郷土をさぐる会トップページ        かみふ物語目次ページ

生い立ちと上富良野への移住

草分六 成田 アサ(七十八歳)

私の出身地は、秋田県山本郡荷上場村、菊地吉松の長女として明治三十四年七月二十七日に生声をあげました。おじいさんもおばあさんも居りまして、大変喜んでくれたそうです。
私は病気という病気もせず、すくすく大きくなりました。五〜六才の頃と思いますが、おばあさんが「お前は鼻が低いけれど、学校へ行って一生県命勉強して、勉強が出来る様になると鼻が高くなるから頑張るんだよ!」と言われた事が今でも耳の底に残り、囁いてくる様に思います。

そしていよいよ小学校に入学し、勉強に励むといっても、学校に行く前に縄をない、仲買人に売ってお金にし学用品を買い勉強したものです。私ばかりでなく皆がそうだったのですから、苦しいとは思った事がなく、むしろ当り前の様に思って居りました。
雪が降る日は、男の子は手製の蓑を着、藁で作った深靴を穿き、女の子は、綿帽子をかぶり、藁靴を穿いて歩いたものです。
又、春、秋の遠足には、男の子はわらじ、女の子は藁草履を穿き、日の丸弁当を持ち、おやつにはシバレ餅(餅を氷らせ、それを干したもの)と入り豆を持ち、湧き水のある所で食事をしたものです。春の遠足等にはスミレの花をつみ、秋の遠足にはブドウを食べたり、ツル梅モドキの花をとってお土産にしたものです。今考えると、あの頃が一番楽しかった様に思います。

私と同年の子供で、家が貧しい為、一日も学校に行く事が出来ず、七才位で奉公に出された子もいるのです。男の子は馬の手入、女の子は子守り等に出されるのです。一年間で奉公の代金は、米一俵位でした。学校から先生が「どうして子供を学校に入れないのか」と聞かれても、親は「家が因るので、子供に助けてもらっているのだから」と答弁するのですから、先生も話の仕様がないのです。こうして六年間が夢の如く過ぎ、私は十四才の春に卒業しました。その後、家事の手伝い、農業の仕事と教えられました。

小学校の校長先生は、村岡石三先生でした。校長先生は修身の担任で、修身の時間には袴をはき、紋付の羽織を着て教檀に立ったものです。「勉強をはじめますから勉強中にいねむりをしたり、おしゃべりをしたりすると、これだぞ!」といって、竹のむちで机の上をピシャッピシャッとたゝいたものです。その度に、私はビクビクしました。校長先生が一通り本を読み終ると生徒に読ませるのですが、生徒も読み続けている中にわからない字があって、モゾモゾしていると、『どうした』と声をかけるのです。「この漢字が読めない」と答えると「勉強がたりないから出来ないのだ」といって、その場で本を持ったまゝたたされたり、時には廊下にひっぱり出されて、夕方迄も帰されない事もありました。
又、むちでたゝかれる事もあります。すると生徒は、二、三日学校へ来ないのです。
先生が家庭訪問すると、頭が痛いという事なので、「頭がよくなったら登校する様に」と伝えて帰って来る様です。

私が卒業した大正二年、大凶作に見舞われ、小作料を納める米もない程でした。その年の秋、男の人は、山へわらびの根掘りに歩きました。それを奇麗に洗い、臼でたたいて澱粉をとるのです。
女の人は、家で二番米をひき臼でひいて粉をつくり、澱粉と混ぜてダンゴをつくって食べていました。それよりもひどい食べ物もありました。藁のふし餅です。ふし餅というのは、藁のふしを鋏で切り、鍋でいって、それを粉にして澱粉と混ぜダンゴを作るのです。大根の葉も澱粉と混ぜて、それもダンゴにして食べました。まずく粗末なものを何年か食べ続けました。そして、大正十一年十二月隣村の成田家に嫁ぎました。

それから、かれこれ一年が過ぎ、大正十二年九月一日、東京で二百十日の厄日に大震災がありました。その年の九月十一日に、主人の兄の招きで北海道に行く事になり、汽笛一声郷里を後にしました。その時母に、「三年辛抱して、千両箱の一つもためたら戻っておいで。長く居ると帰れなくなるから」と言われましたが、結局帰らずじまいになりました。九月十三日には、無事上富良野に着き、いよいよ新しい土地に一歩を踏み出す事になりました。翌日から、主人は木工場に働きに出ました。私は、あちこちの家に稲刈りに行きましたが、知らない人ばかりで故郷を恋しく思った事も度々でした。
その頃の木工場の一日の賃金は、一円五十銭でした。社宅も無料、燃料も無料でした。二人の生活費は、一月二十円位で充分でした。

大正十三年には長女が生れました。
大正十五年五月二十四日には、十勝岳が爆発、農家の人達、百二十数名が亡くなりました。その他、馬や牛、豚、家迄も流されると言う惨事におそわれ、今は草分、昔は三重団体、一面泥の海となり、他町村からも消防、在郷軍人、青年団等が応援に来てくれました。その時、炊き出しをつくるお手伝いをしました。今の渋江病院前に、死体が運びこまれて居りました。

昭和五年七月二十三日には、運送店より火が出、山本木工場、社宅、原木等が火の海となり、恐しい思いをしました。それからすぐに木工場は立ちなおり、主人は、三十七年間お世話になりました。あの時代は、「生めよ増やせよ」の時代で、どこの家も子宝、子宝でした。その頃、長男は四才で死亡。現在は七人居り、皆元気で暮して居ります。

二十三年には、木工場の社宅から草分に移り、農業をして居りました。その当時、隣に高田寺(専誠寺)があり、二十九年十一月二十一日に泥棒が老夫婦の住むお寺に入り、火をつけて逃げたので、寺は影も形もなく燃えてしまいました。その後、そのお寺は七町内に移り、幼稚園の経営等現在に至って居ります。その時の犯人はすぐつかまり、公判の時、私は二回程傍聴しました。

現在主人は八十三才、私は七十九才、今では老人家庭ですが、時おりへたな詩や俳句をつくっては楽しんで居ります。皆様のお蔭で、元気で暮して居ります。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛