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十勝岳爆発災害と復興反対

日の出 和田 松ヱ門(七十四歳)

大正十五年五月二十四日の十勝岳爆発については、余りに有名であり多くの人に知られているところである。
一瞬の内に美田沃野が泥流に埋まり、大木が根こそぎとなって、累々と横たわり、旧の美田に復興できるかは、想像も及ばない惨状であった。
かてて加えてこの泥流には強酸性の硫黄分が混っているのである。流木を焚くと乾いた土が、青い炎をあげて燃えるのであった。

その数年前に宮城県鹿島台村が、山津波に襲われて一村全滅したことがあったが、時の村長の熱意で遂に復興した事例があった。
吉田貞次郎村長はその実例に強くヒントを得て、自らも鹿島台村を視察し、上富良野村の災害復興に執念を燃やしたのであった。
しかし、本村の災害地は火山爆発による硫黄の混入という、特種事情があり復興できるかどうかについては、誰しも疑念を抱いていたのである。泥流が落ついて乾いた時は秋になって居た。

この災害地復興が是か非かが問題化したのは、復興費として国から金五万四千六百円を、村が借りて産業組含に転貸することに決ってからである。
反対運動はこれが導火線となって起った。すなわち大金を村が転貸して借入金が、もし返済できなかった場合、村が弁済しなければならないので、村が潰れてしまうというのが反対理由である。
この運動は起債反対同盟会の結成となり、十一月初めから大会がしばしば開かれた。
反対運動の中心となったのは、大半が市街地の有志であり、罹災者の中にも有力な者が三、四名加わって居った。(氏名は秘す)大会案内のハガキが郵送されたり、チラシが市街地に配られたりした。(この資料は郷土館にある)そして反対の大会は上富良野劇場で開かれ、主催者の挨拶が終ると、反対演説の弁士は旭川方面からきた雄弁家達であった。
木下源吾、平通尊(僧侶)永井天亮(僧侶)堀井久雄へ弁護士)等で、名前は忘れたが頗る雄弁な朝鮮人も居た。「他町村から何のために」、この人達が反対の弁士になってくるのか、不信と不快でならなかったので野次ったりしたものだ。

最も私は末だ二十五歳未満であり、有権者で無かったので、こっそりもぐり込んで入場したのだった。
その他市街地の街頭では毎日のように、ボール紙で作ったメガホンで、反対演説をやったり、朝夕役場へ出勤する吉田村長の後をつけて、聞くにたえない悪口を怒鳴って歩いたものである。
この人たちはほとんど、朝鮮人で何れも雇われて来たものらしかった。
そんな反対運動にくじけず、ますます意志を強固に吉田さんは復興に進んだのだった。
災害地から玄米が四俵穫れるようになるまでには、罹災者は大変な苦労と年月を要したのである。

災害地復興は一応成功しつつあったが、吉田村長反対は根強く残ったのである。そして吉田村長排斥運動に発展したのである。
昭和六年の村長選挙(村会議員二十四名による間接選挙)には熾烈な運動が行われたけれども、一応吉田さんが当選した。
次の昭和十年の選挙には両派それぞれ、策戦本部が設けられ、前回以上の抱き込み運動が行われたのである。
投票前日には吉田派が有利という目算であったが、開票の結果は一名の寝返りで、二票差で敗れ、助役の金子浩さんが当選した。(上富良野町史に載っている当時の村会議員の氏名は誤りである)明治四十五年から大正八年六月、村長に当選するまで約八年間、村会議員となり、一級村初めての民選村長に選ばれ、四期十六年間、当麻村の林路一氏とともに上川管内の名村長として、世にうたわれたのであった。

このような立派な吉田貞次郎さんが、何故このような終幕を告げざるを得なかったかは、今でも私には不可解なものがあります。
昭和五十三年九月記

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛