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郷土館建設にまつわる一断片

島津 本田 茂(六十六歳)

いつの時代にも云えることとして、土台石のもっと下敷になってビクともせず建造物の支えとなっている小さな砂利のごとき存在に、案外誰れもが公式、非公式共に日常言外に及ぶものとて更になく、その苦労ばなしなど聊かも知ろうともしないもののようで、喉元すぎれば熱さ忘るるのたぐいである。
その一例として故石川清一氏が大往生する半月程の前に逆のぼった時点から始まることにする。

当時のある午後の日一時過ぎのこと(以下石川清一氏を彼という)、彼は金子小二郎さん宅に伺い酒の振舞に応じて程良く上機嫌となり、あんまり上等とは云えないガラクタ自転車に跨がり、小生の事を何で思い出したのか玄関の扉を開けいつもの調子で、「いやあ〜本田先生こんにちわ〜〜本田先生を思い出したもんだから、ちょっとお邪魔させていただきます〜」とのご挨拶が済んだ頃は既に茶の間に上がりこんでいる始末であった。
だが彼のそうした仕業がどうしてか却てわざとらしくなく好感さえ持てるのであった。彼の意志の健固さと人を制する手腕は別格で超一流といわざるを得ない特異的存在であったに違いない。

そのとき彼の曰く「歳をとって始めて知らされることだが富良野線の母村である本町に沿革を後世に伝承すべき郷土館のないのは全くさびしく漸愧に堪えない。何とかして建てる計画が出来ないもんかなあ〜〜〜」
そして彼は、当時文化財保護委員会の会長の職にあり「副会長の西武雄さんを是非茲に呼んでくれ。あの人とも是非このことについて話合いがしてみたい」と云うので、私は早速街のハイヤーを依頼し西さんに向わせたところ、間髪を容れず直ちに来てくれた。
三人で私の家の茶の間で小さなテーブルを囲み日暮近くまで刻の過ぎるのを忘れ、一級酒のオンザロックを酌み交しながら前後策を練った。
彼の曰く、本町の文化財保護委員会と文化連盟が団結して一般町民にその趣旨を徹底する外、良策は考えられないと強調して行かれた。あとで解ったことであるが、その時彼は帰途自分の自転車をいづこかに忘れて行ったらしく、それから数回に亘り電話で問合せがあった位泥酔していたのは事実である。その自転車がある日、市街の西村豆腐店の裏の鳥小屋にあったとかのエピソードも珍しい事件ではなかったようである。

爾来文化連盟に対し西さんを通じ(当時文運の事務局長であった私宛に)幾度か要請がなされてきた位彼は燃えていた。
大違業とまでうたわれた郷土館の建設に当っても、最初はこんな些細なところから産声を挙げたのだった。彼が惜しくも大往生遂げられたあかつきは、現在の西会長(文化財保護委員会)はかつての元陸軍獣医将校で質実剛健で実直な人柄と加わる年輪に対する一種の、レジスタンスからくるノスタルジアが奮起の口火となったものと痛感させられるのである。
私も文連等を通じて、事あるたびに我が座右銘「温古知新」の意義を解き、郷土館こそ現今の青少年教育に欠くことの出来ない情操教育の根源であることの理解度を深めることに努めた。
然るに世論は決してこれを良とはせず却って反逆の色彩さえ濃厚であった。このとき私は町教育委員会の村端外利現指導主事と常に密接な連携をとる一方、町長始め町内外の有志者に対し是が非でも実現を諾りたい一心であることも含めて、連日昼夜を別なく理解を求め歩いた。

或るときは疲れ果てて義足の付根から血が滲み出ることさえしばしばあり、妻がよくこんなことを口走ったものであった。
「一銭の得にもならない事に自費まで使ってまでもそんなつらい目にあわなくとも」と云われたりもした。
今にして思うに妻はそれだけ自分の事を気遣ってくれていたのである。そんなとき二、三の町議さんからも「程々にしておかなければ大火傷するかも知れないよ」と。然しいったん燃え始めた厄火は、とうてい消し止め得る状態ではもはやなかったのであった。又その春、商工会主催の花見ショウが神社境内で盛大に挙行されたが、その催事場でも各議員さんらや町内有名人の方々にアッピール、散会の宵せまるをも忘れて力説、理解を求め奔走に一身を挺したつもりである。

顧りみるに、故石川清一氏が生前奮起された事柄が今となって何物にも優る偉大なる遺産ともなり、そしてまたその偉業を伝承することの出来た一種の優悦感に浸れることの出来る現今でもある。

最後にかかる郷土館建設を促進するべく、当初発起人会結成時より完成に至るまでの間、有形無形のかくれたる存在として我が町造りに永遠の曙光を灯された町公民館長さんはじめ、社会教育指導主事村端外利先生に対し、心からなる敬意を表しつたない筆を擱くものである。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛