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上富良野三重団体を築いた当時の苦労話

●川田金七番と孫・哲司さんとの対話から●  第二話

これより、本町開拓の地たる三重団体に至るまで、川田金七翁とお孫さんである川田哲司さんの対談が収録されております。
表現言語体は無修正のままでフォノ速記により整理して掲載しますので、方言によるなまりもそのまま使用させていただきます。
尚、前掲第一話の内容と多少重複する所があろうと存じますが、この点ご容赦を乞う。
昭和五十三年三月
上富良野町教育委員会
速記ライター 小松信幸
対  話
川田哲司 もう七日もかかって小樽に着いたから、みんな大分くたびれておったでしょう。
川田金七 船の中では、病人のように酔ったから、ごはんが食べられんかったよ。
哲司 小樽に着いてからは。
金七 小樽の「越中屋」っていう宿屋で泊まって出してくれたカレーご飯はまずかったわ、もっとも船に長く乗ってたから、うまくなかったんやろう。
哲司 そうだったの。
金七 小樽に着いてからも、しばらく体が船に揺すられているようでふらふらしていてなあ
哲司 それから汽車で歌志内に行ったのかい。
金七 炭鉱で石炭を運ぶ無がい車っていう台車でな。屋根もない真平な台車で、コモを敷いて歌志内の炭鉱まで出たんや、みぞれのような雪が降ってなあ、汽車の煙が目に入って明けていられんかったのと寒かったのとで大変だったよ。目に入ったゴミをお互いに取りやっこしてな。
哲司 それは何月ごろだった。
金七 何月やったか……忘れてしまった。(しばらく考えて……)四月のはじめだったやろがなあ。
哲司 汽車で歌志内に来たんでしょう。
金七 そうそう、それから山越えして平岸に来てなあ。チカザワのワリイタでこしらえた新しい大きな家が立っていたが何人ぐらいの人があそこにおったか。……五、六軒だったと思うが、山崎善太郎に山崎正一郎、篠原に久野とかがおったかなあ。平岸にも七〜八日もっと泊ったやろうか。荷物みんな歌志内炭山にあげてあるもんだから、みんな総出で荷物をしょいに行ったさ。
哲司 荷物は先に送ったのかい。
金七 歌志内炭山へ平岸から荷物をとりに団体の全部がそろって行くもんだから、あかりの人が山越えて、荷物しょって、ドッコイショ、ドッコイショと泊まっている家まで運んだものだ。
その荷物をまた造り直してここにくるため、ダグラ(駄鞍)を馬の背につけて滝川をぐるっとまわって神居古澤にきてそこから旭川に出たよ。
空知川にはまだ橋というものは無かったから川を渡るのに荷物をイカダに積せたりで大変な苦労だったよ。
哲司 そうするとね、平岸からここまでは全部歩いたのかい。
金七 歩いたも歩いたも。それにヤカンだとかナベだとかマサカリ、ノコ、ナタ、みんな持って行かんとならん。こっちへ来てから薪をこしらえたり、家を建てる木をこしらえねばならんから何もかもこっちへ来る時しょって来てそして家を造ったんだ。
みんな荷物をとりに行って、吉田さんという人のダグラを借りて、その馬につけるだけの荷物にするのに造り変えたんだろうな。
ダブラ追いというのは、一人で七、八頭から、十頭くらい雌んた馬のガラクタ馬にクラをつけて。小さい荷物にして米も一俵半はとてもつけられないので、二斗か三斗くらいの小さい荷物にしてダグラにつけてきたんだ。
他の団体の人たちもみなダグラをつけてやって来ていた。とにかく馬車もきかんし、馬橇もきかんし、やはりダグラを利用するよりしょうがなかったんだね。
哲司 歌志内から上富良野まで歩いて来るったら、かなり大変な道程だったでしょう。
金七 そうやなあ、なんぼぐらいかかったもんやらしらんけど。持って来た荷物を入れる小屋と人が住めるようにササ刈ってそのササで拝み小屋を造った。この拝み小屋の生活から開拓をしはじめたんだ。
哲司 歌志内を発ってからその後どういう道程でここまできたの。もうちょっと詳しく話してよ。
金七 そうやなあ、歌志内を発っては、やっぱり滝川の方を廻って平岸に出てからこっちに来たんだなあ。空知川をイカダで渡り滝川の町に着いて一泊、神居古澤は難所が多くて難儀したがそこから旭川の町に出て「三浦屋」に泊った。
旭川から美瑛まで来るのにはまた川を渡らねばならんし、ダグラも荷物は余計つかんだろうしなあ。今みたいに橋なんか一つもないから大変じゃった。やっとの思いで美瑛の今は停車場のところへ出て来て、それからまた美瑛川を渡ってこっちへきたんだ。
哲司 ダグラだけど、それは自分の持ち馬でなくて雇った馬だったのかい。
金七 ダグラ追いと云ってそれを商売にしているのがおって、そいつに頼めば物を運んでくれたわけや。買物は旭川まで出んと買えんかったし、買った品物や食糧、日用品を運ぶのに、このダグラを頼むよりしょうがなかった、道はもちろんついていなかったよ。
哲司 旭川からここまで道は無いのにどうやってたどり着いたの。
金七 自然についたような細い道があったし、この道がアサヒ農場まで通っておったからね。
西御料地、十八号のオキキネウシに来る途中の川に橋はかかっていたようだ、アサヒ農場まではまあ道らしいものはあったよ。
哲司 アサヒ農場の先は全然道ついてなかったのかい。
金七 ついてないさ。美瑛も道無しだった。美瑛の停車場あたりは、その後二年から三年目ごろにクマノやクシロの方から団体移住してきて十軒から二十軒くらいだったろうと思う。
哲司じゃあ、美瑛からどこを通ってここまできたの。
金七 美瑛川は増水してたし、橋はなかったので美瑛の停車場の前にある石山を通って美馬牛の停車場に出た。その川も水かさ多く流れもきついので、川上のほうで川越し、、、シスナバ(深山峠)へあがったよ。
全然道はないさ。まあここを開拓するのに測量隊が入って測量していたからその人たちが通った道を頼った。道を間違えんようにということで測量師が案内してくれたよ。
通った道にはところどころ木を切ったり木を削って印をつけてくれたがとにかくここにくるまでには難所が多くて苦労したんだ。
哲司 上富良野の平野が見えはじめたのはどこの山からだったの。
金七 美瑛川は増水の時期だったから渡るのには大変な苦労だったが、やっと美馬牛の上に出ることができた。ここから西の山を越えて深山峠に向うところだったが、おれと一諸に来た久野さんと話していたが、ここまできてこんな山ん中で住まんならんようじゃ、これは困ったなあと、幌向のほうにはまだ拓けておらんが土地も平で、がんびの木も余計生えてたから、これだったら幌向に入地するんだったなあと後悔し合ったんだよ。むこうは平なところがあったんだし、どうしてあそこをもらわなかったやろう。
こんな山奥に入ってしまって、山ん中でとまってしまうんだからほんとうにつまらんぞなあと、久野のハルやんと話しておった。やっと美馬牛の停車場のほうにでて、さらに西の山を越えて深山峠のところまできたときだった。このフラノ原野の平地が見えはじめた。「おい」「おい」いいところあるわや、いいとこある、ある、おれたちここに入るんだなあといって見渡す限り広々とした平野と東の山々は煙が噴いていたから硫黄山(十勝岳)だなあと分ったときは、ほんとうにうれしかったなあ。あそこの坂を下りてきてそして三重団体は二十号か十九号、これが二十七号やで、ハギワラ(荻原)のところから山崎さんの方へ向いてクイらしいものが立っておったのが見えたんだ。
哲司 四日市を発って長いこと日数をかけて苦労の連続で、おまけに全く知らんところにきてやっとこのフラノ平野が見えたときは、うれしかったでしょう。
金七 うれしかったなあ。こりゃいい平地があるわや、それから、きたところがカヤがあったんだろうけれども、カヤ全部焼けてしまってなあ、そして屋根を葺くつたってカヤがなくて、もうしょうがないからササ刈ってそれでやるよりない。拝み小屋立てたら屋根を葺く材料がなくてさ。木のことはなんぼでもあったけど、おれが入ったときには久野さんとおれんとこと吉沢のミノさん、山野脇松さんと四軒か五軒で一つの拝み小屋を立てて、そこに住んだ。まるで刺身を並べたようにして寝泊りしたんや。
哲司 一つの拝み小屋で四軒も入ったのかい。
金七 はじめのうちはなかなかササ刈って立てるのは容易でないもんだから、それからしばらくしてあっちこっちとバラバラに自分たちの土地を探し求めて小屋を造って移り住んでおった。
それまでは自分が欲しい土地を毎日のように見て歩いたもんだよ。おらのところは山崎のマタやんのおるところとフサやんがおったところと谷さんがおったところと合わせて三戸ほどもらったんだ。おやじは高士さんのところをもらおうとしたんだけれども、先に入ったところはおれがもらうんだ、といってそれを繰り返すものだからそこをあきらめ、山崎兵松がおったところと杉野捨吉の土地をもらい、三線二十八号の山崎由松のところから木を切り出して薪を作ったりした。山崎兵松のところには原野のようなところで木が一つも無かったようだ。この原野にタモの木をもって来て割り板をつくって家を立て、家のぐるりと屋根に全部割り板をうちつけた。
だがこの土地が悪くてなあ。わしらが入った御料地の土地にはあとから三重県の前川さんという人がきたが、その前川さんが馬を余計持ってきたのでわしらの土地も開墾してくれたからよかった。馬を頼むときは一反歩当りでいくらということで耕してもらう。二反から三反歩くらい耕してもらってそこに作付けしたが、やはり山崎由松(マタヤン)の土地が悪くて何一つとれんのよ。そしておらの土地も同じだから何んもとれんかったから、ほんとうに困ってしまってなあ。
哲司 上富良野に入ったのは四月でしょう。雪はなかったのかい。
金七 いや、こっちに来たのは五月のはじめじゃったよ。
哲司 じゃもう雪も降らんかったのかい。
金七 雪は解けていたよ。平岸からこっちに来るまでは道にも雪はなかったと思うなあ。ムギやイナキビ、アワを食べていたので、その食糧を買うため西御料地まで行かんとならん。西御料で食糧が手に入らんときは旭川にある精米所まで行って買うんだなあ。ここに来てからようでめんに行ったさ。当時汽車道のササ刈り仕事もあったし、スリッパーの道つけする仕事もあった。
われわれにはスリッパーかつぎは体が小さいのでできんかったから、大人がかつぐための道つけをしたり、ササ刈りのでめんに行ったもんだよ。道つけの仕事がないときはベベツ川(ベベルイ川)までいって海野という農家ででめんに使ってもらった。そこでいただいたでめん賃でアワやキビ、イモ、ムギ、ソバコの季節にとれた作物を買って来るのよ。トーキビがとれる季節にはトーキビをたくさん買ってきてよく食べたりしたよ。
哲司 どこまで買いに行くって。
金七 西御料地の海野さんというところ、九号のところに住んでおった、そこまでいけば、何んとか手に入るし、なければどこやらから手配してくれたなあ。
哲司 食糧を買いに行くったら一日がかりでしょう。
金七 ああ、一日がかりでもこっちまでは帰れんから途中でとまることもあった。
哲司 西御料ったら今ではどの辺だろうね。
金七 西神楽の六号あたりにちょっと高い山があるだろう。あの山の下に前野さんが住んでおって、そこからむこう七号から九号まで行って美瑛川がずうっと流れているところに海野さんがあった。美瑛川の端までいかなけりゃ海野さんの家まで行けないよ。だから九号が終点だった、そこで一晩泊まって帰ることもあるし、でめんに行って泊ることもよくあったなあ。
哲司 買い物にいくったら馬を連れていくのかい。
金七 馬なんかおらんさ。ただ歩いていくだけだった。こっちを夜明けというか日の出前に出発するんだ、隣同志で「おいあす買物に行かんか」てなわけでお互いに誘い合いながら行かんと、まあ熊が出たりすると怖かったんで二、三軒で一緒にいくんだよ。
哲司 むこうででめんとりして金づくりしてから買ってくるんでしょう。で、むこうで忙しい時期には何日も泊まって仕事させてもらったのかい。
金七 そういう時もあったし、やっぱり忙しい時期には何日も泊まって仕事をしたさ。でめん賃あまればその金でまた買いに行くこともようあったからなあ。
哲司 上富良野に入地して一年目では何を作ったの。
金七 一年目はシラナガテボウとかね、土地が良いところに入地した人らはイナキビ、アワをよく作っていた。それを食糧にしておったよ。
哲司 じゃあ、作った作物を売るところまではいかなかったの。
金七 自分らが食うことできんときだから売るところまではいかん、いかん。だからでめんとりに行くよりしょうがなかったんだよ。こまったことは、冬の間だった。冬はでめんの仕事がないし、だから夏の間だけ一生懸命働きに出んとならんかった。家族の多い家だったら生活するのには相当な難儀したやろう。
哲司 開墾はどんな方法でやったの。
金七 クワだけで耕したのよ。
哲司 ええー、クワだけでかい。
金七 そうさ、クワしかなかったもなあ。耕したあとキビやアワの種を買うてきて蒔いたりした。できた作物は唐竿で叩いたり手突きにしたりで、まあ半分くらいは皮かぶりだったがそのまま食べたさ。
哲司 入殖してから木が生えているところを全部切って開墾しちゃったの。
金七 原野はやはり泥流災害があったところだろうかなあ。作が悪くて取れんくて困ったよ。
哲司 木が生い茂っている土地のほうが作もよかったんだろうね。
金七 そりゃよかったさ。やっぱり木や草がたくさん生い茂っている土地はいいなあ、原野のようなところはみな泥流が来て災害地になっていたんだろう。何十年たっても何も生えてこないんだから。
哲司 開墾するときの苦労はそんなになかったの。
金七 「……」「………」(しばし考えこむ)
哲司 開墾するのに木を切ったり木の根っこを抜いたりしたんだねえ。
金七 そういう苦労はあったなあ。
哲司 上富良野の深山峠を下りてきた時には、むこうの中富良野とか富良野とか自分の好きな土地に入ってそこを好きなだけもらうことできなかったのかい。
金七 そりゃ自分たちの団体以外のところをもらおうとしたら面どうな手続きがいるよ。やっぱり北海道庁まで行かなきゃならんし、内地から戸籍謄本や住所証明をとらんとならん。その証明には嘆願書を作って提出してはじめて戸籍謄本をもらうことができる仕組なんだ。このように団体を単位にして「三重団体」や「アサカ農場」といってこういう農場をもらうわけだ。越中の人は「富山団体」、福井の人は「福井団体」というように内地から来た人の出身県名を割り当てて「団体」として入殖した人が多かった。ただ東中の人達は個人でもらって来て入殖したものも多くて「神田農場」とか「田中農場」、「安井農場」はそういう方法をとって個人がもらった農場だった。そういう人たちはまあ人間ができ物だったもんだから、自分で土地をもらって農場を拓いたんだね。それから「五十嵐農場」とか「人見農場」もそのような部類に入るようだ。
哲司 団体に入ってひとつの拝み小屋を立てたんだが、住めるような家は何年目ぐらいからやりはじめたの。
金七 わしのところは、おやじが内地にいたときに大工の真似ごとをしていたから、ここに入って二年目で割り板の家を作ったよ。大きさは二間の二間ぐらいの家だったが、ようあんなところで寝起きしたもんだと思う。
割り板や丸太のデコボコの木で床を張ってムシロを敷き、その上にいきなり、うすいセンベイ布団を敷いて寝たもんだ。体がよう痛いと思わんかったなあ。だけどその次の年になって兄や母親がここにやってきたけども、母親のこしぎは毎日キビメシを食べるのをいやがってなあ、顔をしかめながら食べとったよ。
哲司 そのころ開拓に入殖した人らは、まずいとかなんとか言っておれんかったでしょう。
金七 そりゃそうさ、もう腹が減るから食べんならんしほんとうにヌカだけ抜いた御飯でも食べれりゃいいと思った。イナキビの御飯は味がなかったけれども、こりゃうまいと思ったね。
キビ飯おれは大好きじゃったなあ、キビ飯に小豆やテナシウズラなど、豆類を混ぜて炊いて食べたもんだよ。おれは何を食うても味がなくてもうまくないと思ったことはなかったね。腹が減りゃ、フキ飯だってうまかった。このフキ取りに母親と二人で向うのノブさんの土地のそばの線路ぶちに沢山ふきが生えていたのでよくとってきたのを想い出すなあ。お盆過ぎてもフキはまだ食べられたし、これにアワやキビを混ぜて炊いたらほんとうにうまいなあと思ったね。けどワラビっていうのは年中食べられん、遅くまで採れんし大きくなって葉っぱが開いたらもう食べれんしフキは長く食べられたよ。
哲司 塩を入れて炊いて食べたの。
金七 塩を少し入れて炊いたなあ、まあ塩ぐらいは安外安かったし手に入ったからね。
哲司 はじめの頃にね、拝み小屋に何軒か一諸に住んだんでしょう。その後みんながそれぞれ拝み小屋みたいな家を立てて一人抜け、二人抜けしていったんでしょうやはり自分自分の家を建てて分かれて行ったから淋しい思いだったろうね。
金七 そりゃそうさ、淋しい思いはしたなあ。だけどやっぱり自分の家を立てんといろいろ都合悪いことがあってなあ。
はじめて立てた拝み小屋は、今の三重団体に神社を祭っているところがあるだろう、あの川渕に立っていたんだよ。何軒ぐらいだったかちょっと忘れたが、まあ早く自分の土地に行かんと開墾だって不自由だしね。
立て方はいろいろやった。ちょっとした家みたいな恰好のいい立て方をした人もいたし、丸太ん棒の柱だけで立てて翌年になればカヤで家のぐるり全部囲ったりしてそれでも自分の手で作った家だと思えば結構なものじゃと満足したもんさ。家を立てる時は部落の人総出でお互い手伝いやっこしてなあ。
哲司 当時は入殖した人らみんなで助け合って家を立てたりカヤで囲ったりする時は助け合ったんでしょう。
金七 そうだったよ。何をやるにしても一人じゃいい仕事出来んし、隣り近所の同志が一諸になって手伝いやっこしたもんだ。
哲司 その当時は自分のすきなだけ土地を拓いてそれをもらうということはできなかったのかい。
金七 自分がもらう土地というものは「五年間」という期限で開墾しなけりゃならなかった。もし「五年間」の間にできなかった場合土地はお上に取り上げになっちまう。一年一年どれだけ拓いたか役人が来て厳しい検査があったよ。
「一年一町歩」をめどに耕していかんかったら、お取上げになってしまうから毎日毎日が大変なことだよ。
哲司 開拓時代でもそんな定めがあったんだね。
金七 昔でさえそういうお定めがちゃんとあったし、五年かかっても土地をよう耕せんと全部お取り上げなんだわ。かと云って五町歩を全部耕すということじゃなかった。「薪炭備林用の松林は残してもいいという定めがあってなあ。
哲司 五町歩のうち四町歩だけ開墾してあとの一町歩は「薪炭用」に残すということでよかったんだねえ。
金七 そうそう、五年の間に四町歩さえ耕せばいいんだよ。一年に七反か八反歩を耕していればいいことになるし、その耕したところには何かを作付けさえしていればまあお取り上げにならんかったんだ。
哲司 北海道に入殖した人達はみんなそういう具合にならなくちゃならんかったのかい。
金七 そうだね、とにかく毎日毎日一生懸命になって拓いたもんだ。
哲司 今じゃ大きなトラクターで開拓できるけれども、昔はクワ一丁とカマぐらいしかなかったから、大変な苦労だったでしょう。
金七 朝早くから晩まで一生懸命働かんとならんし、それに畑を作るためには木を切らんとならん。この切った木の根っこが邪魔でこれを抜きとるのに汗みどろになってやったね。
哲司 開拓当時は朝早くから晩遅くまで働きっぱなしだったの。
金七 内地にいたら自分の土地というものは手のひらほどしかないし、もちろん分家さえできんかった。そういう人達が皆この地に入殖したわけだから「五町歩」ももらえるんだもの、そりゃそりゃ、血汗の滲む思いで一生懸命だったさ。
哲司 今いる家と比べたら開拓時代の拝み小屋は寒かったんだろうね。
金七「…………」やっぱり寒かったのう。
哲司 北海道の冬は過ごしてみてどう思ったの。
金七 内地にいるとき父から聞いていたが、北海道の冬はものすごく寒いってなあ。寒いのなんのって、北海道に来て体験せんと分らんと思った。だがカヤが豊富にあったのでこれが非常に助かったんだね。カヤをうんと厚く屋根を葺いてそれに雨漏りせんようにしたり、カヤをたくさん敷いたよ。部屋(居間)には、「炉」を炊いていたし燃やせる木はこれも豊富にあったし「炉」の火はドンドン燃したよ。真冬になりゃいくら炉の火を燃やしてもスカスカな家だからそりゃ寒くて寒くて。
哲司 じゃあ朝から晩まで夜通し炉に木をくべていたというわけ。
金七 冬の間は夜中じゅう炉の火は切れんようにと大きめの木をほうり込んでいたさ。
哲司 飲み水なんかはどうしたの。
金七 水はそれぞれの家で「井戸」を掘ったさ。
井戸を掘ったらそこに「ドーの木」を突っ込んで井戸壁にした。原野に住んでいる人で「ドーの木」が無いものは「古樽」を買ってきてこれを壊わして井戸壁にしたものだ。
哲司 ランプっていうものはあったかい。
金七 ランプになる前のもので、あれは「コトボシ」だよ「お碗」のようなものにブラ下げてなあ。その「コトボシ」に油を注いで灯したものだ。
哲司 油は買わんとならなかったんでしょう。
どうやって手に入れるの。
金七 石油一升位買っておいたら一年ももったし、「炉」の炉火の明りも結構なものだったからその明りで「ツマゴ作り」「縄なえ」は大体やることができたよ。
哲司 クワとかカマだけで開墾したのは、ここに来て何年くらい続いたの。
金七 おらんとこは入ったその翌年にねえ、おやじが内地へいって「お金」をかなりもってきたのと、兄もここにきたから開墾用の馬はすぐに買うことができたんだ。
哲司 そうするとねえ、翌年にはもう開墾は馬を使ってやったのかい。
金七 そうそう、馬を使ったから助かったなあ。
哲司 アワやヒエやキビなんかは、その後何年くらい、そういうものばっかり作ってたの。
金七 そうやなあ………アワやイナキビばっかり食っておったからなあ、十年も食っていたやろうかなあ………。
いやおらのところは二十年もそういうものばっかり食っておったのでかなり長い間だねえ。
哲司 じゃあ、二十年ちかくもそういうものばっかり作っていたんだね。
金七 アワは余計作らんかったよ。イナキビに豆を混ぜて食べたからなあ………うまかったぜ。
哲司 自分で作付けしてそれを食べられるようになるまで何年くらいかかったの。
金七 ここに入地してかれこれ五十何年だからなあ………入ってから三年目くらいじゃろうねえ。だがほかの早い人たちは二・三年もしたら、アワやイナキビを売っておったなあ。おれのとこは山崎兵松の土地に入っておったが、西川竹松と山崎由松は服部代二郎の土地を二軒で開墾してたけども、あの急な斜面ではどうしようもないと云って弱っていたなあ。それで西川も山崎も余計土地を開墾せんかったよ。それで仕方がなくて向うの原野にいた和田さんから二十六号左側西二線向うに三戸分ほどもらって馬で耕したんだが、いやいや、作物は何一つとれんでよ。西川は三十六号の左側にいたが今は誰がおるやろうか、分からぬが、ともかくその人が二戸分もらって開墾したんだ。そこで二年ほど頑張ったがなあ、それでもろくに作がとれんでほどほど弱ってしまい停車場の前あたりにソバ屋をはじめたんだなあ。
哲司 そのころは組合というものなかったし「農協」もないしね、とれた作物は、ずっとむこうの旭川まで運んでいって売るのでしょう。
金七 そのころは、「小売雑穀屋」というのがいてその雑穀屋が出来秋めがけて買いに来ておった。「燕麦」(麦)でも「豆類」でも何でも買いに歩いていたんだ。
中にはなあ、雑穀屋に作物を売ってしまったんだが金をようよこさんで逃げていく悪い奴もおったし。
哲司 開拓に入ってから何年くらいたって道庁から食糧の配給とかあったの。
金七 いやいやそんな援助なんてなかったよ。やっぱりわしらが入殖した時分には政府はそういう民間人を助けるとか補助するとかはできんかったし、何もそれらしいことはなかった。
哲司 じゃあ「土地をやるんだから拓け」という感じだったんだね。
金七 そうだ、土地をただでくれるのも援助するのも同じという考えかただったんだろう。
哲司 話は変るけど、上富良野で田圃を早く造りたかったろうね。
金七 「米」がとれるからやっぱり早く造りたいと思ったわ。
哲司 三重団体で造りはじめた人はだれ。
金七 この三重団体で二階堂さんの土地があり、そこに畑中のじいさんが入っておった。
そのじいさんが早いうちに米を作りかけたらしい、それに内田さんという人も米を作りたいから潅漑溝を早く設けてほしいと要請した。
まあはじめのころの稲作ったら何もとれなかったさ。そうやから畑中さんは水田にしたり畑に切り替えたり何回も繰り返していた。たまにできたと思えば「青米」ばかりといった具合、後になってもまあ自分たちが食べる米くらいがやっとで、今の様な「白い米」なんて一つも入ってなかったよ。
哲司 おじいちゃんはいつごろ米を作るようになったの。
金七 おれは、あの浜村の土地であそこに菊地という人がおったけども、あそこの土地を浜村から買ってそこに「水田五反」ほど作ったのがはじまりじゃった。
哲司 稲作はじめて作ってどうだったの。
金七 やっと「米」がとれたんだよ。そうやから、ほんとうにうれしかったなあ………。入地して二十年以上だもんなあ………。
哲司 「米」を食べた時うまかったろうねえ。
金七 内地からやって来てイナキビやアワばかり二十年も食べていたから「米御飯」はうまいなあと思ったさ。おやじだってイナキビ御飯ばっかり食べてたから、しょっちゅう腹痛おこして下痢したりで、かわやに入ったりしてたが、米を食べれるようになって少しくらいの青米でもうまかった。おかげで体も丈夫になってなあ、おやじは大喜びじゃったよ。
哲司 おじいちゃんが上富良野に来た時、年はいくつだったの。
金七 おやじに連れられて来た時は十五になっていたよ。去年(昭和五十二年)は九十五歳じゃ。
哲司 そう、九十五歳だものね。ここら辺に入ったときはどのくらい太い木があっただろうか。
金七 太い奴になるとなあ、差し渡し三尺以上のものもあったぜ。(両手で輪を描くように)それでフサヤン(山崎由松)の土地に、いいタモの木があってなあ。真直にスーッと十間以上伸びていたよ。あそこは本当にいい樹林やった。
ここのところは、あそこからみると土地も悪いしいい木は余計なかったし、やっぱり兄があんな東の土地に行かないで、フサヤンの土地と服部代二郎の土地、あそこに二戸開墾しとりゃ成功が早かったんだけども、まあ兄もそういう細かい木を切ったりすることはきらいなたちやし、西川もあまり出られんかったし山崎もそういうこときらいやしなあ。あそこの土地はほったらかしで東の方へ行って二年ほどおったけど、やっぱり何も取れんのよ。兄は馬を余計買うて、よその土地をプラウを付けて開墾してその金で生活しとったんだら……。おれは馬買いばかりさせられておった。そして兄は海野タメさんにお願いして開墾の手伝いをして金もうけの方をやっていた。あの土地も、牧草作るようになってから良くなったけども、平らだったが作ができん土地でなあ。何もとれんこともあったし一人でつまんで刈りとるくらいしかないから売るほどなんて、ありゃしない。兄は停車場の前の土地を岩間から買うてそこでやったんだが、そこも土地が悪いのよ。この土地は誰ももらい手がなくてしばらくほったらかしてあった。
その後歌志内炭山から来た太田という店主がここを買いとって小屋がけするっていって、当時十円か二十円の金をかけたのだろう。途中で小屋立てをやめてしまって柱だけ立ておったよ。それからこの土地を太田から三十円くらいで買うてここへ来たんだ。このときもあまりできんで苦労したさ。
哲司 上富良野史には明治三十二年に鉄道がついたように記されているよね。
金七 そうそう、ここへ入るとすぐ鉄道の測量師がやって来て、その翌年はもう木を伐採したりして工事にとりかかっていたなあ。
哲司 鉄道は割合早くついたんだね。
金七 とにかく政府ではなあ、日本国とロシアと戦おうとしているものと決っておったから、ここを早く拓いて旭川から十勝の帯広のほうに連絡せにゃならん。この北海道はロシアに近いやろう、だから危いってなあ。早速ここに移住民を入れてそして鉄道をつけて帯広から旭川への連絡しようとしたんだ。だからこの線は「十勝線」とも云われたんだ。わしらが入るともう二年目か三年目だったか「師団」をつくる準備にかかったんだもの。そして、ここから兵舎を建てるための材料をみんな持ち去ったと云ってもいいくらいほとんど太い木を運んでしまった。
やはりロシアの艦隊がやってきて津軽海峡にくるという考えもあった時代だからね。
(注)
「八甲田山の彷捏」で映画化されて有名。
明治三十五年一月三十日付の東京日日新聞に「行軍大隊の遭難」と題して陸軍省公報が掲載されているので一部ご招介する。
「青森歩兵第五連隊の第二大隊は去る二十三日一泊の予定を以て東津軽郡田代に向け雪中行軍を試み未だその目的に達せざるの途上、大吹雪に遭遇し全隊悉とく雪中に埋没するの不幸を得たるものの如く云々」とあり、第五連隊第二大隊長山口少佐以下二百十一名が遭難したとなっているように明治三十五年当時は日露戦争の気運が高かった。
(明治三十五年一月三十日東京日日新聞より)
哲司 ここらへんに入った当時は「熊」や「狐」なんかずい分出没したんでしょう。
金七 「狐」はよくこの辺におった。ただ「熊」はわれわれと出合ったことがなかったんだが、「熊」が出た出たという話はザラにあったなあ。
「狐」に「こっちこい」って云うと、人なつっこくついて来たりしたよ。冬に荷を運んだりするとき、よく馬橇のうしろからひこひこついて来たこともあったし、「オオカミ」のような動物もいたんだが人に害をするようなことなかったから何も怖いことがなかった。
ただ「熊」だけは皆んな怖がっていたし、おれは一度も「熊」に出会ったことはなかったね。
哲司 「熊」に一度も出会ったことなかったんだね。
金七 わしは運が良かったのかなあ、兄らがきたときには、タマヤンの土地に家を建てに行った時、そしてあのフサやんの土地に薪を切りに行った時、昼ごはん食べておったんだ。そこにヒョッコリ「熊」が現われた。兄はびっくりしたと云っておった。開拓に入殖するときに内地から「騎兵隊」が使う「鉄砲」を二十丁ほど三重団体が買うて、そいつをみんな分けあって持っていた。この「鉄砲」は無償で分けてくれたやろうなあ。そいつが一丁あった。さっき言ったように、兄が昼めし食っておるとこに「熊」が出たんで仕事はまだ終っていなかったがその「鉄砲」をとりに行った。「熊だ」「熊だ」と兄が云うんでわしも一緒に「鉄砲」を兄が持っていたのでついて行ったら、ちょうど兄が昼めし食ったところに「熊」が通った跡があった。
それで田中さんのところに行って皆んなを招集し、「鉄砲」を持って熊狩りに出たんだ、まあもうちょっとあそこに座っていたら「熊」とばったり出会ったろうなあ。
哲司 「熊」一頭射とめたら「毛皮」とかは貴重な品物だったでしょう。
金七 まあ「熊狩り」に勇んで出かけてもやっぱりおっかなくて、よう射たれんのやろう。「熊」の肉なんかよく食べたりしてなあ、みんなで分けてよ。
哲司 そのころ野良仕事は大変だったかい。
金七 日の出前に外に出るようにして、「荒井牧場」「サクサベ牧場」から木材を切り出して、それを運搬するようになってから、夜は十二時ごろ起こされることもあったし、夜中の二時か三時に起きることもようあった。「松井牧場」の奥まで行くのには暗いうちに行って暗いうちに帰るという仕事はしょっ中あった。あの時はよう稼いだもんださ。
哲司 土地を耕すのは女の人もやったろうけど、それと「麦」や「米」が収穫したあとモミをとったり、ワラにしたりする仕事があったんでしょう。
金七 そうそう、タワラ作りは冬のうちにやるよりしょうがなかったよ。
哲司 トーミなんかなかったろうし、脱穀機もなかったろうしね。
金七 トーミくらいはあったよ。おれがここに入って二年目か三年目にトーミ屋の大工がきておったもの。旭川まで行けばトーミも買えたしね。
哲司 モミを落すのは全部手でやったの。
金七 そう、カラだけ落したなあ。「燕麦」やなんかは「シバリ台」をこしらえてなあ。
哲司 「米」はどうやって落したの。
金七 「米」はやっぱり「センバ」こいてさ、そうして「トーシ」にかけてまた干して、それをたたいてまた「トーシ」にかけ、「ヤタ」をなげてゾロゾロと摺ったもんさ。
哲司 モミ摺りは。
金七 モミ摺りは「ドロウス」に入れて、手で押したり、引っ張ったりして「ドロウス」を廻した。「マンゴク」というものがあったから「マンゴク」にかけて精選したよ。
哲司 トーミを使ったりマンゴクにかけたりできたのはやっぱり鉄道が早くつけられたから、これだけ急によくなったんでしょう。
金七 そういうこともいえるね。それまでは「風」を利用して「実」のカラを落したりで原始的なやり方だったよ。
哲司 最初のうち「米」がとれなかったのでしょう。「米」を買いに行ったこともあったんでしょう。
金七 ああ、とれんとれん、「米」を作っても何も取れんこともあったよ………。そうやから田中さんがこの二階堂さんの土地を川の渕に水田をこしらえて、米を作ったがやっぱり取れんのでまた畑にして、しよっ中替えていた。
哲司 このころになっても冬はまだ皆出稼ぎに行ったのかい。
金七 おれは、「山子」にも行ったし切り倒した木を運びに行った。おれは冬の間よく稼いだもんだ。立松さんらは何もしなかったからなあ。土地がよかったんじゃろう。
哲司 開基八十年記念の栞に書いてあるように、三重から北海道に来る途中船の中で女の子が一人死んでいると記されているよね。
金七 ああ、久野伝兵衛さんの子供で久野春吉の姉が死んだんだよ。あの横浜から荻野浜にくるまでシケでのう。それで死んだんだろう。まだちっちゃい子で二つか三つにもなっていたかなあ………。裸足のまま死んだなあ。早く海に水葬してやったんだろうが……可哀想でならんよ。(涙ぐんで話していた)
哲司 じゃあ、シケは余程ひどかったんだね。
金七 ひどかったなんていうもんでない。船がぶっちゃがると思った。もうこれが最後かと「海の藻屑」となるかと思っていたよ。
哲司 おじいちゃんどうもありがとう。長い時間だったけど開拓の苦労話はとっても勉強になったよ。疲れたでしょう。
金七 いやいや、おれも昔のこと想い出したようでね、懐かしかったよ。
哲司 おじいちゃん、今年九十六歳だもね去年の八月二十日、「上富良野町が開基八十年」ということで盛大な記念式典があったでしょう。おじいちゃん「開拓功労者」で表彰されたしね……うれしかったでしょう。
金七 よつと一諸に表彰されたしなあ。うれしかった、うれしかった。
やっぱりおれは倖せものだよ……よつと二人して喜んだなあ。
哲司 おじいちゃん長い時間ほんとにありがとう。
第二話おわり

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛