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大正元年 大凶作と労働

江花 村上 国二(七十四歳)

大正元年、二年北海道は大凶作であった。天皇陛下より救済金を賜わり、又、救済事業が行なわれ、その時は一日二十銭から二十五銭で働いて飢えをしのいだ。秋の気候が悪く九月二十日に大霜が降った。稲は全滅し豆類も全滅、稲きび、そば等も収穫のあった者は少なく、麦と馬鈴薯の収穫しかなかった。一番困ったのは食糧であった。

大正三年は豊作で夏が暑かった。青魂豆に夜とう虫が大発生しこれが防除には方法がない。畑の中に下水を掘りそこへ虫を落し入れて下水の中の虫を焼いたが、中には天理教に御払いを頼んだ者もいたが、がなかなか各戸には廻りきれず閉口した事があった。
現在のように農薬で防除する事は出来なかった。

大正四年に江花に移住し農業をしていたが、春の開墾は馬で耕すが木の株、木の根が多くプラオで全部耕せず、後で木の株のまわりや木の根のまわりは、窓鍬で耕し鍬で土をこわし、うねを切る。
そして作業のため大きな面積を作る事は出来ない。今その昔を思うと、現在私の組内は四戸しか居ないが、大正四年頃は十三戸も住んでいた。
炭を焼く炭焼きが三戸、荒地耕しのみで生活する者、畑二町歩、三町歩しか作らず五町歩以上の者は三戸位で小面積農業が多かった。

肥料は無肥料が多く、カリンサン肥料はあったが、三反歩にカリンサン肥料一叺(かます)と言う目薬程度であった。
除草剤もなく、草を取るのに手で抜き取るのが多かった。仕事がなかなかはかどらぬため、雨が降るとミノと傘を着て休みなく働いたものである。
働いても働いても尚楽にならずで、冬は出稼ぎ、山稼ぎ等で男達は遠くへ出稼ぎに行ったのである。そして春から八月まで、収穫の金が出来るまでの家計費を働いて来た。

食事は麦が主食で、お正月かお祭りにしか白い御飯を戴けなかったので、お正月やお祭りが一番楽しかった。
夜はランプばかりで室内は暗く、家族の顔が見えるのがやっとで他は非常に暗かった。
家も草ぶきで、ストーブはなく、薪をたくろばたで座っていると煙が室内を廻り、目から出る涙をこすることもしばしばあった。

大正八年頃、フイリッピン風邪と言う流行風邪がはやって、一家が熱でうなされたが、どこの家も皆床について働けない。隣から隣への連絡も見舞にも行けず、折柄二月の大雪と大吹雪で、道路は通行する事も出来ず、全く道がない。むろん医者も来てくれず死者も多かった。

当時益田沢一と言う一家七人家族が澱粉を一升買って来て七人で毎日澱粉を食べて、一週間過ぎたらとてもがまんが出来ず隣に行って麦一升を借りて食べたら嬉しや、ぼた餅を食べたようにうまかったと云っていた。

大正の初期と昭和五十四年、七十年の歳月は過ぎたが、昔の苦労した者は次第に世を去り時代は二代、三代と変りつつあるが、昔を語る者も少なく忘れがちで、現在は何不自由ない毎日だが、これで良いのかなと思う。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛