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昭和十二年は私のとし

西富区 勝井 勇(六十二歳)

丁度、私が学窓を終え学校教育に青年の夢と希望に満ちて着任した年が昭和十二年であり、上富良野小学校でした。
昭和十二年というと日華事変の起った年であり太平洋戦争へと長く暗い社会への歩みとなった年です。しかし当時は、まだまだ社会も明るく一時的な戦果にひたっていた頃でした。

当時の学校は上富良野尋常高等小学校といって尋常科六カ年、高等科二カ年の教育制度でした。
一年から三年までは男女組で、四年以上は男女に別れました。先生方は、教頭以下全員が学級担任で、一学級六十名の児童でした。
学校の裏手は、せまい道路をはさんで池があり、あたりは湿地の荒地でした。正面玄関が国道側(今の裏手)にあり、庭が作られ、中心に奉安殿がありました。奉安殿といっても、おわかりでないでしょうが、天皇・皇后両陛下のお写真と勅語が安置されていました。
祝祭日の儀式には、体育館の正面にうやうやしく祭られ、いつも学校長が勅語を奉読し、厳かな儀式だったことを思い出します。

まだ、文化があまり進んでいなかった頃ですので、採暖は薪ストーブ、ベルもチャイムもなく、小使いさんが時計を見て鈴を鳴らしながら廊下を歩くという風でした。
上富良野小学校では、大きな備え付けの太鼓を鳴らして合図をしていました。そのうちにベルがついて、太鼓は朝会時に黙祷をする際に鳴らされるようになり、近隣にない珍らしいものでした。

学校には、一番大切な帳簿として学籍簿(今の指導要録)があり、補助簿というのもありました。
通知票も、各学校それぞれの型式で、家庭に通信されていました。参考までに掲げましたが(省略)、教科の内容や、採点の仕方などがよくわかります。
当時使用していた教科書は、国定教科書で全国統一されていました。

当時は遊び道具も少なく、相撲や鬼ごっこをして休み時間を楽しんでいました。
運動会には「十一州のしずめなる」の曲に合わせての入場式、軍艦遊戯を擬らした棒倒しが運動会の華でした。他校選手リレーにその雄を競い、優勝旗に少年の夢を托したものでした。
十二月十四日の討ち入りの日には「義士講」をやり、弁士のまねをしたものです。

この頃の少年の読みものは、少年倶楽部・少年世界・少女倶楽部などが主で、特に少年倶楽部連載(昭六〜昭十六)の漫画、田河水泡の「のらくろ」が爆発的な人気がありました。

こんな、昭和十二年「それは、軍国主義の深まりつゝあった頃だ」と申し上げ稿を結びます。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛