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お地蔵さん

東中 岩崎 与一(六十七歳)

東中の北十九号道路を東に向かって登って行くと、上富良野町と中富良野町の境界である。
この町界から百間余り登った所に一坪余りのトタン屋根に赤ペンキを塗った祠がある。その中に一体の小さな地蔵さんが祭ってある。後ろには、大正六年十二月、丸田吉次郎供養と云う文字が刻んである。
この地蔵さんにまつわる物語りである。二月末日、この地蔵さんについて何かいわれがあると聞いていたので、地蔵さんを実地で見たり、その近くの島貫武志氏宅を訪ねて聞いて来た実話である。

大正六年といえば第一次世界大戦で豆類が暴騰して山間部は盛んに開拓された時期であった。熊の住み場所がどんどん耕地になったため熊がたいへん出没して農作物を荒らすので、近隣の部落の青年達がラッパや鐘を鳴らして熊追いをした事もあったという時代であった。
この地域も豆成金とも云われる景気で各部落のお祭りには、競馬や大人・小人の草角力などが盛んであった。八月十五日ベベルイ部落に余興に角力があった。丸田吉次郎氏と島貫武志さんの父、清蔵さんはお互いに村境の上富良野地域に住んでいて、指呼の間の隣りであり、両者共大変な酒好きで飲み友達でもあったと云う。

吉次郎さんは、背丈はあまり高くないがずんぐりと太く、力持ちであったので角力をとって歩いた人であった。
この日も清蔵さんが誘われたが、都合が悪かったので吉次郎さんが一人で角力をとりに行った。次の日に帰って来なかったが、時々は友達の所で泊ってくる人なので又、酒でも飲んで泊ったんだろうと思っていたが、その次の日も帰らないので、ベベルイ方面へ聞き合わしたところ、吉次郎さんは祭りの当日、角力とりに出場して大関となり御幣をもらって、友達の家で一杯飲んで暗くなったので、友達は「泊って明朝帰る様に」とすすめたが、力自慢の彼は恐ろしいもの知らずで「熊ぐらいなんだ」と云うて御幣をうしろ首にさし込んで、ほろ酔い機嫌で帰ったと云う事であったが二日も帰らないので、これは熊にでもやられたのではないかというので、近隣部落の人々が捜しに出た。

家の近くの良くのびたトウキビ畑に熊の足跡があって、中に入って見ると、そうとう格闘したらしくキビ畑の中はずたずたに踏みにじられて、引きずって笹薮に入った跡があった。今は十九号道路が一直線になっているが、当時は川沿いに細い道がついていて大木が生い茂っていたという。
この川の向こう岸に桂の大木が根を張ってのびている方へ行った形跡があるが、誰も恐れて入って行く者がないので親友である島貫さんが「俺が先に行くから皆んなついてこい」と云って先頭になって笹薮の中を桂の根元へ進んだ。真夏だから、どこからとも無く腐蝕したにおいの風も吹いていた。その桂の大木の根元の空胴の入り口に吉次郎氏は、腹を喰いやぶられ全身傷まみれになって死んでいた。
それからは、夜遊びをして歩いた人々も、夜は泊って朝に帰って来るか、鐘や笛を鳴らして歩く様になったと云う。この地蔵さんは、丸田吉次郎さんの霊を祭ったものである。

今でも河井松五郎氏が、冬期間は雪道を開け、時々は生花を取りかえて上げて、お守りをして居られる。又、祠は中富良野、上富良野両町の近隣部落の篤志寄附によって建てられたものである。
この様に開拓当時は随分熊が出没して、農作物を喰い荒したものであったが、熊は不意に人に出合うとかかって来るもので、鐘や笛を鳴らして歩くと姿をかくす習性があると云われている。この熊もトウキビを喰っていた所へ、無言で歩いて来た吉次郎さんと突然出合い、暗闇で力自慢の彼と格闘になったのだろうという事である。

開拓当初からこの地方で熊に殺されたという話しは珍しいのである。
この地域も一時は四、五十戸の村落であった時期もあったが、豆類の暴落と共に住民は移動して殆んど過疎地となったのである。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛