郷土をさぐる会トップページ        かみふ物語目次ページ

上富良野が誕生してから八十年

島津二東 海江田 武信(八十一歳)

昨年(昭和五十三年)は開道百十年であり、上富良野も開基八十年を迎えた次第で不肖たまたま時を同じくして明治三十年六月軽川(現在の札幌市手稲町)の前田農場(父が農場の管理者であった為)で生れました。上富良野の草分である三重団体の入殖と同じ年であります。
島津農場は明治三十一年土地の選定を終り明治三十二年入殖となって居ります。私は兄や姉の学校の関係もあり札幌在住の祖母の所へあづけられて居り鉄道が開通する様になったので明治三十四年四月に初めて上富良野の土を踏んだのです。雪溶け道を歩いて現住所までとぼとぼと歩いた記憶は今でもはっきり覚えて居ます。
自分としては住みついた時から七十八年となります。それで此の記録も諸君等の生れた、昭和十二年前と其の后とに区分して上富良野の進展の様子を書く方が意味があると思います。

先づ千古斧鉞を入れた事の無い原始林草原を想像して下さい。其の大地の上に立ちあがった開拓者の心境は悲壮な感に打たれ、さてどこから手をつけたら良いか途惑ったと云う事は事実と思います。
鋸、鎌、鍬より道具の無かった時、先づ木を切り草を刈り焼きはらって一鍬づつ耕すより方法がなく、そこへ馬鈴薯、豆、麦、南瓜、稲黍等先づ喰う物を作り春先きより蕗、わらび、ぜんまい等の山菜、これは乾燥或は塩蔵して冬季間の野菜用に貴重なものであったのです。自給、自足が生きて行く第一条件であったのです。
必要欠く可からざる物資は旭川まで二日がかりで買出しに行くのですが人の肩で運べる量はわづかな量で、重い物は馬の背(駄鞍馬)による運搬方法よりなく苦労のほどは察するに余りあります。

住居も掘っ立て小屋で雨露をしのぐ程度のもので入口も戸はなく莚が下げてあり土間つづきに長い薪の焚ける、土足のまゝ踏込める炉(囲炉裏)があり、大きさは二米に一米半位の大きさで、其の中でどんどん薪を焚いて暖を取り、又煮物をしたり夜は燈用ともなるのです。炉の困りは家族の食堂であり、居間であったのです。部屋の仕切りは殆んど無く土間の上に乾いた草を沢山敷きこみ、その上に莚を敷いてその上に布団を敷いて休む。又人でも来ればいろりの回りに茣蓙を敷いて(座布団)代りに座って貰うと云う有様でしたが、此の方法が最も暖く暮せる生活の智恵であったのです。やがて土間の敷藁の上の生活は不衛生だと云う事で、床板を張る様にしたのですが、暖房の面から冬は寒くて駄目だと云われたものです。
此の様な生活も交通不便と現金収入の無かった事で、真の自給自足、生きて行く事がせい一ぱいの時代であったのです。此の時代は、農家一戸当り年間、白米一斗、石油一升、と云う時代で米は御盆と正月用の白い御飯、カンテラ用の燈用石油です。

やがて鉄道の開通によって生活様式が一変したのです。種々の物資が運びこまれる様になり雑貨店が出来ると、現金収入の方法も考えねば生活が出来ぬ様になり、その方法には北海道の木材に目をつけた資本家が材採事業を始めたので、伐採、搬出、馬搬の仕事が冬季間農家の副業として行なわれ唯一の現金収入の途が開けたのです。ここで私は「北海道の雪」について申し上げたい事は雪の効用、利用によって大きく開発の力となった事です。雪道はかためる事によってどの様な所でも最短距離に作る事が出来、辷り易い氷の道が出来大量の木材を馬の力で運び出せると云う事が雪が溶けるまで利用出来ると云う自然利用の大きな役割りを果した事となります。現在雪を喜ぶのはスキーヤー位となり今昔の感にたえません。
当時駅を中心に線路の両側は木材の山が出来、町の家並は数える程であり、遠くから見えるのは木材の山だけで、当時の貯木量は全道一だと聞かされた記憶があります。初めは近くの江花方面、江幌方面、それから東中の山麓地帯で目下演習場となって居る方面と民有地は殆んど切りつくした時代があり、この土地が畑地帯に代ったのです。三井系の資本により木工場も出来工場で鳴らす「ポー」が朝、昼、夕と時計代りに、又仕事の切り目にも今のサイレン代りに利用され、又汽車の汽笛も今何時の汽車と云う様に時計代りに利用したものです。

日露戦争の始まった明治三十七年は私が小学校入学の年です。玄関を入ると廊下があり左側は校長住宅と教員室、右側に教室が一つあり二部授業、三部授業で町に近い低学年は早々出て十時過ぎには帰って来ました。それから遠い生徒や高学年の生徒が行くと云う様な方法を取って居た様です。
学校での遊び方は戦争ごっこでした。次の年、戦争が大勝利に終り、神社参拝やら旗行列、鉄道の人々は台車を軍艦に仮装しマストを立て、煙突を作り、万国旗を飾り、レールの上を動かして見せてくれた事を思い出します。戦后は軍隊帰りの先生も居り体操は兵式体操で気合がかかったものでした。

私は明治四十四年春中学へ入る為札幌に出、大正五年春、岩見沢の農学校を出て日高種馬牧場(陸軍省馬政局)に三年間実務の研究、大正八年四月に上富良野の父の所(島津農場支配人)に帰って来ました。この間八ケ年間は上富良野を離れて過して居ります。
この間第一次欧州戦争もあり国内的には軍備拡張、産業の振興、貿易の振興等の為輸出産業の花形豆類の大暴騰、為に豆成金の種々のエピソードも生れ、米一俵五円で豆、殊に青魂豆が十円以上と云う時もあったのです。第一次欧州戦争は日本に取りましては痛手を受け、かえって国力の充実の時となり、世界の目は警戒の目をもって見られる様になり、軍縮会議が開かれ、戦艦の保有量の制限を受け二個師団の縮少をやらされると云う時代もあったのです。その半面内容の充実には懸命であったのです。

こゝらで大正年代の上富良野の大きな事件は大正十五年五月二十四日の、十勝岳大爆発です。草分全地域、富良野川沿いの島津農場に泥流による田畑の埋没は一変した田畑の姿を見、又、百三十名近々の尊い人命を失った姿を見た農民は茫然自失、どうやら自分は生きのびたと云う事が第一印象で、先の事を考える余裕はありませんでした。
当時復興か放棄かが大きな問題で種々意見もありましたが、草分地区の農民としては開拓当初の旺盛な精神を振い起して復興に踏切り、数年の間に原型に復興し歳月を経るに従って現在の美田美園に仕上げたのですが「なせばなる」人間の努力の前には不可能は無いと痛感し、又深く敬意を表するものであります。
地形的に活火山の麓の町であり、昔から泥流を流した事が六、七度あった事は、鉄道工事の橋脚の根掘りの際にはっきりと事実が証明して居りますし、富良野盆地の等高線の入った地図を御覧になればおわかりになります。中富、富良野と標高差がはっきりと現れて居ります。上富と富良野とは四十米余の標高差があり、爆発の度毎に上流の方から埋めたてて居る姿が良くわかります。再度この様な事が無いとは断言出来ないのが、活火山麓の町に宿命的なものがあると思います。

又「ヌッカクシフラノ川」の現在位置を流れる様になる前の位置は現在の高校のあたりから神社の裏を通り小学校の正門前の低い所を通って富山会館の所から線路の東側を通り国道の踏切りの少し南に鉄道のガードがありますが、そこから郷土館の建った低地から保育所の裏を通って富良野川に合流して居た形が大正初期まで良くわかって居りました。又二十号から二十一号の中間で富良野川へ合流の時代もあり、現在の旭中地区で湿地に流れこみ、尻無し川となって居たのを、大正末期、富良野排水土功組合によって開削され空知川へ合流したのです。

次に大正末期より昭和にかけて日本の発展は世界注視の的となり、朝鮮合併、満州国の独立の為肩入れを為し、国連脱退後、日支事変等、資源の確保、飛躍の足がかりを作る為の動きは東洋の覇権を握る様に見られるのも当然で、終に日本相手の世界戦争にまで進展し物量と科学兵器の前に終に無条件降伏へと、華やかな大日本帝国も終止符を打った事も、諸君が小学校へ入った昭和二十年八月十五日です。諸君も戦争末期或は終戦当時の事も少しはおぼえて居られる事と思います。

さて古来より男子の厄年は、二十五歳、四十二歳(大厄)、六十歳。女は十九歳、三十三歳(大厄)、と云われて居り、論語の中にも四十歳を(不惑)と云い人間完成の歳と云うて居ります。諸君も成人されてより二十余年、人生の花の時代。家庭円満、子宝にも恵まれ老后の設計等先づやれやれと云う心境で御過しの事と思います。長い人生の一つの節としてしめくくりをつけ大いに御活躍を期待するものであります。

昔は人生五十年と平均寿命の短かかったせいもありますが、今は二十余年も寿命が延びて来て居ります。社会制度も大きく変り、科学、文化も目まぐるしい程の進展をつゞけて居ります。取り残されぬ様に努力せねば取り返しのつかぬ事になりはせぬかと案じられます。
この半面精神文化と申しますか、民主々義の年齢の若さが見られます。無理からぬ事とは思いますが世界の目は容赦なく日本の独善的行動に対し厳しい目を向け又行動に移って来て居ります。世界人として種々義務づけられて来て居ります。日本の中堅として現代の世相を担って居られる諸君の今后の精進こそ日本の将来を左右する世代の人々だと信じます。自重自愛真の平和国家建設の為努力して下さい。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛