする火口附近と、丸谷温泉経営主丸谷捨吉氏外の横死者は現地で火葬されその残骨を収容して、白銀荘から泥流地帯に出る小高い展望のきく風景の地に供養碑が建立されています。
当時は堂があって碑は中にあり記念堂と言われ、佐上信一長官が昭和七年三月十二日登山、一日大吹雪に逢われ長官の即興の歌が記念堂の柱に刻まれていました。
― 歌 ―
    吹雪して あやめも分かぬ 吹上の
         空に聳ゆる 大十勝かな
白銀荘・勝岳荘
昭和四年国立公園に指定され、当時の一級初代村長吉田貞次郎氏は、北海道庁長官佐上信一閣下を迎え十勝岳のよさを認識していたゞき昭和七年十二月道立としてヒュッテが建設され、佐上長官が白銀荘と命名されました。その後村でもヒュッテを建設、勝岳荘と命名、姉妹ヒュッテとしてスキーの基地として広く利用されています。
昭和四年三月二十四日、オーストリヤのサンアントスキー学校初代校長ハンネスシュナイダー氏が十勝岳で辷り東洋のサンモリッツであると賞讃され、雪質は日本一と折紙をつけられスキーのメッカとして十勝岳が全国に紹介され、一躍有名になりました。
十勝岳は雪質積雪ともに恵まれ、前十勝から泥流跡の急斜面の豪快な滑降、又、純白の粧をこらした三段スロープは静寂な針葉樹林内の爽快な滑走や、すばらしい樹氷地帯はまさにわが国最高のスキー場であると絶讃を受けています。
三段スロープは昭和四十五年一月、国設スキー場として林野庁より指定されました。
当時、村民こぞって歌われた十勝岳小唄を紹介いたします。
十勝岳小唄      清水良一作詞 中野熊雄作曲
一、咲いたつゝじややぶ鴬が
   送り迎えるバスの中
   谷間づたいに床しい香
   靄は吹上湯元から

二、深い緑や白樺林
   越えりゃ這松花畠
   燃ゆる想の切ない胸を
   君に見せたい地嶽谷

三、今は昔の噴火の跡を
   廻りゃ湯河原滝の音
   映ゆる紅葉の林を超えて
   黄金波うつ水田も見える

四、意気で登ろよ元気で行こよ
   名所スキーの十勝岳
   三段スロープ小雪に暮れりゃ
   姉妹ヒュッテが君を待つ
産業開発道路
十勝岳温泉に通ずる産業開発道路は、名誉町民二代町長海江田武信氏が悲願として計画されたもので、雄大な十勝岳連山の麓中茶屋を起点として原始林の中を開さく、自衛隊の部外工事として三〇八施設隊が主体となり、各施設隊の協力を得て、昭和三十六年着工以来あらゆる困難を克服、六ヶ年の歳月を経て昭和四十一年全行程十粁餘の開発道路が開通、その後道道に昇格、路面も拡張され年次計画で舗装がなされています。
国民宿舎カミホロ荘
道路の開さくと併行して国民宿舎カミホロ荘の建設が計画され、標高一、一〇〇米の赤エゾ松の母樹林の中に瀟瀟洒な施設が建設され、昭和四十年十月八日開館町民等しく宿舎の完成を喜び、憩の場とし登山の基地として、広く全国民から利用されています。
― 詩 ―
   ○秋の安政火口        加藤国僚(清)作
      神山連峰 紅葉鮮なり
      冷涼たる秋風 脚底を吹く
      上幌の峭壁 白雪を頂き
      噴煙は雲となり 蒼穹に拡る

   ○祝竣工カミホロ荘      黄田梅栄(義栄)作
      浮雲一片 新荘に有り
      紅葉相和し 秋光鮮なり
      無限の宝泉 睡夢より醒め
      深山殿堂 方海に及ぶ

   ○カミホロ荘に宿して     坂東賛水(幸太郎)作
      山川草木 自ら公営
      十里切りひら く温泉帯
      神幌荘裡 大衆が楽む
      是れ天是れ神是れ人生

― 歌 ―
      秋晴に 浮き立つ色も 美しく
          都の民をさそう カミホロ
凌雲閣
安政火口周辺の開発については、山を愛し山に生き、山の開発に生涯を捧げ、旅館凌雲閣建設にあたって、道なき道を言語に絶する苦難を重ね建築資材を運び、昭和二十八年七月から営業を開始した故会田久左衛門氏、協力者として物心両面から応援した故菅野豊治氏の功績は誠に大きいものであります。会田氏の功績を偲び、山男達が安政火口にケルンを建立し、昭和五十年八月七日除幕しました。会田氏の資材が到着した時の喜び、苦難に直面した時の心境をケルンに刻んだ歌で紹介します。
― 歌 ―
                 会田清洞(久左衛門)作
    ○巻き上げる 尚巻きあげる薮道を
         資材登りぬ 喜びに湧く

    ○風に叩かれ 吹雪に耐えて
         岩に根をまく 松の幹

    ○負けるものかと 夜空に問えば
         月がほゝえむ 十勝岳

  悼 会田久左衛門氏  蓑田梅栄(義栄)作
    ○山に生き 山に眠りし 会田氏の
         醒めし霊泉 共に守らん

― 詩 ―
    ○山道の果つる処凌雲閣
      石棲岳に聳えて風雪を偲ぶ
      苦節の遺績讃えるに言葉なし
      故人の本懐永久に栄あれ
詩吟国壮流家元国分国壮師は、上富良野を愛し自衛隊警務隊長として勤務され、此の間、餘暇を見て隊員はもとより一般町民に詩吟を指導され、吟詠を通じ健全な社会思想の高揚に貢献されました。
― 詩 ―
    ○かみふらの暮情    国分国壮作
      思出の町かみふらの
      われかずかずのえにしあり
      情を伝え清らにも
      伸びゆくは町かみふらの
      町人はみな吟の友
      若きも老も心より
      笑みて語りて集いたる
      よろこびは果つることなし

― 歌 ―              国分国壮作
      煙する十勝の岳ゆ見て立てば
      淡く涼しさかみふらの町
      十勝の峰はいつの世も
      かぐわしき身を寄せるなり
      ひとみ美し彼の花の
      かぐわしき香りを慕うなり
国分国仕師は十勝に愛着をもたれ、青森県に転勤後も十勝岳温泉を訪れ、黄田義栄、加藤清がお供し凌雲閣に一泊一晩詩舞の指導を受け語り明した時の思い出の歌を紹介します。
    ○凌雲閣にて       匡分匡壮作
      凌雲の閣を突く風懸崖の
      崩るゝが如く立てゝ暮れゆく
      深海の岩に吸わるゝ如くして
      凌雲閣耐えて建つるも
上富山荘
東に十勝連峰を望み、眼下に上富良野町が絵図のように美しく広がる。標高一、二八〇米の位置に防衛庁共済組合では十勝青年隊員の家「上富山荘」を建設。昭和四十二年十一月一日から使用を開始、夏山登山コースの起点として、冬の山岳スキーの基地として、自衛隊員の訓練に、又、一般にも開放し山を訪れる方々の利便を図っています。
― 歌 ―    二代駐とん地司令 小林敬四郎一佐作
    ○かっこうの 声澄む嶽に 雲湧けり
    ○十勝嶺に 秋砲韻の 日を刻む
十勝岳産業開発道路の開さく完成を記念し、九代第二師団長渡辺博陸将が自作の歌を揮毫されたものを温泉広場の自然石に刻んだものを紹介いたします。
   ○防人の 若き力を たぎらする
        春あけやらぬ 十勝の拓道に
日新ダム富源の湖
十勝岳に源を発する各河川は、強度の酸性を有し、年を経るに従って農作物に与える被害も甚大となり、毒水を真水に切賛える事こそ農民を救う唯一の道なりと、昭和二十七年毒水処理期成会を結成し、時の町長田中勝次郎氏を会長に仲川善次郎氏外役員が一丸となって関係官庁への陳情請願等根強く続けました。
昭和三十一年始めて調査費が認められ、以来、毎年開発局に於いて各種の調査試験と研究がなされ、その結果真水切替のダム建設計画が樹てられ昭和四十年度予算に始めて待望のダム建設予算が認められました。自来、毎年旭川開発建設部のもとで工事が進められ昭和四十一年八月起工、昭和四十七年十月、七ヶ年の歳月を用して全工事の完成を見るにいたったのであります。
毒水の悪条件に苦しんだ六十余年をかえりみ、この感激を後世に伝えんため、関係者の誠意を結集し協賛会を組織して「富源の湖」と称し日新ダム建設記念碑を建立しました。
新緑の山々に包まれた湖水には清水が充満し、十勝岳連山が湖面に映じ、その景観は絶景であります。この富源の湖の水難を防ぎ、安全を祈願するため、小樽水天宮より御分霊をいたゞき守神としました。社殿は黄田義栄氏が心血を注いで造営されたものであり、その優雅な出来ばえは一段と光彩を放ち、産業開発と併せて観光価値を高めています。
― 歌 ―
                  初代ダム事業所長 勝俣 f作
    ○ダムに注ぐ 今日の努力よ 水面に
       十勝の峯の 映える日にこそ

                  石川清一作
    ○毒水を 真水に変える 動きこそ
       町七十年の 願いなりけり

― 詩 ―
    ○ダム完成を祝う   加藤国僚作
      世紀の大業完成の慶び
      清流充満する富源の湖
      平原の美田潅水を待つ
      十勝連山湖面に映す
深山峠
雄大なる大雪山連峰を眺望する深山峠に、新四国八十八ヶ所の霊場を誘致しようと企画された故石川清一氏は、協力者岩井清一氏外同志と共に移設期設会を組織会長となり、明治四十四年に開創され富良野沿線に散在していた地蔵尊の移設にかゝり、三年有年を要して安置を完了しました。
この霊場が信仰と健康の聖地として、観光資源の一環として発展することを念願して止みません。
― 歌 ―              石川清一作
    ○信仰に 健康観光 活したる
        深山峠の 八十八の霊場

― 詩 ―
    ○讃深山峠         印藤寿栄作
      大雄峰に往還す 諸人景勝に集う
      巍然たり盤石の碑 仏光の満ちて心を洗う

    ○故石川清一先生に捧ぐ 印藤寿栄作
      身世句忙業績の功
      成果豊潤郷土は栄ゆ
      仲秋の名月人中の華
      遺跡燦然として不滅の輝き

― 俳句 ―              岩井清一作
    ○往来を 慈顔で見守る 地蔵尊
上富良野音頭
開基七十年記念として上富良野音頭を全町から募集したところ和田松ヱ門氏の歌が採用となりました。
歌詩の内容も、名所・特産品・観光資源等、上富良野町の全貌が紹介され理解できるよう表現され、老若男女が楽しく歌い且つ踊り上富良野町の宣伝にも大きく貢献しています。
    上富良野音頭
                   和田耕人作詩
                   桑田真弓作曲
一、ハァー 深山峠の 薮うぐいすよ
   やまはむらさき あで姿
    〜ヨイヨイ ヨイトナ ソレ
         カミフラノ カミフラノ〜

二、ハァー 夢の湯けむり 夫婦の岩に
   かをるつゝじの 花ごろも
    〜   〃    〜

三、ハァー ひかる残雪 岩根をふんで
   お花畑けは花ざかり
    〜   〃    〜

四、ハァー 赤いサイロに 牧場はみどり
   牛乳が流れる ユートピア
    〜   〃    〜

五、ハァー 若いこころの 希望がもえる
   描くシュプール どこまでも
    〜   〃    〜

    = 続篇 =
一、ハァー ひばり鳴く丘 かげろう燃えて
   アスパラガスの しなのよさ
    〜ヨイヨイ ヨイトナ ソレ
         カミフラノ カミフラノ〜

二、ハァー 花もかほるよ にほひをこめて
   ラベンダー娘は きりょう良し
    〜   〃    〜

三、ハァー ホロリ苦味は 男の伊達だよ
   ホップつむ娘の 手がはずむ
    〜   〃    〜

四、ハァー やまも晴れたよ ふらのの里は
   こがね千里の いなほ波
    〜   〃    〜

五、ハァー またの会う瀬を 上富の橋で
   やまは紫紺の うす化粧
    〜   〃    〜

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛