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古稀を迎えて

春日区 岩田 賀平(六十九歳)

私もことし古稀を迎えて遠く過ぎ去った昔の「思い出は淡し、されどなつかし」の昨今である。
私は明治四十三年東九線で産れた。産姿さんがいないので隣のおばさんにとり上げてもらったという。
そこの土地で祖父は附近に先駈けて稲作を試みたが、洩水がひどく稲は青立ち、一作で中止。
こんなことから、父は将来性を考え東三線に移り、既墾畑一万坪、他に風防林五町の開墾と取り組むことにした。
開墾は伐木から始まる。良質材は角材に、次は薪材といっても七・八尺の長さに切ったのを、丸太のまま排水溝にまたがせ、高さ六尺位の棚積とした。枝木は適宜集めて、春先よく乾いたところで、夜風の静まる時刻を見計って点火する。物凄い火炎は夜空を真赤に染めた。幼なかった私は恐しくて却々寝つかれなかったものだ。

新墾地の蒔付は、根株の間を一鍬づつ削り播きするのだった。ぜんまい株やカヤ株のあるところは、窓鍬は簡単に受けつけず、体力のない母には殊の他難儀だったようだ。
こうして数年かかって拓き終えて、畑は八町になった。除草など不完全なのは仕方なかったが、収穫作業は絶対省略出来ない。農機具らしいものはなく、小麦や燕麦は手刈小束とし、手製のシバキ台でシバキ落とす。裸麦は夜中に麦焼きと称して、一把づつ穂を焼き落とし、翌朝カラサオ脱穀をする。豆類もカラサオ脱穀といった具合に、すべて原始的手作業であったから、両親の苦労は並み大抵ではなかった。

一方両親は若かったから、足手まといになる子供が次々産れる。母は長男だった私に、「体を引き伸してでも早く大きくして働かせたい」と、忙しくて切ない気持を訴えるのだった。農繁期になると、三年生でも早引する者、五・六年生ともなれば長期欠席者もあった。子守、炊事、風呂の水汲み、掃除等、皆子供の担当だった。
旧村誌に、全村八一六名の就学児童がある時に、困窮による不就学児童が八三名あったとの報告であるが、実態は高学年生の中途退学だったようだ。

この頃の住宅はお粗末で、草葺き、掘立、いろりの焚火は煮炊き、暖房、照明の一部を兼ねていた。
屋根裏からは煤が無数にぶら下っていて、危険この上もなかった。床はすき間だらけの板の上に莚を敷いた。寝室の場合莚の下にわらを二三寸はさむ生活の智恵だった。
井戸は素掘して地上部だけ簡単な枠、水位が高く金け臭い水だった。風呂は部厚い板で箱型、底に鉄板が張られたものだった。
便所も素堀のまま二枚の板を併行して渡したもの、上から一本の縄が下げられ、それにつかまって用を足す。チリ紙は使わず、私の家では新聞をとっていたので良かったが、近所には、わらを五寸位に切ったので間に合せてた家もあった。
食事については、ひもじい思いはしなかったが、お盆とお祭には白い御飯が炊かれたので、おいしさのあまり、汁にも漬物にも箸をつけるのを忘れたことがある。

私の一、二年生頃の服装は、冬はネルのシャツ、モモヒキに綿入れの着物、ネルの三角帽子、コール天足袋にズック靴、(わら靴の人もいた)マント着用といったところ。学用品では石盤に石筆、水書草紙も使ったのを覚えている。
学友の中には、不潔でうす汚ない恰好の子供が幾人かいた。眼の悪い子、クサという口のあたりの吹き出もの、ガンベといって頭のおでき、耳だれ、ひび、赤ぎれ、青洟たらし、着物の袖ではなをかむのを常とした。それに蛔虫の寄生も随分多かったようだ。おまけに、子供だけではなかったが、蚤、虱がたかってむづかゆい不快感、それをプツンプツンと爪でつぶした光景が目に浮ぶ。
また、昔の子供も風邪引きで咳や熱を出した。下痢や腹痛も起した。ハシカや百日咳にもかかった。
時には怪我もあったけれども、滅多にお医者にはかからない、富山の置薬で済ませるのである。
私も生来虚弱な方であったが、ついぞ病院に行ったことはなかった。

このような苦境の畑作農家に、転機がもたらされることになった。.それは第一次世界大戦による豆成金で、農家生活は一変する程の向上を見たのであった。
私の家では、泥炭地にあきたらなかった父が、この機会に水田経営を目指して、東七線で水田を購入、移り住むことにした。この時私は、小学三年生であった。
戦争は終結し、豆成金はあえなく去ると、一般に急速に造田熱の高まりを見せ、数年ならずして、平坦部は大半が水田化されることになった。
(「註」大正七年に三五〇町だった水田が、大正十二年には一、六七〇町となる)

しかし、大方の畑作農家が、長い間の大きな夢だった待望の稲作の実現も、莫大な造田費と潅漑施設のための土功組合費は、意外に高負担となり、新田のための作柄不安定のこともあって、直ちに生活向上には結びつかなかった。更に、昭和三年頃からの経済恐慌時代を背景に、米価は下落し、加えて連続冷害凶作の打撃をうけ、稲作農家は疲へい困ぱいの極に達した。
私の家でも、やり繰に苦しみ、最高金利月二分のものもあったから、借金は雪だるまの様に脹れていった。
累積負債の重圧に堪え切れず、小作農に転落するものがあちこちに続出した。小作農の困窮はもっと深刻で、穫れ秋から翌年の飯米を前借するものさえあった。
大農場の小作人など、耐え切れなくなって、やがて小作料減免などを要求して争議を起すようになる。
「註」 本町の開拓は団体、農場、牧場の三方式が主流をなしていた。このうち団体入植は、初めから自作だから問題ないが、農場、牧場方式は、経営者自ら開墾することは少なく、小作人を募集し、小作人の手で開墾が行われ、成功検査後は年貢を徴するという関係にあった。
つまり、この方式で開拓は促進されたのかも知れないが、新しい開拓農村に、古めかしい地主と小作、支配、被支配関係を持込んだことは問題ではなかったかと指摘したいところである。

幸いにして昭和九年頃から負債整理組合法、ついで自作農創設資金の融資が実施されることになり、本町ではこの制度を満度に活用したので、固定化負債に苦しむ農家が相当救済されたし、農場も逐次解放されて、多くの自立農家の誕生をみたことは、当時としては画期的な施策であったと思う。
昭和十一年、私は家を次弟に任せ、村農会に入ることになったのであるが、以来機構の変革による身分の変更はあったものの、嘱託も含めると通算四十二年間、農業と深い関係にある機関に職を奉じたことになる。

振り返ってみると、いろいろな出来事があまりにも多くあり過ぎた時代だったと思う。
時代の背景の主なものを挙げていくと、先づ国際社会で孤立した大日本帝国は、日華事変、そして、あの悪夢の大平洋戦争に突入、幾百万人の犠牲を払い、原爆投下を契機に終戦、連合軍による占領、平和条約締結、朝鮮戦争を機に好景気到来、ついで高度経済成長政策により、驚異的な繁栄を遂げ、昭和元禄といわれる時代にも至ったわけである。
その間、農業は食糧増産が至上命令の時代から、過剰が問題になる時代への予想もしなかった変貌振り。技術的な向上も、品種改良、土地改良、栽培法、除草剤、機械化等著しいものがあったが、何といっても忘れられないのは、占領政策の一環としてではあったが、農地改革によって、耕作農民に土地が与えられ、農村の民主化に大きく貢献したことである。生活程度も未開発国同然の、開拓当初の原始生活から、高度の物質文明の現代社会生活への変遷は、正に夢ではないかと疑わしめるものがある。

ここで、今日の繁栄を可能にした諸条件を考えてみると、我国の教育、科学技術の駆使、勤勉、海洋国、加工貿易を国是としたこと等が挙げられよう。
ところが、加工原材料、エネルギー資源は、殆んど海外依存であり、輸出貿易にも秩序が要求されるようになってきた。殊に、すべての原動力になっている石油資源は、地球が何億年もかかって蓄積したものを、近々一世紀にしてその大半を消費し尽さんとしている。今や、世界の石油需給のバランスが保たれるのは、一九八一年までだとの説もあり、斯くして、石油は世界の最大戦略物資化している現状にある。
代るべきエネルギーとしては、究極的には核融合の実用化以外にないと、考えられているようであるが、人類の英知は、必ずや開発に成功し、永遠の繁栄と平和への最大条件を充すであろうことを確信したい。

最後に食糧問題についてであるが、昭和四十五年以来米の生産調整が行われ、巷には食料品が満ち溢れている中で、農産物価格の割高が指摘されている。農業の過保護も論議されている。国際分業論も根強く主張されている。
それぞれ肯定される一面を持つものではあるが、遺憾ながら今日の複雑な世界情勢を考える時、直ちに賛成し難いものがあるわけである。
日本は世界第一位の食糧輸入国、そして穀物自給率四〇%は先進国中最下位の実績を示しているが、食糧は石油と並んで戦略物資化している事実を無視することは出来ない。
「農は富をつくらず」といわれる通り、工業に比し、常に生産性の劣るのは確かであるにも拘らず、各国とも農業に力を入れるのは何故か、それはいうまでもなく国の安全保障の第一条件として、食糧の自給を考えるからに他ならない。
更に、世界人口は三五年毎に二倍になると推定されているし、食糧不足に悩む、後進国の民族意識の高まりを考慮すると、天候異変その他の不測の事態が起きなくても、何かのきっかけで、何時食糧の緊迫時代に転じないとも限らない状態にあると思われる。
およそ一国の健全な発展をなすためには、産業構成比率の適正化も提唱されているところであるが、農業の場合、農産物生産の場としての農村社会は、同時に田園、牧場環境の醸し出す素朴、素直、平和、落ち着き、人情等、本当の人間性の滲み出る雰囲気。正に民族のふるさととして、大方の庶民の等しく憧れをもつ所以のものである。

現代社会の風潮は、兎角経済的合理性、或は今日の幸福のみ追求するなど、物事を近視的に、短絡的に、性急に結論を下す傾向にあるともいうが、農業論議は国家的、国民的広い視野で、拙速を避け、長期展望に立ってなさるべきものと考える。
自給率向上のための絶対量の増加策、我国のあるべき主食の方向、輸入食糧確保の方法、原穀生産コストの低減、食品加工、流通過程の適正合理化等が、綜合的に、かつ公正に遂行されることを望みたい。
七〇年農業に関わりを持って来た私の願望である。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛