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私の思い出

草分旭 吉沢 春雄(七十歳)

私の思い出話を少し述べてみます。

先ず、草分部落に住み着いた開拓者の移住当時の模様から、私の知る限りにおいて書きます。私の祖父母から子供の頃に聞いた話です。
時は明治三十年四月に、三重県の四日市港から、横浜を経由し北海道の小樽港に着き、其の後は汽車で旅行し、歌志内市に到着したり、航海中は波が荒くて大変難航であったように聞きました。
船酔がつらくて横浜から郷里に引返した人も幾人かいたという。又今なお有名になっている伊藤鶴丸氏ですが、この方はその折の航行中敦賀丸という船で出産し、男の子が誕生して芽出たいと船長が喜んで自分で命名して上げるといって鶴丸と名付けられた。今以って思い出の人材となって話題にのこっております。(当年八十二才で健在です)

さてこんどは四月十二日の開拓記念日ですが、むかし十二日に現地調査に来ても、残雪が多くて調査は不可能であろうと、不信に思う人もありますが、私の聞いている限りでは、歌志内から赤平、平岸を通り滝里、島の下から富良野盆地へと、春先の北海道の堅雪を利用して徒歩で近道を、アイヌ人から教えられて実施したのが、此の十二日と私は聞いております。其の時に第一陣として同行した者は次の方々です。
代表田中常次郎外八名は次の通り

    田村栄次郎、久野伝兵衛、高田次郎吉、川田七五郎、川辺三蔵、
    服部代次郎、吉沢源七

現在西三線北二十九号、元田中勝次郎氏の所有地開拓発祥の地という碑のある処に、一本の楡の木がありました。大正十五年十勝岳の大爆発惨事にも耐え残っていたが、昭和三十年頃の台風十五号で遂に倒れた。その場所に開拓発祥の地と印して碑がある。これは昭和二十一年金子村長により建立。(石碑)
大正五年八月に元高田派専誠寺境内に頌徳碑を建立、除幕式が行なわれ、私は小学校一年生で式典に参列した気憶があります。(草分神社に移す)

大正十一年は市街の高等科一年の時の八月かと思います。大雄寺の旧本堂の新築があり学校の帰途モチ拾いに行った思い出が残っています。大雄寺も昨年は、近代建築で立派な本堂が出来上りました。数えてみると旧本堂は五十七年という耐用期間がありました。特殊な建造物ではあるが、木造建築の強さを知ります。

大正十五年五月二十四日は、十勝岳の大爆発のあった日です。私は十八才で青年団に入団した頃でした。
その前日から雨が降っていて、たいていの家では、野良仕事を休んでいたと思います。しかし、水田農家の方はミノを着て、代かきの真最中でありました。
午後の四時頃になると、突然爆発音が聞えて来ました。はじめはドドンドドンという音で何の音かわかりませんでした。連発するので戸外に飛出してみると、大勢の人が何かわめきながら右往左往して大声を張り上げる者、泣きさけぶ者、そのうち鉄道線路を馬を連れて来る人があり、私が近付いてみると、紛れもなく高橋代二さん一家族でした。その後から田村嘉市君がやって来て、もうだめですわ……といったきり口を閉じて何にも語ってくれませんでした。
高橋代二さんから色々と爆発のおそろしさ、又泥流の物すごい事を聞いて、直ちに国道の方へ走って行きますと、もう西四線道路はヱホロカンベツ川の水がはんらんして通行は出来ません。泥流に押し流されてきた流木の山で何んとも言葉に表わしようがありません。
一瞬にして百余名の人命をのみ、その他家畜や建物の多くを流出し、鉄道の線路までが欠損しアメの様にねじれていました。村はその日から災害対策本部を役場に置き、消防団の救援活動が開始となり、私共青年団は、金子助役さん宅を本拠として食事の炊き出しを行い被災者のところへ運んだり、他町村から応援隊が続々来てくれるので、食事配給に当たりました。
この災害の中で特筆すべきことは、荒廃したる土地を何んとしてもむかしの美田に復興しなければと寝食を忘れ、自分の家も母堂を亡くした罹災者の一員でありながら、我が家を省みることなく、土地の復興に全力を傾け、道庁にまた政府に向って復興資金借入れにと色々な努力を重ね、ついに復興させた吉田村長の功績です。
それには又反対する者もあり、ある時は、外部より共産党員を雇い入れ反対運動が展開されたが、そんな者は相手にせず復興に専念せられました。
其の努力が効を奏して今日の美田となりました。この吉田貞吉郎氏の御努力は我々は永遠に忘れる事は出来ないでしょう。又吉田氏の土工組合長の頃から念願でありました水田の潅漑用水の問題も、その後日新ダムが出来たので今では真水を使用する事が出来るので、誠に喜ばしき次第と感謝に堪えません。吉田貞吾郎氏の心を受け継いでダム建設に邁進されました理事者の方々や、御協力願った地元の方々に、私は心から感謝いたします。

次に忘れる事の出来ない事があります。それは高田派専誠寺の災害(強盗放火事件)の件です。私共檀信徒の心の寄り処にしていた寺が、又上富良野の教育の発祥の寺が、あの細川という桶屋の単独犯行と後程判りましたが、当時の細川に対する憎しみは今なお忘れていません。獄中で死亡したそうです。その後任住職となって増田義秀氏が来られて昭和二十五年から復興に励み、檀信徒の皆様と町内外の暖かい御同情を受けまして過分の浄財を頂いて、現在の立派な寺院が復興出来ました。檀信徒の私共は此の件に付いても心から感謝を致しております。

次は昭和七・八年頃から満州事変が始まり、北支事変、大東亜戦争と相つぐ長期の戦争で多数の将兵を前線に送り出し、又多くの農耕馬の購買、徴発と軍用馬として買上げられて、農耕にも大変支障を来たす事がありました。前線に行く兵隊も命をかけての戦いでありましたが、銃後の守もこれ又大変な事でした。応召家族の留守宅慰門に野良仕事の手伝いに明け暮れる毎日が続きました。
そんなどさくさの日々を送っている中に、昭和二十年八月十五日の終戦の日が来ました。続いて米軍の進駐がありマッカーサー司令の指揮の下に入り、憲法の改正、家族制度の徹廃、行政の改革等々我々日本人の生活が一変したわけですが、色々思い出は数限りなくありますが、なかでも今迄の公職者および指導者が全部追放処分、戦犯は処刑という悲惨な思いを致しました。

行政上の大きな問題は、日本農業に対して農地の大改革を実施する事になり、北海道農業も余儀なくこれを実施する事になりました。
私もその一人ですが、私は農業も小作農でありましたので、小作層から代表委員として委員会に出席して、指導を受けたり、説明を聞いて先ず感じた事は、本題は本州の農業に対する問題であり、北海道農業は、法律上止む得ない事で、実施に入る事を知りました。
委員会の冒頭にこんな事を申し合せました。北海道農業は今だかって小作人がすべて経済的には地主に頼って世話になっている内地のように、入斗も一石も小作米を地主に支払っている者はないと思うが如何と各委員にたずねました。もし私のいうように理解が出来るならば、つとめて強制買収はしないで、地主、小作問の話し合いでお互いの了解を求めた上で合法的に事務処理をするという意見を出しましたところ、各委員の好感を受けました。
従って昭和二十一年から同二十五年まで上富良野町の小作地二千余町歩を地主側の委員と対立的になる事がなく実施を完了致しました。これまた寛大なる地主の方々の協力があったからこそ大改革が遂行出来たと思っています。
最近の田、畑の売買されている価格を聞いておどろいております。
二十五・六年頃の個人売買価格は次の通り、
   田、三万〜七万位、畑は三千円〜八千円位
賃貸料は
   田の上は三五〇円、中は二五五円、下は一五〇円金納
法定の小作料となる農家の労賃は、
   一、〇〇〇円位、玄米は供出価格六○キロ一俵四○○○円位
昭和二十一年頃は供出の割合が完納ならず、三月末までに供出がない時は、政府は強権の発動も止むを得ないという要望で、町役場は村長代理の本間助役を中心に三日四日も食糧調制委員会を開いて協議の結果、農家の保有食糧と来年度の種子も供出すればどうやら完納の数字が解りました。
司法権をもって取り上げられるより、裸に成って供出して再度配合を受ける事を条件に裸供出を決意した事も有りました。此の事も忘れ難い思い出になって居ります。

こんどは創成小学校の事に関して少々書いてみます。
大正六年頃から保護会が発足して、初代会長に吉田貞次郎氏がなって居ります。
   二代目会長  田中勝吉郎    三代目会長 一色仁三郎
   初代PTA会長 一色仁三郎    二代 〃  吉沢 春雄
   三代 〃    小林八百蔵     四代 〃  高田秀雄
   五代 〃    広川義一
昭和三十七・八年頃から学校統合問題が持ち上り、上富良野西小学校になる統合したる学校の通学地域は、草分部落、江花部落、市街の一部で、後から里仁小学校、日新小学校も統合の運びとなる。上富良野西小学校初代校長に二宮初雄氏(創成小学校長から)がなった。

終戦後農村に電化運動が盛り上り、期成会が結成するや、役員諸氏の猛烈なる運動により、昭和二十三年四月頃第一期の電化工事が完了し点灯する。第二期工事が同二十四年か二十五年頃と思う。
鉄道の東側と三十一号四釜卯兵衛氏の方面、それから四・五年後の昭和三十二・三年頃、金子農場、富田氏の方面から報徳沼崎農場方面の一円となる。時の期成会長は山崎音吉氏、副会長山川武夫氏、吉沢春雄、会計上村勇氏、立松伸一氏、苦しいなかにも明るい希望を託して毎日せっせと歩きました。

つぎは昭和三十年に上富良野町に自衛隊が三、〇〇〇名移駐したと思います。
上富良野の人口が三千余名増えて大世帯になった事を思い出してみますと、防衛庁の予算で道路を造り、橋や、衛生センターを建設し、町立病院も高等学校も町の美化に関しても色々と行政上の仕事も多くなりましたが、又町の活気も隣接町村より一段と高度なものになりました事も事実です。
自衛隊の協力により十勝岳の開発も進み、道路もよくなり、電化工事も成り大いに山の開発に寄与せられたり、身近な処で温泉にも入れるようになりました。

高度成長の波に乗って農業近代化も進み大型の機械化農業になり、エンジンの音に目をさまし戸外に出ると野良には馬の姿が消えました。
資源の少い日本の国土で一億の国民が生活を今後如何にして暮すのか、私共は只今の政府の農政を考える時、昔の自給自足の基本がくずれてしまい、物価は毎年上る一方、労賃も上る、公共料金は上る、ストライキで郵便は満足に配達されない。春闘になると、列車は走らず、学校の先生はストライキをやる、医者が診療をこぼむ等色々と私共の身の廻りに不安な事が一ばいあります。木材にしても外材の輸入による消費で国内産のカラマツ材等は買手もない。漁業にしても二〇〇カイリで、色々な問題が起きている。米国から農産物の輸入をせまられ果実農家は大打撃をうける。畜産農家にしても不安な毎日である。政府指導者には必ずといってよい程最後は責任のなすり合いで終る。色々と思ったままを書きましたがお許し下さい。
昭和五十四年二月二十八日記

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛