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佐川団体の今昔

日新 佐川 亀蔵(七十歳)

佐川団体の歴史と開拓当時の生活等について書けとの御依頼ですが、齢七十ともなれば、記憶もおぼろになり、況して書くことにも馴れて居ないが、古老の話など思い出しながら綴ってみたいと思います。
●団体の戸数
明治の末期、宮城県栗原郡志波姫村、今の若柳町より叔父(父の兄)佐川岩治を団長として、上川郡当麻村伊香牛細野農場に小作人として集団入植、年月は定かではないが第七師団がまだ無かった頃で、入植後父は愛別から師団の建築用材を冬季間運搬をしたと言って居たから明治三十二、三年頃だと思う。
明治四十年頃、細野農場が畠を水田に造ると言うので、当時の本道の水田作は危険だとの事で不安を感じて居たところ、新井牧場で小作人を募集して居たので、四十一年佐々木右左ヱ門、佐々木末蔵、佐々木留治、佐々木忠次郎等を先遣隊として下見、新井事務所の近くに入植、翌四十二年十月二十四日十八名程現在地に集団入植、内三名は翌年当麻に帰る、十五名残存。この当時より佐川岩治を団長として居るので佐川団体と称するに至った。
入地した者は、佐川岩治、佐々木仲蔵、狩野寛三郎、菅原室右ヱ門、佐藤安治、北村留五郎、倉本義見、佐川民五郎、佐川政治、鈴木某、菅原、堀江某等外不明。翌年伊藤八重治岩見沢より入地、其の後熊谷健治郎、北村末吉分家、佐藤途治、佐藤文吉入植、北村末五郎、同豊四郎分家、大正初期から佐川忠三郎、佐川庄七、村越忠吉等分家或は入植、大正十年頃までは最も多く住んで居た。
大正十年頃、佐川政治が先ず大沢(フラヌイ川本流)に転居、続いて熊谷健治、熊谷菊次郎、佐川庄七、伊藤善夫等大沢に移る。
大正十三年、北村留五郎三重団体に転住、同十四年、佐川岩治は今の藤山宅向いのあたりに転居。旧学校の隣、干葉己佐吉宅下に菅原寅左ヱ門、狩野寛三郎転住、佐川の高台には十五年正月には三戸だけ残った。正月新年宴会を佐川民五郎宅で行い、佐藤繁夫、伊藤八重治の三人で、不離結束同盟という誓いを交わし、金五十円宛を積み転居の場合はこれを没収する事に定めた。
大正十五年五月二十四日の十勝岳の大爆発で、大沢に行った人達が再び山に戻って来たので、十二、三戸になり、開拓当時よりは少なかったが、暫らく落ちついて居た。
昭和の初年、菅原寅左ヱ門三重団体、伊藤八重治札幌、美瑛、二股と転住、佐川政治は一家全滅、熊谷菊次郎、美瑛二股に転居。佐川庄七等相次いで移転。昭和七年民有未墾地として、元、新井牧場の残地を開放した時は北村末五郎、狩野寛三郎、佐川東一郎、佐川清助、熊谷寿、北村豊四郎、伊藤誠一、伊藤善夫、佐川民五郎と奥に佐藤繁夫、猪又次郎が居た。
この頃が団体の一番発展した時代であったかも知れぬ。耕地面積も広く鹿の沢高台から旧学校の裏高台まで、西は日の出の奥まで通作をして居り、軍用燕麦生産は村一番であり、馬も一戸平均二頭位は飼って居た。
民有未墾地開放後は経営面積も少くなり、日支事変、大東亜戦争と続くにしたがって農業労力も不足になり、次第に不安を感ずる時期に入り、不便なこの地に見切りをつけ転出するものが出て来、昭和十八年狩野寛三郎日の出部落に、佐川東一郎旭野部落、北村末五郎は旭川に転住。
終戦時には佐川清助、狩野円蔵、北村豊四郎、伊藤守也、村上留雄、佐川民五郎、佐藤繁夫、猪又次郎、佐川勇男等が住んで居た。昭和二十五年新佐川道路の開さくで北村寅蔵、北村米昌入地すれども、三十六、七年日新ダム建設と共に、中学校廃校で小学生のみの通学が困難との不安から、里仁、草分に転住、続いて佐川清男、狩野円蔵離農、四十年には佐川亀蔵一戸となった。
入植以来、昨年で丁度、七十年、歴史は変ると言っても、たった一軒になるとは夢想もしなかった。
土産の神の鳥居が倒れて困って居たが、日の出の人達など通作の方々の協力を得て、建て直し神の恵と人の愛情に感謝を捧げたい。
●木
佐川団体の開拓は木の仕未から始まる。うっ蒼たる大木の林であった。着手小屋を建てた所から十勝岳の噴煙が見えなかったと聞く。私共が学校へ行く様になっても随分大きな木が残って居た。
通学路は森林の中を通った、風の強い日など、木の枝が折れて飛んで来て大変危険だった。冬は木の枝の雪玉が落ちて来るのも恐ろしかった。
家の前辺りには、ヤチダモの丸太が、長さ十二尺程のが四、五本も取れる伸びの良い木もあったとか。大正十二・三年頃でも、畠の中に地上五、六尺に伐った根株が無数に並んで居て、プラオをかけるのに、木の根に引掛り、よく胸をついたもので、黒く焼けた根株は遠くから見ると兵隊が並んだようだと言ったものである。
働き始め頃まで、昔、角材を取ったハネ材(検収不合格)が随分と処々にあった、素性の良い樽材は函館築港の枕材として伐り出したという。地主新井は、島津農場よりこの地を求めたのは、木材と平坦な山地帯に目を着けたと聞く。佐川団体は市街まで平だと説明し、入地した人達も信じて来たが、着手小屋を建てる時、屋根タルキの細い木を探しに歩いて居る中に、前のコロクニ沢と後の牛舎の沢のあるのを見つけたと父が言って居た。
入植の年か、前年とかに物凄い大風があって、沢山の根ムクレと折損木が出来たそうで、私共が小さい頃は風倒木の上を、何処までも土に降りないで、走って遊ぶことが出来る程であった。
開拓のためには火はつけ放題であったとか、大正の末期まで黒こげの折損木が立って居た。畠を造るのに邪魔な木は、五〜六尺に玉切って積み上げ、火をつけて燃やして居た。今でも、時々、深い根ムクレの穴に積んだ、焼け跡の炭が出て来る事がある。
木が売れるようになったのは大正の十年頃からであろうか。薪材として市街に冬出して居たようだ。島津や草分に木が無くなってからの事だろう。
●水
団体を出て行った原因の一つに、水の不足があったのでなかろうか。入植の当時から大正の四〜五年頃までは、殆んど、水に不自由はなかったのではなかったか。家の前あたりから細い流れがあって、秋まで流れて居た。牛舎の沢で釣って来た鰍も、秋まで放して飼って居たし、佐川団体長の家には池もあり、アヒルなど沢山飼って居たのを覚えて居る。
その後、開墾が進むにつれて木も伐られ、畠も出来るようになり、大正の五、六年には僅かに根ムクレ後のくぼ地に水が潜って居るだけで流れはなくなり、水不足になって行った。
雨が降る度に、道路の側溝を流れ去り、腐しょく質の無い土には、水持ちの悪いのも当然といえるかも知れない。
水が井戸に無くなってからは、裏の沢から、夏は家族総出で水を運んだ。二斗樽で背負う者、石油空缶で担ぐもの、老も、若きも、朝晩の日課であった。
冬は雪をとかして飲料水にしたり、風呂の水まで作って居たので、満足に風呂にも入れない状態だった。その後、馬でドラム缶で運んだりして居たが、昭和三十六年に、無動力ポンプで初めて機械揚水をした。それも二、三年で機械の部品がなくなり、発動機で汲み上げた。
五年程後に、北電の会社線が入ったので、入植以来、念願の水不足が解消した。
現在では、いくら水を使っても不足を感ずることはない。
●道路
団体の道路、それはやはり、最初はふみ分け道で辿って来た。その道は現在、新道の入口で、日の出ダムの少し下の西川牧場の入口の処で、くぼんだ所から三角点のある陵線を新井牧場まで、人跡未踏の所を来たとの事である。
その後、事務所の出入りの道を作り、大正の末期まで市街に通って居た。大正十年頃、今の日新校の処に近道を造って、幾分近くなったが、市街まではタップリ二里半はあった。現在では町道になり、昔の影はない。
通学道路は爆発前は佐川岩治の所から、牛舎の沢を越え、佐々木忠次郎の沢を通って学校に通った。一里位の山坂の細い、人間だけの通る道であった。
その後、鹿の沢に通作するようになって、馬車も通れるようになり、現在も町道として残って居る。市街に行く道は、昭和二十五年西川牧場の入口から片くずしに新道を作り、駅まで一里半の近道になった。
奥の方は作場道として段々良くなり、現在旭野部落に連絡する立派な町道として活用されている。
●熊
佐川団体といえば必ず熊の言葉が出る程、熊が多かった処である。開拓当時には、隣の家の間にも、時々通ったりした。
夜中に馬が鼻を吹いた事が何回もあり、家の直ぐ近くの西瓜も、何回となく食われた。
学校の行き帰りには、いつも集団で、上級生が先きに立って馬の鈴を鳴らしたり下駄をぬいで叩いたりして通った。
高等科に通った時の大正の末期でも、毎朝、何頭かの熊が道路を歩いた足跡があり、喇叭かホラ貝などを吹いて通った。友達が無い時は、高等科には行けなかった弟も、高等一年の秋まで行き、熊に合ってからは学校に行かなかった。隣の伊藤清人君も一人で、十勝岳の爆発の日には、熊が出るので大沢の兄の家に泊りに行って、流されて死んだ。
昭和二十五年、新道が出来てからも、二、三回会って居る。
入植以来、人畜の被害は無かったけれど、農作物の被害は、毎年の事で、燕麦など荒されぬ畠は珍らしい程だった。
当時、熊は、日中は沢の中に居り、夕方は必ず出て来て作物を荒した。冬篭りの穴も時々見付かり、三月の末頃には沢に出てイラ草やフキのとうなど良く食って居たようだ。
入植当時の人達は熊は恐ろしくても、鉄砲で撃つ事などなかった様だ。むしろ神様扱いの様だった。山のオヤジに様をつけて、オヤジ様と呼んで居た程だった。この地の土産にも八将金神と山神と熊野神として祀ってある。
●結び
開拓後七十年、随分変った。昔語りの人も無くなり、幼ない頃、多い時は二十数人も居て、佐川学校などど言われた学校も流れ、見渡す限り農地だった高台も、いつか先も見えぬ森林になり、住民も愈々減って、今年は母校も歴史を閉じようとして居る。流れる歴史に逆う事は出来ぬ。昔は懐かしくとも何れは消え去るであろう……。
先人の労苦を偲び世の情けに感謝して、今日は生きて居る。この度の御要望、同じ窓の後輩、先生方の尽に心から敬意を表し筆を櫚く。
昭和五十四年二月一日

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛