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日新部落

日新 佐川 亀蔵(七十歳)

開拓当時は新井牧場と言って居た。年寄った人の中には日新と言っても分らない人がたまに居る。
日新と称える様になったのは、大正六年当時の学校、上富良野第四教育所が日新尋常小学校と改称される様になってからと思う。語源は論語から取ったものだと、恩師高木干景先生に伺ったのを覚えて居る。地主新井鬼司(以下敬称略)は大へんな学者であり、政治家であったなどは、町史にも記載されて居るので略す。後に大正十二年頃だったと思うが、細野農場、松井牧場も合併し、日新部落となり、旧来新井青年会と言うのは日新青年団として発足した。青年の発会式には芝居を頼んだり運動会をしたのを覚えて居る。

日新部落の中心は一番早く拓けた新井の沢で、新井が入植した時から引率入地したのもあるらしい。ダム建設で草分へ行った及川力の祖父及川万次郎など、新井の第一の小作人として入地したと聞く。松永(今の片倉)も古い方で事務所の近くに白鳥、佐々木右左ヱ門、佐々木末治、佐々木留治、佐々木忠次郎など早い方であると聞く。
明治四十四年部落の中心である現在学校より約三粁の処に校舎を新築、村に寄贈、公立の学校として発足したと聞く。開拓当時から居るのは、片倉と藤山の二軒で、その他は流れてから入った人で、学校先生の他白井東北、白井啓治と、鹿ノ沢高台に三浦定吉が昭和七年に入って現住して居る。
戸数の減ったのは大正十五年の爆発の時からで、多い時は新井の沢に三十戸もあったであろうか。
鹿の沢高台にも二十戸余り居った様である。部落の変遷は日新小学校の廊下に地図入りで掲げて居る。
大正十五年の爆発は部落には大打撃であり、当時戸数の大半が流失したので一時如何なる事かと思われた。

学校はもと牧場の中心で、佐川団体鹿の沢(南部団体)などとも言われて居た。作佐部、松井牧場など二沢も三沢も越して通学して居て大へんだった。勿論当時は学校教育などに余り関心なく、百姓は学問など要らぬと言って居た程で、従って子供も余り勉強には精も出なかった様だ。私共も学校に通うのは大へんな苦痛で、遊ぶ事は楽しかったが、勉強は楽しいと思った事はなかった。
思い出すが、冬に机の上に吹雪が舞い込んで、硯の墨も凍ってしまう程で、当時の履物はツマゴで、いつも帰りには紐がカチカチに凍って、しばるのにも困難な程であった。
ストーブの薪もどうしたものか、冬中充分でなかった様で、生徒が二、三本ずつ背負って持ち寄った事も覚えて居る。先生も勿論、授業が終ると裏の山に薪取りに行って居た。薪の小切りも生徒が休み時間にやって居た。鋸が切れなくなると、良く隣りの干葉爺さんの所に目立てを頼んだ。薪を割る時、或る友達が人差指をマサカリで落したのが、今でも忘れられぬ。

青年団は何よりの若い人の寄り処で、学校卒業後は修養の機関であり、社会奉仕の団体でもあった様だ。団は小さくても、大正の末期には村でも名の知れた青年団として活躍して居た。団長の菊地政美は日新校出身で、独学で教師になり、青年子女の為めに頑張って居た。永山高等国民学校に、青年団から冬季学生として金五円の補助を出すなど、当時として如何に後輩の為めに骨を折って居られたかゞわかる。
男子青年は青年団に入ることであり、女子は冬季間和裁に通って居た。部落の下流、今の学校の近くに小寺ミヤノと言う方が居って、和裁を専問に教えて居り、日新学校が複式になるまで何万人もの卒業生を出して居る様である。後に学校に和裁洋裁の専問学校を置くようになり、小寺先生も転出せられた。部落には所々に物知りと言うか、学者が居て助かったものだ。

開拓初期には、市街に出るのも大変な事で、道路も悪く途中何処で熊に出会うかも知れない危い事で、医者に行く事も滅多に無く、余程病気が悪くなってからでないと行けなかった様で、働くことだけが生命だった様で、今ではとても考えられない事である。
身体の具合が悪くなると、加持祈祷に頼る方がむしろ良い方で、私の母なども熱心な方であった。
学校の隣りに干葉己佐吉と言う人が居て、当時学者と言われて居たが、加持祈祷もやり凡字など書く人で、針灸の治療もして居た。今の様に道路も良く交通機関も発達、医療の精神も技術も発達した時代ではとても考えられぬ事ではあるが、開拓当時としては如何しようもない社会情勢で、針灸は勿論、精神療法は最も大事な事だったとも思う。

新井の沢は可成り早くから拓けて居たらしく、先住民族の生活した跡も伺われ、今の学校の近くや藤山の居る辺から、石斧、石臼、矢尻など随分沢山出たもので、爆発で流れた学校の川向いには、字とも象形文字ともつかぬ妙な記号のついた石があったが、御真影奉安殿建設の時、石屋が割って了ったので無くなった。
十勝岳の爆発は、昔にも何回も泥流を流した事があったろう。大正十五年、爆発の折りに流れた跡の断層の中に、直径一米にも近い埋れ木や、崩れた崖になった処に黒い真土、腐植土、或は砂等幾重の層から見ても、しばしば泥流があった事を物語って居る。

日新に木のあった事は有名で、今の神社山から官林まで、青木林であったと聞く。明治四十三年とかの大火で殆んど焼けたと聞くが、私共が学校に入った頃は、古損木が直ぐ裏からあって、薪に取った事もある。フラノ川左岸も、大正十二年頃まで大木があったが、末期までには殆んど伐られた。開拓当時は、伐り出した木材を富良野川本流をせき止め、流送をしたとかで、そのせきの跡が、爆発で流れる前までは所々に残って居た。道路がなかったので流送だけが運搬の手段だったかも知れぬ。大正七年頃、旭川の曽我某と言う人が来て下駄棒を取り、流送したのを見て居る。

日新の部落は、第一次大戦の豆景気を最盛とし、戦争が終ると共に不景気が来て、転出する者多く、その後、昭和七年から新井、細野、松井牧場の民有未墾地に、開放後入植するもの再び多く、日新ダムの建設後現在の姿になった。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛