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私の思い出〜風防林解放の巻

東中 中西 覚蔵(七十四歳)

上富良野町史第六編殖民区画の設定の欄に百頁から百二頁迄の中に殖民区画の選定は明治二十九年とある。
文献によると当時まだ滝川線の工事前で清水山の突端は崩されていなかったが、この頂上からフラノ原野を一望し将来有望な地である事を認め、突端から中富良野市街の突端に見通しをつけて基線とし、これに九十度の角度で零号を設定したのであるという。

明治二十八年の春、いまだ山桜の咲かない頃、札幌農学校の学生佐藤昌介氏(後の大学総長)伊藤広幾氏をリーダーとする一行十六名と共に空知川を溯り、島の下から富門部落を通り裏山から清水山の頂上に登り、その美観を語ったという。これを基本として富良野原野一帯は五町歩を一戸分とする規格を与えた道庁の基本方針が表れているのであるが、その中に風防林用地として線の方向に走るものが二本、号の方向に走るものが八本ある三百間づつになっている。区画のまん中に百間を巾とし、千二百間ごとに正しく割り込んだものであるが、現在全くその面影をとどめていないのである。
線に平行するもの
 (一)東二線と三線の間で北二号から北二十三号と二十四号の間
 (二)東六線と七線の間で南四号から北二十号斜線まで
又、号に併行するもの
 (一)零号と南一号の間
 (二)北三号と四号の間
 (三)北七号と八号の間
 (四)北十一号と十二号の間
 (五)北十五号と十六号の間
 (六)北十九号と二十号の間
 (七)北二十三号と二十四号の間
 (八)北二十八号と二十九号の間
以上の通りであるが、西側は富良野川まで東は凡そ、山につきあたるまで進んでいる。原野の拓殖上の大きな構想の一つで官地であり、後に村有地となったが現在全部民有地となったので、古老の外には知る者もなくなったと記載されている。私はこの風防林に入地し子供心にも真の原始林を開墾した苦労を直接見ていたので、この状況を詳しく述べて見たいと思う。
風防林として原始林の姿であった村有林が一般に貸付されたのが塙浩気村長の時代で、明治四十四年のことである。一般に小作として入地したのが大正元年秋のことである。
昼なお暗い大木の樹林地帯であり、前年造材事業を行った跡地は大木の切り株と搬出残りの大きな角材と水溜りばかりであった。私のところは前年この防風林をはさんで陸軍大演習が行われたとのことで、その時、偵察のため使われた大木に梯子が組まれた跡が幾箇所もあり、現在の斜線道路はその時軍隊が通るため割り木を敷きつめ歩いていたものであった。その両側は殆んど水溜りで人の歩く事も不可能な状能であり、小屋を造るのもようやくという原始的なところであった。
毎日大木を積み上げ火をつけて焼くのが開墾の始まりでした。入地後は皆な夢中で開墾に精を出したが、大きな切株ばかりで作付するところはほとんどなく、一家揃ってお座りして昼食する事が出来る大きな株が残っていました。しかし、豆成金時代もあり、五、六年たつとようやく落ちつき、東中地区で村有地小作組合を結成し、色々村に対しても団体交渉が出来るようになった。当時小作組合員は二十七戸であった。

大正七年頃水田を一部作りたいと話がでたが、水利権問題で思うようにならずその時話の結果六線十八号に溜池を作る事を条件に、水利権の附与を受けたのが村有地内の水田の始まりであった。
その後、村有地なので年貢は他の農場より幾分安目であったが、自作農になる事は農家としての希望であり、解放を望む声も出ていた。
五十嵐農場の一部解放に続いて島津農場の解放、又五十嵐農場の全面解放等に刺激され、我々も強く要望したが当時は戦争中で村議会の改選も行なわれず、そのまま執行するという時代でなかなか思うにまかせず、ようやく売渡し議決されたのが昭和十九年と思う。代金は農業会を経て自作農創設維持資金を借用、元利償還二十四ヶ年長期資金を利用したのであるが、御蔭様で戦争の終了で時代の推移に伴い昭和二十四、五年度で殆んどが全額償還し、一人前の自作農になったのである。この時の村長は金子浩氏であった。

以上未開の地が開拓され、村有地小作人として三十余年の永きに亘り耕作を続け、ようやく自作農として自立する事になった経過を記録に残しておきたいと思います。

(注)
この地区において五町歩に区画されておりながら所々に一万坪、即ち、三町三反歩区画があるのは全部この風防林と斜線道路が関係しているところで、外は全部五町歩区画のはずです。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛