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十勝岳爆発十周年に際して当時の回顧談と
其の後の十勝岳並に遭難地域の変遷復興の状況

元上富良野村長 吉田 貞次郎

昭和十一年五月十九日 午後七時三十分より放送(NHKラジオ)
放送者 元上富良野村長 吉田 貞次郎

十勝岳爆発十周年に際し当時の状況を回顧し、且つ其後十勝岳並に災害地域の復興状況等につき、当時村長であった私に講演をせよとの御話で御座いますので、甚々不十分で御座いますが、茲に、其概要を申述べて当時朝野を挙げて御同情被下ました皆様に感謝の意を表したいと思ひます。

回顧すれば、大正十五年五月二十四日、当日は前夜来の降雨が続き小降りでありましたが、誠に陰鬱な日和でありました。当時山では硫黄採取の砿夫は雨の為め仕事を休み、下では富良野川流域一帯の田畑とも既に整地施肥を了り播種の真最中でありましたが、午後四時過ぎ凄じい鳴動と共に大爆発を起し、遠雷の如き轟音が続きましたが、爆発と同時に噴出した泥流は、附近の岩石土砂を併せ奔転落下し、その高熱は山上数尺の積雪を一時に溶解し両者相合して大泥流となって急斜面を流下し、先つ硫黄採取の鉱業所全部を一挙に掃蕩して二十五名の生霊を忽ちに奪ひ、益々共勢を加へて蝦夷松、白樺の密林約一方里の大森林を地表諸共根底より捲席し、断崖を躍り越え渓谷に溢れて西北に突進し泥壁四、五十尺、長さ約一里の大泥流団となって新井牧場に入り、家屋人畜の別なく触るゝものを瞬く壊滅に帰し、地上一切を呑み尽して一気に上富良野平野に侵入し広潤な三重団体の美田に押寄せ、近村第一の豊沃を以て称せられた田畑約五百町は素より其区域内にある家屋、鉄道、道路、電信線、潅漑溝等に至るまで悉く泥海となし、余勢を遠く中富良野村に達したのであります。

此間泥流と大木の奔転する物凄い響の裡に、人々は逸早くも高所を求めて逃れやうとし、遂に遅れた者は忽ちにして姿を泥中に没し、或は家屋に取付いて遠く運ばれ、或は流木に縋りて救助を求むるも及ばず。親を尋ねる子、子を呼ぶ親、妻は夫に別れ、老いたるは躓き、幼さは号泣し、悲鳴と叫喚とは到る所に湧き上ってこの世ながらの修羅場を現出し須史にして百四十四名の生命を奪ひ、多数の牛馬を泥土に埋没し、同時に多くの負傷者を出したのであります。
泥流が火口より上富良野平野に到る距離二十五粁、約六里半でありますが之に要したる時間僅に二十五分間と算せられ、其被害の迅速であったことを唯驚く計りであります。而かも泥流によって運ばれた樹木二十万石は死屍の如き姿をして累々堆積し、濛々たる硫黄の瓦斯は鼻を衡いて息苦しく、営々苦心三十年の汗の結晶は瞬間にして影を潜め、唯人も自然の暴威の偉大なるに驚歎したのであります。
また泥流の一部は、同時に美瑛川の河谷に沿ひ、美瑛原野を流下して美瑛市街地に達して居ります。

此の惨状を目撃したる村民は総員出動して警鐘を乱打し、避難し来れる罹災民、救ひを求むる生存の漂着者等を収容して周囲の高地に引上げ、死体は之を一定の場所に集めて引取人の至るを俣ち、当夜は皆一睡もせずして救護警戒に従事し、特に未だ息のある漂流者の捜索に努めたのでありましたが何分泥流の深さ四尺乃至一丈に達し、道路、河川等悉く埋没して富良野川を始め諸川皆囂々たる音を立てて肆に散流し、暗夜到底歩行を許しませんので思ふような活動も出来ず、其内時々襲ふ鳴動の響きは宛ら鬼哭啾々の声とも聞え人々生きたる心地もなく、唯高さ所を求めてのがれんとするもの家財夜具等を背負ひて露営の準備をするもの等続出し傍ら流言蜚語頻りに伝はりて、第二第三の泥流襲来を報し不安焦躁の内に、其夜を明かしたといふ実況で御座いました。
そこで、村では此の実況に鑑み直に付近の寺院、学校等を避難所に充て婦人会其他に依頼して炊出しをなし被難者の保護に努めましたが、一時は一般住民の人心鎮定にもかなりの苦心を払ったような状況でありました。

それから暫くの間は毎日死体の捜索と生き残れる人馬の救出に全力を尽しましたが、或る場所の如きは周囲泥流にかこまれて二日も食はずに居る罹災民もあり、食料をかついで決死的救護をしたこともあります。又、罹災者の中には着のみ着のまゝ腰巻一枚の漂着者もありまして之等に着せる着物の仕末には婦人団体、女学校生徒の諸子に相当苦労を掛けました。
また次に心配しましたことは伝染病の流行でありますが、負傷をして病院に担ぎ込みたる者も、其の後続出したる感冒患者も大したことなく全治し、悪性の流行病も出来ずに済みましたことは何よりの幸福でありました。
それから、十勝岳爆発の報、一度伝はるや朝野を挙げて非常なる同情あつまり、本道内は勿論、全国新聞は全紙を挙げて其事実を報道し道庁の計画を援げて義援金募集に尽力せられ、一小地域の災害に関らず、実に二十余万円の金額に達し、当時の応急救護を始め、後の災害復旧に多大の便宜を与へられたることは今尚吾人の記憶に新たなる所にして感謝の念禁ずる能はざる所で御座ります。
殊に此報天聴に達し、畏くも御内帑金御下賜の恩命を拝したることは、村民一同恐懼感激の極みで御座いまして、当時如何に傷心せる罹災民が発奮興起したか、中には泣いて喜んだ者も数多く御座いました。
また民間応急救護の為村内の人々は申すに及ばず旭川市、上川支庁管内を始め空知其他の管内より多数青年団員等の応援を受け、一里に互る長距離間を流木を桁に使って其上に板を渡し、漸く人の交通の出来る程度の道路を急造し、或は辛じて流亡を免れたる家屋に三尺も五尺も堆積せる泥土を戸外にかつぎ出し罹災者の吾が家に復帰するを助け、或は井戸を凌へて飲料水を作る等の作業に当る時等、恐らく親戚の者でも厭ふ程の仕事を全身泥まみれとなって手弁当で日々従業せられた厚意は、吾人の終世忘るゝ事能はざる感激で御座います。

また爆発は其後も繰り返し、約半歳に互り、時には黒炎天に沖して住民を騒がせ、時には噴火の降灰遠く北見地方に及ぼして新聞を賑はしたこともありましたが、幸にして被害は第一回丈けに止まり、住民は安堵の思ひをし弥々復興に関する決心をしたので御座ります。
其方法は、畑地は復旧の見込み立たざるに付き、之を放棄して御料地へ移住せしめ、残りは道庁に鎚りて再び元の美田に復興しようと種々計画を樹てゝ御願ひをしたので御座ります。
茲に於て当時の中川長官は、地元罹災民の切なる懇望を容れ災害地は幾多の異論を排し敢然之を復興することに決せられたので御座りますが、今にして思へば其当時泥土は全く硫黄及硫酸の塊であって、脚絆についた泥土を火の中で払へば光を放ちて燃えるといふ一種の鉱物に等しき数百町歩の被害地に対し、よくも巨額の費用を投じて其の復興を援け吾等の志を達せしめられたものであると考へ、当時復興事業に携はれた官衛の方々は勿論、其他一般無名の同情者に対しても衷心より御礼を申述べんとするもので御座います。そこで、復興は先つ河川の浚渫、道路橋梁の開設等に始まり潅漑溝の復旧、溜池の設置、公共建物の復旧、住宅の建設、流木の除去、耕地の復旧等の順で始められ、総工費約百四万円の計上を見るに至りましたが、工事は道庁師団等の絶大なる御援助の許に頗る順調に進み昭和四年までかかって完成したので御座います。

この工事は主として罹災民にやらせて貰って其労働賃金で生計を樹てて行く仕組でありますが、それでも仲々人手が足りませんので一時は千人余の人夫を雇ひ、師団から借りた軌道等を敷設して大仕掛けに仕事をなし、之が為め市街地などは一時大繁昌をした程で御座りました。災害復旧中一番困難を極めましたのは耕地復旧の仕事で御座りまして、何しろ始めは唯も耕作は出来ぬといふて居りました所を排水を通し客土を施し、石灰施用、耕土洗滌等、特殊な耕作法を用ひて米を取ろふといふのでありますから、素より容易なことではないのであります。
殊に復旧に従事する罹災民は、昨日までは相当の田地を有し資力も有ったので御座りますが、今日は懐中無物而かも多くは肉親の一部を失ひ心中遣る瀬ない憂ひに沈で居るもの計りで御座いまして、互に励まして精を出しては居りますが、工事は仲々思ふように進まず、それよりか最初の年に作った稲は鉱毒のため何れも土に根を入るゝを厭ひ、丁度釣針のような格好をして上に向かって拡がり風のまにまに田の中を浮び歩くといふ状況を呈し之が定着には少なからず苦心をしたもので御座います。
又、此の泥流地水稲耕作法に就ては、最初より農事試験場に於かれて非常に同情を寄せられ、幾多の方案を作って試作を試み、又実地につき懇切に指導せられました結果、漸く三年目位から米が取れるやうになり、人々の苦心による経験も出来、皆々安心して耕作を継続することに成りました。
今でも、巨躯を擁して玉山支場長が泥田に足をさらはれ、難儀をして居られる姿が吾々の眼底に残って居ります。
不幸近年は凶作続きで、どれ丈米が採れるやうに成ったか良く判りませんが、平年が来れば反当平均四俵位は採れるかと思はれる程の熟田となり、今一息改良すれば元の美田に達し得られることを皆々確信して居ります。

次に苦心を重ねた復旧工事は溜池の築造で有りましたが、之も道庁の方々の長い間の御苦心により完成致しまして本道に於ける溜池工事に一新紀元を劃するの経験ともなり、今から思へば愉快な仕事の一つに数へることが出来るので御座います。夏になれば広い面積に清水が満々と充ち溢れ、将来周囲の景色を整へますれば立派な公園ともなり、災害に対して好個の記念物として残ることゝ思ひます。唯残念なことは、此の工事の為御世話になった人が既に此の世を去られ、又工事中一名の犠牲者を出したことを悲しく思って居ります。

最後に申上度いと思ひますことは、十勝岳のことで御座いますは、十勝岳は先刻申上げました通り暫くの間活動を続けて居りましたが、其の後全く閉塞して山体の一部が変った外、何等の異状を認めませんが、其の後十勝岳は急に世間に其の名を知られる様に成り、最近に至りましては山腹に在る吹上温泉を根城として、冬季スキーの好適地として吾国第一の名声を博する様に成り、又昨年国立公園の地域に指定せられ年々多数の人が登山するやうに成りまして、昔流された泥流の跡は今は絶好の山岳スキー場と化し、其の附近には白銀荘、勝岳荘等のヒュッテも建ち、人々を楽しませて居ります。
将来山麓に達する鉄道が開通し、大雪山に通ずる縦走路が出来、然別湖に達する林間道路等が出来ましたら今まで世に知られて居りませぬオブタテシケ、トムラウシ、ニペソツ等の諸山系の有する幾多の魁偉なる景観が続々現れまして、神代さながらの姿、吾国随一の原始的神秘境として夏冬とも内外の旅客を誘致し国富の増進にも貢献することゝなるかと考へられ、往年暴威を逞ふした十勝岳は、地元の為めにも多大の功徳を垂れるやうな運命となり、住民を潤すことゝ成るだらふと喜んで居ります。

終りに臨み、重ねて災害当時朝野の御同情に対し衷心より御礼申上げ御世話に成りました皆様に深甚の感謝を捧げ講演を了ります。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛