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悲願成就

本町区 宇佐見 利治(六十九歳)

光陰矢の如く大東亜戦争終戦後二十五年を数えるにいたりました。食糧難に喘ぎ、生活にうろたえた当時のことも今は夢。豊富な物資に其の生活も向上し、平和な日々を過している現在、想起し忘れ得ないものは、祖国の栄光を信じ妻子肉親を残して、戦場にあたら尊い生命を捧げた幾多戦友の面影が今も胸をしめつけるのであります。

   短きを 何かなげかむ君がため 御玉のために 捨つる命は

と自己の信念を歌に託して後に続く者あるを信じ、従容として悠久の大義に殉ぜられし戦友を偲ぶ時、片時も心やすまる時はなかった。

吾が上富良野町より、日清日露の戦を初日とし大東亜戟争に至るまでの間、従軍されし方々は、実に三千五百余名を突破し、赫々たる武勲を樹てられ帰国せられた方もございますが、約八%に上る二百七十二名の方々が名誉の戦没者となりました。然るに、現在上富良野神社境内に建立されている忠魂碑に合祀されている方は僅か三十一柱で、残る二百四十一柱は当時無蔭命として放任されて居る実状でありました。

過ぐる激戦地、満洲支那大陸に東南アジアに大平洋上の島々に、又、訪れる人とて無き北寂の孤島に、遥かなる故郷の山河を想って眠っている郷土出身二百七十二柱の護国の神々に、「後顧の憂いなく、立派にお国のために働いて下さい」と歓呼の声で送った私共の責任と、生きて故国の土を踏んだ私ども戦友が捧げる「死んだら骨を頼むぞ」と誓い合った戦友の誠心の奉仕の手に依って、上富良野忠魂碑を整備し、戦没英霊御名璽を刻し、雄大にして且優雅な整備を申し上げ御魂をお迎えしてお慰め申し上げたいと会しつゝ幾星霜、悩み続けて参りました。

此の間、昭和二十八年、九洲太刀洗航空教育隊長時代本土初空襲で失った戦没将士の忠魂碑建立。
昭和四十年、我が原隊近衛歩兵第二聨隊之碑建立(原隊跡地現武道館前庭に)。全国各地から御影石三千個を隊員のまごころを結集して建立致しました。
昭和四十二年、北鎖師団が苦闘されたノモハン英魂之碑を、札幌護国神社境内に建立。
昭和四十四年、アッツ島雄魂之碑建立(札幌護国神社境内)。
昭和四十五年、靖国神社大鳥居復旧奉納、全国建設委員として浄財一億三千万円載き完成。
昭和五十年、北千島慰霊碑建立(札幌護国神社境内)。

多年の苦悶を逐次清算しつゝ、多年の経験を生かし郷土忠魂碑の整備を考え乍ら、三野優君と話し堅い同志を得、更に久保茂儀君に話した所卒先同意を得、三人相集い着々とその準備を進めて居る矢先の昭和四十五年五月、今は故人となられた遺族会長渡辺悟郎先生(江幌小学校長)が、私に、忠魂碑を整備してほしいと遺族会は望んで居るとの尊言を承り、早速数名の同志にお伝えし、志を同じくする者に忠魂碑整備の議を訴え、今こそ生存者の果すべき時は到れりと十数名会合し、先進地視察して、その計画を進める可きだと、六月十二日山部、中富の忠魂碑を見学し、山部の渡辺一雄さんの切々たるご高説を拝聴し、更に、中富良野の森町長さんの建設の経過並に将来の企画等に関する崇高な教示を承り一日感激し帰町せり。
六月二十八日、同志相会し話し合いの結果、生き残れる者、自らの手で英霊の武勲功績を讃え後世に顕彰し、日本の限り無い発展と世界の恒久平和を願い、次代を担う人々の健全なる育成を祈念したいとの一念に燃え、吾々が発起人となり慎重に討議を重ねた結果、挙町一致の態勢を撃え、吾れ吾れを中心として、より立派な整備を行い、御英霊を慰むると共に老いて行く御遺族の方々に後顧の憂い無さを期してあげ、そして後世に伝承して載きたいと念書しつつ。

期成会が結成され、募金活動が進められる裡に、建設委員長を命ぜられたので、碑石の選定の為黒みかげ石の名産地福島県浮金の石山鈴木石材店を訪れ、見積をお願いし、更に白御影石名産地茨城県笠間市稲田日本石材工業KKを訪れて、名石を拝見し乍ら御相談申し上げました所、地元で永年に亘り取引して居りました旭川五ノ一梅原石工の御紹介を載き急遽帰町、直ちに梅原石工にお願いし期成会の設計企画を示し、忠魂碑総工事費四百五拾八万七千円にてお願いし、四十六年六月二十五日完成を目途に契約を締結しホッと一息した次第でした。
以下省略して、竣工除幕式に於ける経過報告の中から、永遠に申し伝えて置きたいことを記します。

石材総重量=白御影…五十屯・黒御影…三屯
戦没英霊御名璽=二七二柱 柱の字体は、静心書道学校の高橋先生に毫筆を振って戴きました。
碑文右 「忠魂とこしえに安かれ」 知事町村金五先生に
碑文左 上富良野町遺族会撰文に依る

    大東亜の曙を開く戦が終りを告げてよりこゝに二十有六年
    長い荊蕀の道を耐えきたった私たち
    その憶いは今更に言うまい
    ただひたすらに明日の祖国の栄光を
    固く信じこの碑を我が郷土出身の
    英霊に捧ぐ
       名誉町民 海江田武信氏謹書

由緒
昭和二十年八月十五日、末曽有の大東亜戦争は終結したが、進駐軍の軍政は戦没者の遺族及戦没者の霊に対しまことに冷酷であったので、遺族の悲痛御苦しみは言語に絶するものがあった。
然し、時を経て平和は蘇り国は富み、国民生活は豊かになったので上富良野町民有志の者相計い明治以来の忠魂碑を整備し、新たに忠魂碑を建立して英霊の至誠を追慕し、その冥福を祈るとともに、我が国が経済大国となり得たことも、また各大国が植民地政策を終止し世界平和に寄与し得たことも、英霊の至誠の賜物であることを未来永劫に伝承しようとするものである。
この工事は本年六月完成した。真に威大なる聖業と言うべきである。
           北海道連合遺族会長
           参議院議員勲二等 井川伊平

更に特筆すべきことは、碑柱と碑台石の中央内部に、上富良野神社出生宮司の自筆に依り、戦死者の御名璽を無フシの白木に書し、上富良野神社神礼と靖国神社神礼を添えて安鎖しました。
これぞ誠の神鎮ります忠魂碑と存し、永遠に追慕讃仰を賜りたい。又戦没者の御名霊の裏面には期成会の序文を左の通り捧げました。

盡忠愛国の至誠に燃え、悠久の大義に殉ぜられた戦没将士の功績を永遠に追慕讃仰し、懇に祭祀を斉行せんため、昨年来御英霊建立を併せて忠魂期成会を結成。総工事費五百万円の浄財寄進に依り、本年四月着工、六月下旬竣工の運びとなり、挙町一致親和階行、御英霊を鎮守の神域に安鎮し郷土の平和発展の守護を祈念するものである。
   昭和四十六年七月一日 上富良野町忠魂碑整備期成会

本事業に御芳志を賜りました方々の御芳名二六三八名を、忠魂碑床石裏に刻してあり。永く保存致したいと存じます。
以上、斯くも立派な忠魂牌が六月二十五日竣工、七月一日除幕建立し御魂を安らぐことが出来ましたことは、戦没英霊の御旨が私共をお導き加護してかくあらしめたものは、町民皆さんの真心こめた御協力と、施工に当られました梅原石工さん、山崎建設さん、古久保製板さんの献身的御協力と、上富良野駐屯地部隊大松一佐殿の心からなる御支援御協力の賜物で、厚くお礼申し上げます。

 今日よりは 顧りみなくて 大君の 辺にこそ死なめ 顧りみはせじ

「己の信念を歌に託して後に続く者あるを信じ」盡忠愛国の至誠に燃え悠久の大義に毅然として殉せられた英霊(戦友)も、今茲に終戦後満二十五年を迎え変転極りなき世想を通して、我々に逞しき平和日本建設の偉業指針を与え下され、更に、次代を担う若き人々に祖国を愛する純真な鑑として、永久に祀られることを念じつ、御戦に艱難果して益良夫の功徳を偲び永久に祀らむ

 御製 安らかに ねむれとぞ思う 君のため 命ち捧げし ますらをのとも

御製 謹しみて何時の日か忠魂之碑に捧げ、永久に敬慕申し上げたいと念願して居ります。

 生存者御英魂に捧げて  利治
   開拓の鍬が遠く上富の歴史に打ち込まれてから幾度か
   祖国の危難に若人達は、戦火の中を殉して逝った
   口々に後はたのむぞと言い遺して
   その純烈と崇高とは、永遠に光を失わぬであろう
   この御社の輝きと共に、そして人々の祈りとともに

忠魂碑建立世話人
 故人   山本逸太郎   久保 茂儀   菅野 良孝   三原 建吾
 生存者  宇佐見利治   三野  優   和田 正治   石田 末定
      薮下鉄次郎   佐川 清男   瀬川 三郎   本田  茂


故人となられた方々の御冥福を祈り、その尊いお姿を拝して元軍人たる先輩を倶に合祀申し上げたい。
                                             合掌

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛