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開拓時代の想い出

東中 西谷 勝夫(七十三歳)

東九線北十九号培本道路の分岐点で、十九号道路は、ここから坂道にさしかかる。大きな石が露出して登り下りの荷馬車は難渋を極めたもので、この坂を上りつめた所が旧西谷牧場の入口になる。
明治四十二年、私は三歳頃からここで大きくなった。開拓時代の想い出の残っているのは五〜六歳の頃からの事で、十勝へ山越えするアイヌ人の姿を時々見かけたのもその頃であった。
開拓者を戦慄せしめたのは熊だ。物寂しい夕暮れ時、子熊を呼ぶ母熊の鳴声が、まだ耳に残っている。秋が追々と深まっていた或る日『熊にやられた』と人々が走って行く、十九号道路沿いの畑の中の大きな楢の切り株の周りに、散乱した煙草入れや引きちぎられた衣服を見た時はぞっとした。切り株の周りを逃げ廻った足跡、力を入れて踏ん張ったと思われるめり込んだ足形、激しい熊との格闘の跡を物語っていた。石油の空鐘を叩きながら熊狩りが行なわれた。熊狩りと言うより危険な熊を遠くへ追い払うのである。
狐火
夏になると、川の近くに野天風呂が造られる。
水を汲む便利さからだ。薄暗がりの中で火の番をしていたら、遠くの坊主山に狐火がともった。
山麓から頂上に向って、点々と一列になって美しい狐火が燈る。
やがて頂上から山麓に次々と消えて行く。何度か繰り返される狐のお嫁入りだ。
白狐
白狐は、神通力を持つと言われている。お隣りの叔母さんが、前の小川で夕飯の支度をして居ると友人のおばさんが現われ、野菜を採りに行こうと連れ出されてしまった。
野良帰りの家人達が、物置きの中から家の廻りを探し廻ったが姿が見えず、日がとっぷりと暮れてしまった。
近所の人々にも出てもらい、馬に乗って探し廻ったが、丁度裏の薮原を通っていた一頭の馬が、「ヒイン」「ヒイン」となくので、暗闇を透かして見ると、林の中の凹みに佇ずんでいた友達と野菜を洗って居たと、本人が述懐したそうであった。
山火事
開拓時代の山火事の恐怖は、生涯忘れることの出来ぬものの一つだ。「ゴウ」「ゴウ」と言う山鳴り風に乗って燃え上がる火焔、水車小屋に火が廻り水車が廻りながら燃えている。家財道具が畑の中央に持ち出され、濡筵を掛けるが火の粉と熱気で直ぐ燃え出す。女達が泣きながら水をかける。
バケツが一つしか無く、母親の持っているのは五升鍋だ。母親の妹の半狂乱姿が、今も目に浮ぶ。
男の人は煙りにまかれて動けなかったと言う馬を連れて山を下りていた。
嘘付きの名人
小学校へ通う道の途中で、ベベルイ川の辺に、通称「うそ」虎で名の通った一人者の老人が住んで居た。老人と言っても、まだ六十にはなっていなかったろう。九尺二間の「ニコヨン」小屋、飲水から洗濯水も皆ベベルイ川の水だ。「ギーギー」と豚のなき声がするので近寄って見ると、豚を川辺につないで「マサカリ」を振り上げている。力が無いのか豚が逃げ廻っている。嘘付きの名人と言われるだけに、こんな逸話が伝わっている。
或る人が「おい嘘虎、お前は嘘付の名人だそうだが、この俺に嘘をついて見ろ」と言ったところ、「お前何を云って居るのだ、お前の嬶が今産気付いて、隣りの金さんが馬で産婆さんを迎えに行ったぞ、早く帰ってお湯でも沸したらどうだ」その通り、彼の妻は、臨月を迎えて居たのだ。顔色変えて一目散に家に帰って見たら、大きな腹を抱えたおかみさん、裏の畑で元気に草取りをしている。
じだん駄踏んで口惜しがったが、後の祭り。さすが名人の名に恥じない逸話ではある。
二日の買い初め
開拓時代の人々にとって、正月二日の買い初めは最も楽しい日の一つだった。白々と夜が明けると、凍った空気の彼方から鈴の音が響いて来る。私達が起き出た頃は、雑煮の用意も出来ていて、親達は買い初めに出掛ける準備に忙がしい。母親のお化粧姿が懐しく蘇えってくる。
一年中の生活必需品である味噌・醤油・砂糖等の日用品から雑貨類をまとめて、買い初めの日に買い調える。父親と母親とが、楽しそうに揃って箱馬橇で出掛けて行く。子供達は、お土産のお菓子を楽しみに留守番をする。景品の「くじ引」が有って、誰が茶単司を引き当てたとか、一等賞は何処の人であったとか、情報の少い開拓時代の話題を賑わしたものである。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛