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平原釣堀の元祖

東中 岩崎 与一(六十七歳)

場所は、東中地域のほぼ中央で東六線北十八号の道路に接している。現在の東中遊園地の前身で、東中郵便局長高橋寅吉氏が経営している場所である。

大正十二年頃、この地方では盛んに造田が行われていたので、当時は、水不足が悩みであったのでこれ等の人々等が相計って、この地の野地川の窪地を利用して、溜池を造ったのであった。丁度十八号道路と堤防を兼用出来る一石二鳥の場所でもあったので、土盛りをして上流から来る水を堰止め、貯水池として水の不足した時に放水して使用する目的であった。
池は二ヶ所で上の池、下の池と云ったが、上の池は四反歩、下の池は一町歩であった。この池の上流では、以前から松原勝蔵氏が流れ水と湧水を利用して、鯉や金魚を飼育していたが、たびたび大雨の都度増水し、魚が流出したので、この辺の川には鯉や金魚、フナ、ウグイ等が随分棲んでいた。

大正十四年頃、これに着目したのが今は故人となった岩田長作氏である(岩田嘉平、顕雄氏の父)。氏は慰安にとぼしいこの時代の人々の自給自足と慰安の目的で釣堀を考えたのである。又、氏の耕作地に続いている為に管理にも容易な事から、早速土功組合から一年間借り賃十円の契約で権利を取り、小樽の養鯉孵化場から幼鯉五万尾を購入して放流したのであった。
その頃は、業者が自から汽車輸送で運んで来て、小さな手綱で五尾づつすくって、浜のことばで数えながら、タライや桶に入れていたのを嘉平氏兄弟等が見た事を子供心に覚えていると云う。
その後も、住宅の近くに池を掘って鯉や金魚を自家で孵化して、これをひと夏水田に放して飼育し秋には池に放流した。
ひと夏水田に放流すると七、八センチになったと云う。或る年は、水田の水が止っていて水田が乾いた為に全滅した事もあった。

昭和二年頃、当時東中小学校の校長、岡統一先生に五円を支払って板戸一枚大きな看板に、養鯉園開放と大書し二尾の鯉の絵を書いた看板を書いてもらって、十八号道路より少し入り込んだ所に道路に面して建ててあった。
釣賃は、一時間五十銭と定めて釣場を開いたが、専門の管理人もいない釣場では、半日釣っていても五十銭であった。釣客の多くは市街地方面の人が多く、特に中富良野市街からは常時来る人が四、五人いた。
又、ウグイやフナの類の魚は一尺余りのものでも素人で楽々と釣上げる事が出来たが、鯉は三年生頃までは素人でも釣上げる事が出来るが、四年生以上になると力も強くなり体重もあるので、釣上げる時に水際で糸を切って逃げるので素人では中々釣れなかったと云う。又、この頃から釣天狗は車棹を持って来たものであった。餌は、ミミズを主に使ったが、鯉の大きな物を釣るには、米飯や麦粉を練ってつくった練餌を使用して大物をねらった。

又、この頃は、近くの山にトンビが多く生息していて、これが大きな魚が水面に浮かぶのを目がけて急降下し、足で鷲掴みにして舞い上がり巣へ運んで行くのを附近の人はしばしば見たと云う。
ある時、池の近くで仕事をしていた家の人達が、五十センチ余りもある大きな鯉をトンビが鷲掴みにして舞い上がるのを見つけて大声を上げたら、トンビは驚いて鯉を落して逃げて行ったので行って見たら無傷であったので、元の池へ放した所元気で泳いで行ったと家の人は語っている。この頃のトンビは非常に体も大きく力も強かったので小児もさらわれるかと心配した。

この有料釣場も、昭和十年頃にはすでに自由釣場に開放していた。農家の人々の慰安を目的にした釣場であったが、当時は農作業に人手不足で悩んだ頃で中々ゆっくりと釣を楽しむ余暇が無かった。その後、附近の部落の人々が農閑期に差し網を使って大物を獲って一杯やったと云う話もある。大きな鯉は、小魚を餌にするので数は年々減少した。
昭和二十四年、上流から長年流れ込んだ泥が沈澱して池の底が浅くなり水量が減少したので、下の池の水を切って池の泥を上げ池底も掘り下げた。その時は、叺や樽に七、八杯も獲ったと云う。
大きいのになると、四斗樽に曲って入っていたと云うから随分大物がいたのであった。
然し、上の池は掃除をやらなかったので魚類は相当残っていたが、ヨシやスゲ草が繁茂して居るので釣は困難になっていたが、魚類はその後追い追い増えて来ていた。

時代は進んで、水田に農薬を使用する様になり、この時点を最後にこの池の魚類は全滅したのである。その時は三尺前後もある鯉が死んでぽかぽか浮いて白い腹を見せていた。
後日、この池に目をつけた高橋寅吉氏が東中遊園地を開園し、ニジマスの養殖に取り組んで釣りも自由開放し年々賑わっている。公園の木も繁り、大変立派になって昔日の面影を一新した。
池の泥上げをし掃除をした際、昔からの大木の切り株が無数にそのまま残っていたので、当時の第三改良区長工藤委平氏が指揮を取って、この切株に発破をかけたり、ブルドーザーを使って抜根をしたが、今だに手余した大木の根は残っている。ヤチダモ、ハン、ニレ等の抜根であった。
溜池になる前、現在七十歳以上の方々が少年の頃は、小さな沼であって泳ぎの場所であった。
桂の大木の切株の上から飛込んで遊んだものであったが、溜池になってからは水底が深くて危険になって泳げなかった。

最後に、未だ未経験であった昭和時代の初期に釣掘りを考えて実行に移した岩田長作氏を讃え、釣堀発祥の地であるこの溜池の記録を永遠の語り草に残したい事を念願するものであります。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛