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馬の思い出(上富良野と馬)

本町区 加藤 清(六十歳)

上富良野町の開拓の歴史をひもとく時、先人のご労苦と共に馬の果した役割は非常に大きい。開拓の当初は牧場として、土地の貸与を受け、牧柵等を設け牛馬を定められた数を飼養して附与検査を受け、その後農場に改められ、開墾が進められました。北海道の農業はアメリカ農法がとり入れられ、馬によって開拓されたといっても過言ではありません。今年(昭和五十三年 執筆時)は午年です。馬に因んだ思い出を綴ってみました。
馬との出合い
私は農家に生まれ、父が無類の馬好きで幼少の頃よく乗馬で鞍の前に乗せて貰ったものです。その感化を受けたせいか馬が好きになり、小学校四年生ごろのある日、雨上りで馬があいていたので、苦労して鞍をおきやっと乗って得意になっていましたが、豆殻の積んである処まで行くとそこで止り、叩いても、引いても、全く動こうとせず豆がらを食べ始めました。父は近くで作業をしていましたが、見てくれません。その内に秋の日は暮れかけ小雨が降り始めたが、父は見てくれません。馬を放して帰るわけにもいかず、子供心にも馬と根くらべをしようと思い、手綱を持ったまま馬の前で半べそをかいている処へ、父が迎えに来てくれ、やっとの思いで家に入ることができました。父は若い時代から馬好きな反面、気の強いところもあって、馬がきかないので耳にかみついた話なども聞かされました。
晩年はお寺の世話をしていて、檀家廻りの時は、よく乗馬で廻っていました。私もこのような環境の中で育った為か馬好きになったのではないかと思っています。
職場と馬のつながり
学校卒業後、役場に職を奉じ勧業係(今の産業課)として勤めることになったが、当時の職員は、村長以下十八名で、家族的な雰囲気の中で勤めておりました。昭和十一年四月、職務替により馬籍係となり、馬籍の処理中、馬の血統、産地等を見るのに興味をもち、馬に関係のある仕事が楽しく愉快な日々でした。上富良野は育成地として道内屈指の村で、毎年牡馬(二才時産地から購入)二〇〇頭余り移入し、牝馬(雌馬)も繁殖用として、血統のすぐれた優秀なものが飼育され、毎年一〇〇頭からの仔馬が生産され入籍のため、出生届を出すことになっていました。届出の際、馬名を考えていない方が多く、私に馬名をつけてくれと言われる人が多く、得意になって馬名をつけてあげたものです。
馬の去勢
二才で産地(十勝、釧路、根室管内)から購入した牡馬が、明三才になると馬匹去勢法により、種牡馬候補以外は、全部去勢の手術をうけることになっていました。去勢した馬は性質も従順となり、農耕に使いやすくなるわけです。馬の去勢はかなりの荒作業で、鼻捻子をかけ、これを頼りに検査、消毒、手術等を実施しますが、気の荒い馬がいて鼻捻子だけでは保定できないので、尻尾をロープで縛り、立木に吊り上げ手術した馬もいました。手術は村の開業獣医が道庁から去勢技術員を任命されて、去勢作業を行うわけで、絶えず危険の伴う作業で、緊張のし通しでした。手術後は期間を定め、術後の治療を実施するので、六、七、八月の三カ月は、一月のうち、半数は馬市場で勤務しました。
地方馬検査と軍馬の徴発
毎年一回農耕馬全部を対象に、第七師団の地方馬検査が実施され、軍馬としての適格馬には馬籍簿に赤い紙が添付され、常に異動を明確にし届出は厳守されていました。
昭和十二年八月、支那事変が始まって、始めて二〇〇余頭の大量の馬が徴発され、暑い時季なので馬の損傷を防ぐため、夜間引馬で旭川第七師団迄輸送しました。
軍馬購買
軍馬の育成地としても、北海道では深川市と肩を並べて盛んでありました。支那事変前は毎年、年一回秋に定期軍馬購買が実施されていましたが、支那事変勃発後は、臨時購買が実施され買上数も毎年増加し、育成者の現金収入も増加し、軍馬成金といわれる方も多くなりました。購買になると代馬を購入育成調教して、農耕に使用するほか、軍馬としての適格馬を育成、毎年の定期・臨時購買に出場、きびしい検査を経て、合格すると買上げとなるわけです。
当時は、南は占冠村から、北は美瑛町迄、沿線七力町村の馬が、上富良野町に集まり、出場し購買当日朝六時迄に引付、今の上富旅館前から東二条通りを町立中央保育所の辺り迄、道路上に横隊に並び、購買官首座が検査仮合格馬に紙札、合格すると木札が轡につけられ、精密検査、騎乗能力検査等きびしい審査を経て、最後に買上価格の発表となります。その際の返事は「諾」と答えるよう指導され、諾の一声で買上が決定します。昭和十二年頃は、地方相場二〇〇円程度の馬が将校乗馬として合格致しますと四〇〇円から五〇〇円に評価され、買上になりました。したがって、軍馬としての育成技術もすすみ、代馬を購入する目も肥え、多頭数軍馬として買上になることを一つの名誉としていました。馬の飼育頭数も増加し、農耕に使用しながら軍馬としての適格馬を飼育するようになり、村の馬の飼育頭数も増加し、育成技術も向上しました。
馬の飼育頭数
明治四四年 一、一八四頭 大正一五年 一、二三七頭 昭和一四年 一、四二七頭
〃四五年 一、一一五頭 昭和 二年 一、二八七頑 〃一五年 一、四〇七頭
大正 四年 一、四三二頭 〃 三年 一、二九〇頭 〃一六年 一、四四五頭
〃 五年 一、六六二頭 〃 四年 一、四八一頭 〃一七年 一、二七二頭
〃 六年 一、一一〇頭 〃 五年 一、五〇一頭 〃一八年 一、三八二頭
〃 七年 一、〇九五頭 〃 六年 一、四七五頭 〃一九年 一、五〇一頭
〃 八年 一、一七〇頭 〃 七年 一、四九〇頭 〃二〇年 一、四八九頭
〃 九年 一、〇三三頭 〃 八年 一、五八〇頭 〃二五年 一、六二六頭
〃一〇年 一、〇一六頭 〃 九年 一、六一七頭 〃三〇年 一、二八〇頭
〃一一年 一、〇八五頭 〃一〇年 一、六四一頭 〃三五年 一、二三三頭
〃一二年 一、〇九五頭 〃一一年 一、七六五頭 〃四〇年 八七六頭
〃一三年 一、一七八頭 〃一二年 一、三八〇頭 〃四五年 五九五頭
〃一四年 一、二五〇頭 〃一三年 一、三七九頭 〃五〇年 二一四頭
旭川騎兵第七連隊に入隊
昭和十三年十二月十日、現役兵として旭川騎兵第七連隊に入隊いたしました。翌日から軍馬の飼養管理について説明を受け、乗馬の要領を教えられ、内務班毎に馬場で交互に乗馬しました。
最初に乗せられた馬が、新刀号といって鹿毛(馬の毛色の一種、茶色っぽい馬の毛色)の十四才の馬で、満州事変の戦功で金鵄勲章をいただいた古馬で、人間で言うなら煮ても焼いても食えないという馬でした。
初年兵の馬に対する経験の程度は、この新刀号によってテストされたわけです。先ず新兵が乗ると軽く走り出すので気分を良くしていると急に止ります。
初心者は大低落されます。次は急に止った時に落ちないと、次は急に止り尻を上げ跳ねます、それでも落ちないと走り出し急に止り横に跳ねる、それでも落ちないと立ち上ったり跳ねたりを反復する、こうして七割位の者が落されます。こうして厳しい馬のテストに耐えた兵に対しては、馬も観念しおとなしくなります。馬も大障碍(高跳)の得意な馬と壕、水溜等(巾跳)の得意なものと、それぞれ、得手があるようです。
私が、初めて割り当てられた馬は花橋号と云って栗毛の馬で、大変調教もよくできて、高跳が得意で一期検閲は、馬のお陰で良い成績で終了することができました。第二期教育に入り馬も配置替になり、割り当てられた馬はアノ(アングロノルマン)系黒鹿毛で帯山号といい巾跳の得意な馬で、不整地の騎乗、壕の飛越は楽に飛ぶので得意になっていましたが、訓練演習等で一番困った事は、小隊教練等で襲撃の号令がかかると、気がたち、いくら手綱をしめても小隊長の先に走り出すので、小隊教練の際、度々加藤何処へ行くと云って叱られたものです。障碍ではほめられましたが、差引ゼロと云うことでした。
騎兵学校の思い出
騎兵学校の馬術の訓練は厳しいもので、壕の飛越を嫌う馬は、皆で壕に叩き込むわけです。兵隊は一銭五厘(当時の葉書代)でくるが、馬は活兵器といって、一頭四〇〇円〜五〇〇円を要すので、非常に大切に扱いました。検査時には馬の前に立って蹄に顔がうつるよう常に手人をしたものです。
厩舎の清掃作業も能率的に終るよう馴致し、毎日の日課として起床、点呼後、厩作業にかかるわけで、馬の繋養してある鎖を外すと、馬は右廻りに通路を通り、屋外の水槽で水を呑み、厩舎に入ってくる、この間に寝藁をとり替え、清掃を済ませますが、作業が終っていないと馬は後で終るまで待っています。実に可愛いものです。
余生を送るウラヌス号
昭和七年八月、ロスアンゼルスに於いて開催された、第十回国際オリンピック大会で大障碍飛越競技に、世界十一カ国から有名な騎手及び駿馬が参加、一〇万の観衆が手に汗を握り見守る中で、大障碍を次々と鮮やかに飛越し、優勝の栄冠を獲得し、会場のメインマストに日章旗を高々と翻し、世界の驚嘆の的となった西騎兵中尉の愛馬ウラヌス号の功績を讃え、文献により当時の状況を記します。競技のコースは殺人的障碍で、高さ一米六〇、巾五米の壕が併置して設けられ、余りの難コースのため競技前に棄権する国も出たそうです。当時の日本の軍馬は乗馬で一米五〇〜五五位でしたが、ウラヌス号は体高が一米七二で、蹄鉄も六号を使用している大型馬で、フランスノルマンデー産の半血種で、こうした大型馬であればこそ、大障碍の続いている難コースを見事に飛越したものと思います。かつての勇者ウラヌス号も、習志野の厩舎で兵隊に可愛いがられ余生を送りました。
終戦により大陸に残してきた初中号
私達の部隊は兵站警備隊で、馬も部隊長乗馬と連絡用等で六頭でしたが、昭和十九年四月武昌を出発、一路南下し兵州に集結、長沙、衡山と空襲を避けるため夜間のみ行動し、衡陽西方三十粁の五里牌地区に駐屯しました。私は騎兵出身のため功績室長の業務の外に、馬匹斑の責任を持っていたため、乗馬を与えられていました。この馬は、鹿毛の十才余りの馬で、長い間戦場で過したせいか、生命を守ることに動物の本能が強く働いていました。私は三十粁程離れた軍司令部迄、時々乗馬で連絡に行きました。その頃は敵機の来襲も頻繁となり、遮蔽主義で行動するよう軍から命令が出ていました。馬も、心得ていてか爆音を聞き手網をゆるめますと、木陰や家屋の陰に寄り遮蔽します。丸太二本の仮橋も上手に渡りました。又、自分の前の餌を食べつくし、隣の馬の分に口が届かないので、足で寄せる姿を見ると、実に、利口で可愛いものです。
終戦時、中国の政府軍に、兵器と共に引渡した後、よく国府軍から逃げて、我々の集結しているところに帰ってくる度に、支那兵が後から追ってくるので、その都度渡してはやりますが、終戦を知らず、言葉のわからない支那の兵に使われると思うと不憫でなりません。今後は我々に代って、支那兵に可愛がってもらうよう祈りつゝ岳州を後に、乗船地である漠口に向け出発しました。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛