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清富行政区の歴史

清富 村上 国夫(五十六歳)

「清富」正しくは上富良野町字上富良野松井牧場といいます。この土地が開墾されたのは明治の末で、すでに何戸かの家族がいたようです。

古老竹内幸一郎氏の話によると、大正二年十月末日に、父宗吾、母ハマさんに手を引かれ、又、父親の肩車に橋のない川、丸木橋を渡り、又、水の中をこいで現在地竹内幸一郎氏宅の所にあった山小屋に住みついたとの事です。その時には田中、石川、田巻、横山さんが現清富小学校附近に住みついていたと言っています。二年おくれて弟伊三郎氏が祖母と一緒に岩内から移ってき、やがて、対馬さん外の人々が一戸二戸とふえ、欧州戦争がはじまり、青腕豆の高値に元有坂松三さんが居りました所まで開かれたとの事、そこは柳の沢と言います。

清富の地は一番最初の人(所有者)はサクサベという名でサクサベ第一農場と第二牧場を所有しておりましたが、やがて、細野氏と松井延太郎氏に売り渡して、松井さんが馬を数頭放牧したといっています。松井延太郎氏は、現旭川の松井眼科の祖父の方です。
春には、山が焼けてかやぶきの家があぶないので、迎え火をつけて山を燃やしてから、自分の安全を守ったといっています。春山のやけたあとに、ナタネをバラ蒔して収穫が出来たとの事、夢の様な話で、竹内ハマさん(幸一郎氏の母)は、良く働くといって一日一五銭、普通の人は六銭であったといっています。
学校は現在の日新ダムのところを山越えして、大正十五年五月二十四日、泥流に流されるまで、日新小学校へかよったとの事です。

昭和六年に、松井氏が道庁に売り渡し民有未墾地として、開放され、元村長吉田貞次郎氏の山を含めて五〇戸の人が、一戸十五町歩前後を払い下げをうけたのです。場所により高値の所で一、一〇〇円、安値の所で七〇〇円、五年据置き二十五年支払いで払い下げられたのです。
昭和十年、前後して朝鮮の方々が組をつくって飯場小屋を建て、一反歩笹を刈り手鍬で耕して、安値で一反歩八円、高値で十円で耕してくれたので、急速に土地が耕されたといっています。朝鮮の方々の名前は富永、成田、山本、金山氏とのこと。清富が農地になったのは、その方々の力が大きいと言っています。

大正十五年泥流で失った小学校は、現鰍の沢の入口にバラックで建てられましたが、いろいろと、相談の結果、現在の日新学校の所に新築され清富の人もそこまで通っていました。昭和八年、清富分校が出来、故遠藤金吾先生が教員としてこられて、やがて独立して清富小学校となって、四十有余年、清富小学校はつづいて来ています。
戦前戦後を通して、一時は、青年活動が活発で、青年男女の数も六十人余り、一時はNHKを通して全国放送をするという活動ぶり、その原動力は故遠藤先生の偉大な教育者の情熱であったのです。

昭和二十年、あらゆる犠牲をはらって戦争が終り、清富にも新たな道が生れはじめました。各戸が沢水を利用して水車を廻し、麦米、イナキビをつき、又、モーターで発電して点燈しはじめました。
昭和二十五年、竹内正夫氏が現在の所で発電所をつくるという事で、一月十七日に準備総会がもたれ、昭和二十五年五月三十一日組合員の全面協力により、点燈式を挙行し二十六戸が電気の下で生活しはじめたのです。一年おくれて日新部落の一部、現ダムの用地内に住んでいた白井東北、小泉兄弟の方々にも通電されました。
清富地区の工事費は百八拾万円で四拾万円が道の補助でした。一ワット料金が二円でした。清富地区にも旭川電気軌道バスが走り、地電の電気が農山漁村電化促進法により、期成会が出来、村上国夫が期成会長になって、昭和三十五年十二月二十四日に明るい電気の下の生活がうまれ、テレビ電化製品が使える様になったのも日新清富地区が一丸となっての共同の力でした。総工事七二五万円でした。

昭和三十六年頃より日新ダム工事の話が促進され、約四キロメートルにわたる十五戸の人々が離農移転され、清富は一時陸の孤島といわれたのです。五十戸余りの農家も離農続出して、現在は二十五戸、教育者の方々を入れて三十戸の戸数をやっと保つ現況です。戸数は少なくとも、それぞれ、規模拡大によりトラクターも導入され水田はなくとも自由経済の中で、それぞれの力を発揮して、肉牛、乳牛、養豚にビート、種子馬鈴薯、小豆など力一杯働いています。

農事組合法人一心生産組合が、四十一年に設立されて、十四年目になり、戸数八戸、家族数三十七人、働く人二十五人、粗収益も一億四千万円を目標にしています。町より十キロメートルも離れた清富ですが、それぞれの力を良く発揮して、山林、畜産、畑作の復合経営により一戸平均二五〇〇万円の粗収入をあげています。
清富小学校も廃校になるどころか、若人が多くて児童数も増えはじめて、校長外三人の先生方の力に、新しい若芽が育って来ております。

明治の末期に鍬を入れられて、七十有余年松井牧場も新らたな息吹きをはじめました。故郷という言葉があります。清富で生れ育ち、町へ出た人々も成長して又、懐かしく故郷を思い出す時、清富の地にこられると思います。道道は舗装され、文化的な自然の清富の地に来てもらって、目をみはる自然郷をつくる若人の情熱に感謝しつつ、清富の益々の発展を祈って歩みを記します。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛