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上富良野今昔

中央区 飛沢 尚武(五十八歳)

昭和の初期に小学校に通いながら接した町の様相と、五十年を過した現在の変り様といったら、正に月とスッポンといいましょうか、全く比べ様がありません。私達が上富良野小学校に通った頃は、今の二線校舎が新築されたばかりで窓が二重になったといって、そろそろ家庭にもと、話題になった頃でした。

当時通学の時も末だ鉄道用地も全面解放になる前でしたので、畑々という時代でした。
通学の時は国道から今の青柳商店の処で富良野方面に曲り、今の通学道路に出て通いましたが、たまたま近道をして、今のロータリーの処から通学道路といっても畠の中の作物の間を通り、途中で友達とふざけ合ったりしたら、もうその辺は大いに被害をこうむり迷惑をかけたものです。
然し学校には年に一回位もあったでしょうか、その苦情が!その畑の処を越えて少し南によると、もう湿地で、今の多田精肉店(平成十七年現在駅前通に店舗を移転している)の裏から国道(平成十七年現在国道バイパス開通により道々となっている)までは低地で湿地がほとんどでした。又冬季間は鉄道線路沿いに吹いて来る風の冷さといったら本当につらい道でした。我々子供同志で満州街道といっていた位でした。

一方上小グランドと神社の裏手一体が学校農園になっており、学校のトイレから人糞を天秤で畠迄かついでゆき農業実習をやったものです。その作物を秋には街に行って売ったりしました。
その畠に引続き処々に丘、バラス(砂利)を取った穴が出来ており、その穴に満々と水が入っていて、それが我々子供達の水遊びの場であり、一ヶ所が濁ると次の穴へ移り又次の穴へと、遊び場には事欠かぬ良き時代であり、良き環境でした。それですから当然人家もほとんどなく温泉道路(現在の道々吹上上富良野線)にそい僅かに在る位で、サッポロビールの工場が今も名残りを留めているのがなつかしく感じます。
又青柳商店の前に湧水が流れて来て、その水を木桶に溜めており、常に水槽から流れ出ており、近所の人達の用水であった様ですし、又学校帰りに我々のかわきをいやしてくれたものです。

一方市街地の中心街は今の位置と変わりませんが、道路は真中だけはバラスを敷くが両側はぬかるみという状態で、それぞれの家が苦労して通れる様にしたものでした。従って排水溝等も杭を打ってその外側に板を張り、土溜めをするというやり方で、その上に板を置いて蓋をしてあるだけのもので、本通りでその程度ですから裏通り等はおして知るべしという状況でした。大雨の時は大変でした。市街地の中心ともいうべき駅前通りの国道に水があふれ出るという始末だったのですから。

私の父は医師でしたが、余りにも上富良野という処は天然の環境の良い割には結核が多く、住宅状態も悪く、常に窓を多くするか大きくしなさいという話をしているのを聞きました。又栄養も悪いので或程度自給自足を考える意味で酪農をやりなさいという事をPRしておりました。そしてそれには自分もやってみせなければという事で、家には牛も馬も豚もめん羊も山羊も鶏も七面鳥からロッペン鳥まで飼っておりました。そして鶏は白色レグホンの人工孵化をやり、その卵の処置に大変苦労をしていたのが思い出されます。
そして牛の方でも、道から貸付牛をもって来て、その代金を村役場に肩替りしてもらうべき心算が駄目になり、牛はもう農家に渡してしまったは、中にはその牛を売って金にかえて村を逃げ出した者も居るわけで、遂に我家に執達吏が来て差押えというはめになり、父が何処からか金を都合して来て、どうやら半日の劇で終った等という苦労もしていた様です。

馬の方は往診の為に常に替え馬が必要であり、馬小屋には四、五頭の馬がいた様でした。中には種馬や、競走馬も居たりして、従って騎手やら馬丁さんやら牛の方から何やらで常に若い人がおり、そういえば、素人相撲の興業等にも行っていた様でした。勿論これらの事は全部人まかせという事でしたので、叔父だとか、義兄だとかが頭でやっていた様です。従って私達子供も自由に乗馬も楽しみましたし、冬は馬橇を引き出して遊んだものでした。そして見つかったら『いざ往診にゆくときに、馬がつかれていると駄目だ』といってしかられるので、使っている人にゴマをすってこっそりとやる訳ですが、往診というのはいつあるか判らないので、これ又性こりもなく良く見つかりました。当時は少し位だもの良いではないかと思っていましたが、今思いますと、家の父は常時三十貫位の大男で、それが馬の背にまたがると、馬の背がギューと下に下がる様に見えたものです。然も何軒もの家を廻るのですから、どうしても一日二頭位は必要であった様でした。
ところがとうとう往診の帰り道で馬を乗りつぶしてしまい、馬のおとむらいをやった事もありました。

それから自動車を購入することになった訳です。従って上富良野では一番早く自動車が入った事になります。そして今の駅前に車庫があり、当時吹上温泉をやっておりましたので温泉旅館との定期便をやった訳です。自家用車二台とバス一台でしたが、懐しいバスで、いわゆる子供の歌に出て来る、あの『田舎のバスは……』というあれです。そして馬とオートバイと自動車を使いわけでやっておりましたが、父が死んで権利を大印自動車に売り、それが道北貨物から電気軌道になった訳です。
今では吹上線が町営ということで、この一つをみても五十年という歴史がこの様な変り方をしている訳ですから、正に目を見張るものがあって当然なのでしょう。

もう一つ忘れられない事の一つに上富良野の神社の祭典がありました。常に沿線一のにぎわいでした。いわゆる見せ物が六つも七つも立並び、客を呼び込む声にさそわれ、浮かれて一日遊びほうけたこと、又神社の横、今の中学校から自衛隊官舎の方にかけて競馬場があり、草競馬が毎年行なわれたものでした。そういう事も戦時中馬産地と知られた上富良野の一面があったのでしょう。私も上富良野で生れ、町中ほとんど知らない家がない位でしたが、近頃は余りにも知らない人が多くなり、年月の重みと共にとまどいを感じる様になりました。

それにつけましても益々の町の発展と町民の皆様の御多幸を祈ってやみません。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛