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自衛隊演習地決定までの一駒

東中 上田 美一(七十六歳)

私が、自衛隊の演習地に関係を持つようになったのは、昭和二十六年の年末の頃かと思います。
東中土功組合で会議を開いているから、すぐ出席するようにとの使いです。出席してみると、役員会か総代会かは、わからなかったが、大勢集まり、今度、倍本の山地帯に警察予備隊の演習地ができそうなので、できると樹木は伐り倒され、笹や草は焼き払われるので、ベベルイ川の水は今でも不足しているのに、この上少なくなっては、水田農家の経営に影響するので、中止して貰うため町長にお願いに行く事になったから、農民同盟として同行するようにとの話しが最初であったと思います。
その後の町長及び理事者の動きは知る由もないが、巷の噂として種々入り乱れて、売りたい人売りたくない人、代替地を要求の声、この機会を利用して一儲けを計画している人等、なかなか複雑な動きがあったのです。
又、某政党や労働組合の人達はオルグを潜入させて、執拗な反対の与論づくりの画策があったのですが、地域に於いての反対の声の主流はベベルイ川の水を守り、農家経済を護るという事で、思想的な反対論には耳をかす人は全くなく、少しの動揺もなかった事は、関係者住民の郷土愛の賜であったと思います。

昭和二十七年に入り、演習地一万町歩拡大の説が出てきたのです。最初の約四千町歩の場合は、山麓の山林と原野に若干の畑地の提供で終るが、一万町歩拡大の場合は東中の農地が全部包含されるのではない・かという心配が出て参ったのです。
昭和二十七年二月、所用で上京の節、石川参議と中の島の保安隊本部を訪ね、演習地の構想の説明を受け、演習地拡大及び樹木を焼き払うというのは取越し苦労であった事を知ったのです。
関係する諸官庁と町理事者の努力で仕事が進み、昭和二十九年雪解けの頃より演習予定地区の確定、買上価格の具体的接渉の時期に入りましたので、作業を順調に進めるための委員会を設ける事となり、委員は三十名で、その内から十名の常任委員と四名の代表委員を選んで仕事を始めたのです。作業に入ると、全体に買上価格が安い、山林と原野の区別が明確に出ない、立木の密度と評価に問題があるとの意見が多く、委員会は時間をかけ努力したが、早急には結論的な答が出ず長い時間が必要であったのです。

その年の七月下旬の事、突如として東京で演習地の事で関係者の重要な会議が開かれるので、四名の委員は急ぎ上京、会議に出席するようにと、町長より要請があったのです。その時点では、土地所有者の意見の集約が出来ていないので、代表しての行動には資材不足であったので代表者としては出席出来ないと断ったのです。それでは責任のない傍聴人として如何かというので、止むなく四名の委員は出席を決心したのです。東京に到着し、傍聴に参りましたと告げますと、君達は代表者として会議に出て貰うために来て貰ったので傍聴者ではなく、代表者として出席するようにと強い要請と田中町長からの説得もあり、釈然としない事ではあったが、代表者として出席、会議に参加したのです。

会場は福岡県の東京事務所で、各省庁の開係官、北海道庁の吉田課長、石川参議、田呂道議等二十名以上が出席。山林、原野、畑、田の面積、単価、算出総価格、土地改良区改修費等の積算総価格を示されて、意見を求められたのです。
不審を質し、不合理に対し強い意見で望んだのですが、一番に苦しんだ事は山林の価格で時間をかけても一致点を見い出す事が出来なかったのです。その時当局者は立木の価格について代表者の要求している山林の価格と当方の算出価格と差が多いので、君達の計算基礎表を研究したいから貸してほしいと要求した。私達は、精密な算出の基礎の計算表を持っておらず、苦しい答でその場を何とか切抜けた事は、今も忘れる事の出来ない失敗の想い出となって記憶に残っております。

二日目は農林省会議室で続行したのですが、充分打合せ出来ていたので、午前中で終る事が出来て、やっと演習地買収問題の最大の山場を越える事が出来たのです。なんといっても問題になったのは山林で、当局は現物を姿のままで評価し、所有者は子孫のための備林としての愛着が強く、精神的な物が強く、価格決定に織込まれていたからと思います。その後も種々交渉を続けた結果、立木の取去補償費、防災林四百町歩設定等の実現が出来て、山林価格に上積が出来た事、東京の会議の折、要請をして置いた演習道路舗装と専用道路が実現出来た事は嬉ばしく思います。
おわりに、行動と苦労を共にした故手塚官一氏、故松浦義雄氏を偲び松国熊太郎氏の御健康を祈ります。
昭和五十四年二月十二日 当時東中農民同盟委員長

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛