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軍靴のひびきの中に

東中 上村 重雄(五十一歳)

私が当時国民学校高等科在学中、先輩の方々の御指導助言頂き、六月八日の運動会当日、五年生以上の模擬演習が校庭いっぱいに実戦さながらに展開され、銃後青少年の決意を示した行事が今尚まぶたに浮かんで参ります。冬には雪城を造って雪戦会、雪中行進、倍本神社や金びら神社までの駈け足行軍、相撲、剣道など軍国色に、少国民としての教育方針でありました。

高等科卒業後青年学校に入学、軍人教官の教育を受けました。青年団に入団し、先輩諸兄の御指導を頂き団体訓練と郷土防衛の使命を担って、農作業のつかれもいとわず体力の向上に努力いたしました。その中で特に印象深い行事は、夏期十日間毎夜開催されました体力向上相撲錬成大会でした。場所として八線十八号辻甚作氏宅前、五線十六号三橋徳市氏宅の二ヶ所をお借りして土俵を造り、附近の団員全員交互に取組み、錬成に汗と泥にまみれて頑張りました。

当時、親身になって後輩を激励御指導下さいました先輩、辻甚作氏、三橋直市氏、三橋徳市氏、武島清造氏(元稲の花)、渡辺栄太氏、坂口茂一氏、塩田義虎氏、島田良友氏、飯村斉氏の方々に心から感謝の念に堪えません。担当係として、小川直太氏、工藤喜一郎氏、島田信夫氏、床鍋昭夫氏、柳原光雄氏、丸田義光氏、元由武雄氏、丸田淳氏、藤倉敬一氏、安井今雄氏、渡辺一郎氏、多地藤松氏等上級役員の方々がお世話下さいました。有志で相撲同好会が結成され、体力錬成に努力した。この時の様子を書いて、戦地に頑張って居られる先輩の方々に慰問袋と共に「郷土だより」としてお送りして喜ばれました。
その他、行事として暗渠掘の共同作業、軍用保護馬鍛錬会に参加、銃剣術試合錬成、一夜錬成会(青年会館合宿)、堆肥増産、青年研究、田畑の共同耕作、寒中訓練などの行事に頑張りました。
心身鍛錬、団体訓練、勤労奉仕が活動の中心となりました。そして挙国体制となり勝利の日をめざして頑張りました。多くの先輩の方々を戦場に送り、後をついで銃後を守るため汗と土にまみれて健闘いたしました。

先輩、床鍋繁則氏が決戦戦力増強大日本青少年団全国大会に全国団員代表に選ばれ誓詞奉読の光栄を担われ、また、多田良雄氏が青年学校全国代表大会に選ばれ参加されたその御偉業は青年団史に永遠に輝く業績と讃えられております。その他諸先輩の御活躍がありました。これら先輩の中に、物故された方もおられ、ありし日の温顔を偲びご冥福を祈っております。
その他行事として印象に残っているのは、あの終戦前の竹槍訓練であります。もし敵が上陸した場合は、竹槍をもってこれに向うと云う戦法で、毎夜のごとく集って男女団員合同で当時の在郷軍人会幹部の方々の熱心なる御訓育ご教導をいたゞき訓練に励みました。軍用保護馬の鍛錬会などにも団員はそっ先して参加練成いたしました。

軍靴のひびきの中に軍歌の雄叫びとともに銃後にあってその守りに団員は自ら進んであらゆる団行事に参加し、青年団員としての使命達成に邁進したのであります。私の歌の先達であり常に温きご教示いたゞいております先進、青地繁大兄が応召入隊される日に詠まれ、私の手帳に記されたお歌、出陣にさいして「わが命今日よりわれのものならず大い命ぞ皇み国の」のお歌こそ、当時の若人の意気でもありました。今、尚、胸に残る珠玉のお歌であります。
遠くは日清日露の戦役、支那事変、今次の大東亜戦に郷土より多くの方々を戦陣に送りました。
これら先輩の方々の御労苦に心より感謝申し上げますと共に、戦陣に逝かれ平和のいしづえとなられた方々の御冥福を祈念申し上げるものであります。
すぎし日、青春の日の思い出を偲びますとき、喜びと悲しみも随分あったことを思うとき感慨無量万感胸にせまるものがあります。私もときおり「大東亜戦史」をひもといて当時をしのんでおりますが、この平和な日本を再び戦乱におとし入れることは絶対にしてはならないと誓うものであります。
開基八十周年を迎え、開拓と郷土建設に一生を捧げられた先人の茫々たる原野を血と汗にまみれて切り拓き、今日の沃野を築き上げられた先覚の方々の偉大な功績に、深甚の敬意と感謝を捧げて止まない次第であります。

  拓かれし 八十年のいしづえを しるべとなして 新らた世を生く

  開拓の よもやま話し刊行の よき日ことほぎ 燃ゆる火の山

戦時下大政翼賛の一役を担って、その下部機関として、挙村一致銃後の後援の徹底を期して、国民奉公の誠を致す事を目的として各種団体を一丸とした銃後後援会の組織活動が活発に展開されており、青少年団もその一員として団体活動をしておりました。その後、名称は銃後奉公会と変名され、国民皆兵の本義と隣保相扶の道義に基いて活動されました。
国民精神総動員体制が命令され、万民翼賛、一億一心、職分奉公の国民組織を確立して臣道実践体制の実現を期して毎月八日を大詔奉戴日と制定して健闘したのであります。
軍歌の嵐、軍歌の響が山野にこだまし、若人達、中年の方々は続々故郷を後に悲壮な覚悟で出征応召されました。志願少年兵の入営入団もあり挙国戦時の日常が昭和二十年八月十五日正午まで続いたのであります。
当時筆者は青年団本部付動員事務兼健民修錬部相撲錬成係として、団旗旗手を拝命し、鈴木信先生、安井洵先生、多田恵夫氏、川上清五郎氏の御教導を頂きました。

私達の年代より以上の年代の先輩諸兄は、日本の命運をかけたあの苛烈な時代に生れ、そしてあの時代の教育をうけ、戦場に、銃後に共に戦ったのであるが、私たちはいまでもそのことを常に人生航路の一旅程として思い出して、そのことによって自分自身がみがかれたものと悔なく思っている。それは祖国日本を、この国土を護るために生命をかけたからであり、このことは戦争に勝った、負けたとかの結果とは別問題であります。
戦争は二度としてはならないことは全国民の悲願である。そしてあの頃の若者であった私たちの精神構造やものの考え方は、今の若者たちに理解できないかも知れない。しかし三十数年前に、あの凄絶な戦いのあったことは、まざれもない事実であり、その事実をありのままに託して後世に残すことはそれなりに意味のあることであろうと思います。私たち世代の青春時代を、戦争とそれにつゞく敗戦の混乱と飢餓に埋めつくされた世代は長い道程とも感じられるのです。

戦時下において印象に残る事は忘れもしない昭和二十年七月十五日早朝の富良野町を中心とするB29・グラマンの大空襲でありました。
あの朝私達の斑は青年団員で経営研究し耕作する「かちどき青年田」の除草を男女合同でしておりました。突然見なれぬ飛行機二機が低空飛行で私達の頭上すれずれに飛んで来ました。
だれかが「アッー敵機ダ」との大声にびっくり、われ先にと附近の家々に飛びかくれました。
「富良野がヤラれている……」見るとどす黒い煙が上っていました。
その日は度々空襲があり、生きた心地はありませんでした。生れて初めて実戦さながらの大空襲をこの故郷で迎えようとは……。
それから毎日のように家々や学校では防空ごう掘りが続き……。田畑にいってもいつ空襲が……と。
ついに八月十五日正午、天皇陛下自らの玉音放送によって悲しき敗戦を迎えました。その年はまた大凶作でもあり生きる糧を求めて苦難が続きました。感慨無量……。青春の思い出。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛