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想い出の記

東中 上田 美一(七十六歳)

● 開墾
未開の土地は原始の森で、柳・桂・楡の大木、地面には葦と熊笹、ゼンマイがうっ蒼と茂って居たものです。木を倒し、六尺から九尺位に切断して積み重ねて置き、乾いたら火を入れて焼き、草は刈倒し、乾いたら焼払います。而し木の切株とゼンマイの株は残ります。其の年の食料を採る為にソバ、又はイナキビの種子を撒蒔をし、鍬でハツッて置くと、少ないが収穫が有った物です。
夏の内に同じ様な作業で地拵して於て九月の初め頃に菜種の撒蒔をして置いて、翌年の七月の末頃収穫が出来ます。此れを売ると、夏、金が入るので、毎年の様に繰返して行なわれたものです。
此の様な方法で一と作すると草もすくなくなり、土地も幾分耕し安くなりますが、木株とゼンマイの根が多く悩んだ物で、一鍬一鍬と手耕をしたのです。手耕は中々の重労働で、一ヶ年で約八反位しか出来なかった様です。作物を二作位した後は、一頭引のプラオに根切用山刀を付けて馬耕が出来たのです。馬耕を容易にする為には、木株とゼンマイの根の取除きに大変な苦労があった様です。誠に悪戦苦闘であったのです。
● 住まい
当時は農場主の住宅以外は、家屋らしい建物は至って少なく、殆んど家は小屋であったと思います。いずれも自己所有の荒山から伐り出した丸太のまゝの材料で、近所隣りの人々が集まって手造りの物ばかり。柱は掘立、屋根は木の皮か麦稈ぶき、壁は葦が多く使われて居た様です。窓枠に紙を貼った物で明りを採り、床は土間に雑草を干した物、又は麦稈の上に藁ムシロ敷き、炉に薪や丸太を焚いて暖を摂り夜の明りに使い、又、炊事に使われたのです。冬の吹雪ともなれば、寝て居る布団の上に雪が一センチも積り、布団の襟が裏白に凍って居たものです。カンテラの中の油脂が凍って火が消えたと言う様な寒さがあったと申して居ります。
冬の生活は大変であったと物語って居りました。想像以上に厳しかったのでしょう。
● 食べ物
入地して十年を過ぎた明治四十年頃には、開墾も進み、作物の収穫も多くなりましたが、主食としては裸麦、イナキビ、ソバで副食物として馬鈴薯、カボチャ、トウキビ等で米は全く貴重であったのです。稲は、村内で試験程度で山口吾平氏の試験の後に櫻坂源蔵、西田九七郎氏が危険を冒して試作されたと聞いて居ります。
明治四十年に田中農場主が用水組合を創り、ベベルイ川の水利用の道を開かれてより、ぼつぼつと稲作を見る事が出来たのです。それ迄は、米は全く貴重品とし取扱われ、病人が出た時の養生と学校生徒の弁当用にわずか使われたのです。小学生の弁当は、米六割、麦四割位を混ぜた物は最上で少なく、一般には麦とイナキビとを混ぜた御飯であって美味かったのです。当時は弁当を持って来ない生徒が多かった様です。又、母の丹精こめて造った手打そば、黒砂糖を餡に入れたそば団子の弁当の味、炉の灰に埋めて焼いたご薯芋の味と香りは今でも忘れる事の出来ない良い思い出とし残って居ります。
● 冬仕事
食べ物は採れる様にはなったが、生活する為にはどうしてもお金が要ったのですが、農産物も収穫が少なく、食料を残すと売る物誠に少なく、冬仕事に求めたのです。培本とベベルイ地帯は大森林で、造材師が入り木材を伐り出して居りましたし、又、四十年頃には建設用の石材が採石されて居たのです。それを上富、又中富の駅土場まで馬橇運搬の仕事があったのです。寒い朝の四時頃より夕方五時頃まで稼いで賃金は一円五拾銭位であった様ですが、当時としては得がたい現金収入の道として運搬に従事したと申して居りました。
● 保健
激しい労働に粗末な食料、健康を保つのは、真に大変であったのです。風邪を引いたら卵酒を、胃腸が悪くなれば米の御粥を食べて養生をすればなおると言う呑気相な言葉もありましたが、当時は肺病、脚気、リュウマチ、おこり、ヂフテリヤ、腸満仙気で悩んで居た人が多かった様です。
病気にかゝると、先ず手近かな富山の薬屋さんの薬。次は市販の売薬で治療して、重くなってからお医者様にお願と云う有り様で、病気は進んでから診て貰う事が普通でした。なぜかと言うと、診て貰うには、先ずお金の心配、病院迄運ぶ方法等があったのです。冬季間は馬橇の利用があったのですが寒さに問題があり、夏季は悪泥道をがた馬車で耐えられないからです。いよいよ重い人は戸板に乗せて近所隣りの人が病院へ運んで行くのをよく見た事があります。夏の暑いのに病人もかつぐ人も大変であった事と思います。
その頃の上富良野のお医者様は、駒崎先生が初めてで成瀬先生が居られたと思います。此の先生は、私の父が胃が痛み夜に往診して頂いた事があり記憶があります。中富良野には下富良野の執行東洋先生が、週何日か出張診療されて居た記憶が有ります。
こんな話を聞いたのです。明治三十年代に入地したと言う古老より聞いた事ですが、東中市街のあたりに湧き水があり、そのあたりに編笠小屋で住んで居た二人の木挽が腸濡と云う病気に罹ったのです。中々癒らないので故郷から大黄の根を送って貰い、煎じて呑むと腸濡が全癒したのです。
それで、今后この様な人が出た場合使って貰う為にと、再び内地から種子を取寄せて播いたのが八十年を経過しても畑に、道端に茂り雑草の仲間入りして居りますが、効果はどうか……。
開拓時代に病人が出たら大変であった様です。病気が重くなる、金がない、診療を受けて置かないと万一の時にはと、悶へ苦しむ当時の貧農の姿を思い出し今の世代の有難さ一入を覚えるのです。
● 風防林と熊
富良野原野を開拓民を入れる為の区画測量をしたのは、明治二十五年頃であったと聞いて居ります。その当時は、全体が原始の森で、冬季に雪の上で作業をしたと言い伝え居ります。
その時代から東中地帯は風が強いからと、風防の為の林を開拓地より除外し、国有地として残して居たのです。此の風防林は、後に町有林として払下げを受ける迄は全く処女林で、昔ながら大木とブドウ、コクワが繁茂して、秋の実の熟する頃には熊が出没して、見たとか出合ったとか、追いかけられたと言ううわさが多かったものです。特に十八号の今の遊園地は湿地で柳の大木が茂り、小川の流れがあり、風防林の中でも一番熊の出没が多かったのです。十八号道路を通っての学校に通う小学生には本当にこわい所で、友達の少ない時には下駄を脱ぎ、はだしで走って通った物です。
あの地帯はほんとに熊が居り、射止められて小川の土橋のあたりで解体の姿を見たり、ある年の秋には、熊射の人が射はずして格闘となり銃を曲げられ、命があぶない所を友人が来て射殺して救った事もありました。此の人は長岡と言う人で、場所は今の谷口政敏氏の土地のあたりであったと思います。十八号道路は私達の小学生の頃、ほんとにこわい道であったのです。
● 楽しい催し
苦しい開拓の時代にも又、楽しい催しがあったのです。今から考えると誠に幼稚な物であったのですが、春と秋の地神様のお祭り、真言寺のネハン会の団子撒き、馬頭様のお祭り、盆踊り、秋の八幡様のお祭り、小学校の運動会等は楽しみに待った物です。
地神は田中農場と中嶋農場の二個所奉祀してあって、春と秋の社日の目にお祭りが行なわれたのです。豊穣の神とし、信仰されてグループの神様であったが、お祭りは盛大で余興に角力や芝居、中嶋農場では競馬が行なわれたのです。
馬頭観音様は真言寺が主管をして居りましたが、広く信者を持ち四月十七日のお祭りには、宗派を問わず愛馬を連れてお祭りし、住職の御祓を受け、守り札を頂いて馬の無病息災を祈ったものです。又、余興としての餅撒は例年の様に行なわれて盛大な物でした。小学校の運動会は、明治四十二年からで年代的にはおくれて居たと思われます。盆踊りは明治三十五年頃より盛んであったので、気の合った者同志が仲間を誘い、輪を広げて楽しんだ物で、真言寺と道隆寺の広場を借りて踊ったのです。今とは大分変って居た様です。自からが楽しみ、又他人にうるおいを与えたと聞いて居ります。
八幡様のお祭りは九月九・十日の両日に行なわれ、明治三十年代には競馬・角力・芝居があり、楽しみであったのです。今から考えれば誠に幼稚な催しであったが、当時は最大の楽しみにして居たのです。
(明治四十年頃の姿を記憶した古老の話から)

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛