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旧細野農場

日新 白井 東北(七十二歳)

この日新地区は、旧地主、作佐部さんが政府払い下げて細野亀平氏が買い受けしました土地であります。
南は、清水川を境として新井牧場、北は、美瑛町元陸軍演習場、東は、松井牧場(現在の清富地区)でございます。
細野農場の面積は、五四〇余町でありましたが、この広大な土地に、明治四十五年頃には、小作人が七戸と聞いております。

鰍の沢から申しますと、沢の入口近い所に古い澱粉工場の跡がありましたが、人はいなかったのであります。その奥に居られた方は久世(元先生)、天理教の佐藤さん、白井広治さんの三戸でございます。
清水の沢では、農場監督の金国さん、喜多久吉、大沢某、山下五平、古川貞吉、及川兵冶さん方の六戸でありました。
私どもの解る所では、鰍の沢は、大木が茂り、笹は人丈より長く、道と言っても造材道の跡といった細い細い道でありました。
思い出されるのは、小川の魚であります。名実共に、カジカ、イワナなどで、川ぶちの笹の下にまっ黒にかたまっていたものです。私等が、ザルですくっても、すくってもどんどん寄って来た楽しい思い出は今も忘れません。

大正六年頃には、欧州戦争の最中で、この地区は、青エンドウの成金時代と申しましょうか、一時に多くの人達が入植して参りましたが、長続きはせず、数年の間に半数位となりました。
大正三年には、喜多久吉さんが、三代目の監督支配人となり、民有未墾地として解放したのでありますが、その時、住んで居られた方々(解放当時)は、
鰍の沢
白井広治、小野寺丑蔵、浅石松之助、白井末蔵、谷兼吉、白井正一、西塚福太郎、白井藤蔵、谷本彦之、佐々木民、船柳弥助、佐藤忠吉、大森茂雄

清水沢
喜多久吉、山下五平、大沢某、及川岩治、小泉伊作、小泉宇一、小泉彰、小泉操、石川勇、辻久作、対馬国吉、白井計雄、三浦金之助、山田藤吉
の方々が、民有未墾地を買受けたのであります。
その当時の畑作は、主として豆類、燕麦、除虫菊、亜麻等が主作でした。その後、追々耕作方法が変わり、初の手不足の時代となり、内地の秋田、山形方面から農業労務者も多くお手伝いを受け、増産できる様になったと思います。部落内だけでも三十人から四十人位でありました。
第二次戦争が激しくなるにつけ、農業労務者の受け入れが困難となり農産物も激減して傾斜地には植林をする等と変化したのです。

昭和三十五年、日新ダム建設のため、清水沢の大半が用地となり、十四戸の農家が転出したので、この打撃は大きく、元々が少数部落のため大変であった事はご承知の通りであります。
世の中も、急速に変貌する時期かの様に思われますが、中学校は中央に合併し日新中は廃校となりました。日新小学校も、昭和五十四年三月をもって西小学校に合併と決っており、六十数年の長い教育所も閉じる事に誠に淋しい思いが致します。

今では、日新ダムも立派に出来あがり、春ともなれば満水となり、中々波がうっており、どこからともなくカモが集って来て泳ぎ廻っているのどかな風景も見られます。また、秋ともなれば、湖畔に育った魚を求める多くの釣人が楽しんで戴いているようであります。
この日新ダムの用途は、上水道、下水道、田圃とあらゆる処に利用され、上富良野町民を初め(一部中富良野町まで)真水が利用され、増産に土地改良と巾広く利用されて居り喜んで居られる事と思います。地元の私等も誠に幸せと感じ喜んでいる次第であります。

終りとなりましたが、これからは少数部落であるだけに、部落一丸となりこの広い土地を生かし努力すると意気ごんで居る姿が見られ、この上ない喜びでございます。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛