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草分部落

草分 広川 義一(六十六歳)

大正十五年五月二十四日(金曜日)は雲りで小雨が降る薄寒い日だった。
午前七時、学生服に身をかため、上富良野尋常高等小学校へ行くべく家を出た。
沿道には、農家の人が田に出て代かきをしている。女の人は、早いところでは籾蒔をしているところもあった。
草分けの小学校近くにくると、小学生の生徒が大勢いるが、だれもが無口で、ただ、黙々として校舎にすい込まれていくように姿が消える。時々不気味な地鳴とごうごうというような不気味な音がする。十勝岳の鳴動なのだ。三三、五五と群になり私たちは学校へ急いだ。
学校に着いてみると友達も大分きていた。誰れもが十勝岳の話で持ち切りだ。

八時半、始業時間の鐘がなる。一勢に校庭に整列した。そして学校長のお話しがあった。
「小雨も降るし、山も何時もと今日はちがうようだ。登下校は、なるべく一人で歩かぬようにしなさい。」
「三重団体方面から来ている生徒は、特に気をつけなければいけません。」
学校長の訓話が終らぬうちに、又、一段と鳴りが高くなり、校舎の窓ガラスをゆさぶる地響きがした。全く気味が悪い。二時間、三時間と無気味な中での授業が進められた。しかし、時々起こる大音響に、先生の講議もろくに耳に入らない。、四時間目の授業が始まった丁度この時間は、理科の時間で火山の勉強でした。先生が色々と火山について話された。あの九州の桜島火山の爆発について当時の桜島の話を聞かせて下さった。

紡績(亜麻)工場(現在の高田派専誠寺の所)の正午を告げる汽笛が五月の雨空に細く良く尾を引いて‥‥消えた。
どうも十勝岳が気にかかる。しかし、雨雲が低く山加農場附近迄たれ下っていて、十勝岳は見る事はできません。午後一時過ぎになると「ドカン、ドカンという地鳴りが、今迄よりも一段と大きくなった。先生が急いで職員室へ行ったかと思うと、間もなく引き返してきて、
「今日は小雨も時折り降るし、山鳴りもひどいので、授業はこれで取りやめだ!!」
「草分方面の生徒は、掃除当番だが市街地の生徒と変わって貰い、早く家に帰りなさい」
誰もが何か恐しいものに追われるような気持ちで校門をでた。

十勝岳の山鳴りは、もう十日余りも続いている。新聞にも十勝岳が山鳴りをしていると小さく出「たくらいだから、誰もが気にかけているが、どんな事になるのかぜんぜん知る余地がなかった。
毎日のように農家の人々は、野良に出て、馬も人もただ黙々と働いている。
草分の学校の生徒たちはもう帰って誰もいない。つめたい小雨が、又、一仕切り降り出した。
当時、私の家は草分部落の鉄道の沢(現在吉沢春雄氏の上隣り)に住んでいました。
金子浩村長(当時助役)は、現在及川力氏が住んでいる所にいた。
そこから山一つ越せば、山の下は私の家なので道をゆくよりも弓のつるくらい近い。

それで近道をと思い、畑道をのぼった。その時、一大爆発音。天をもゆるがす地響と共に大音響が起った。(午後三時十五分十勝岳大爆発)‥‥そうしてゴウ、ゴウと鳴り響く音が十勝岳の方に聞こえる。山はいぜんとして雲のため見えない。ただ音のみが次第、次第に大きく聞こえてくる!!アッと振返ったとたん真黒な流木の山津波が帯状に広がり家を流している。
流木は流れるのではなく、トンボ返しのごとく、もんどり打って山のように押してくる。
流木の上で手をふりながら助けを求める。親、子供、馬、犬等、声の続くかぎり泣き叫びながら流れていく。これがこの世の生地獄だ。高等科二年、十六歳の私は、正にこの目で、一大残忍きわまりない光景をまのあたりに見た。身もちじまんばかり!!ただ茫然と我を忘れ、その場に立ちすくんだ。

その時だ!!部落の中央で一大奇蹟が巻起った。それは鉄道だ!!
泥流の真只中で枕木が扇のようにつったったかと思うと、将棋倒しの反対のようにくるくると輪でも廻すようにレールがまくれ、泥流に押し流されていく。そうして草分の学校前の鉄橋のところでまくれるのがとまり、扇形に広がった。そのすさまじさの惨事を物語るように、今、郷土館に当時のパノラマが展示してある鉄道は一大滝のようになり、この滝までは、土台付きの家は浮かんで見え、流木の上に助けを求める人の姿も見えたが、この滝を落ちると全部泥流の中に沈んで何も見えない。
やっと我れにかえり、家へ帰ると父は馬を馬小屋へ入れるところだった。
母と祖母は、私の顔を見るなり泣きながら「来たか、来たか、ほんとに良かった、良かった」とうれし泣き。あの時の母親の笑顔は今でも目に浮かぶ。

午後四時半、小雨が又、降り出した。父母の了承を得て二度目の裏の山へ登って部落一円を見まわした。流れは、前と変ってゆるやかになっている。夕もやが静かにおしせまってくる。遠く上富良野市街地の電燈が輝いている。あの恐怖の山鳴りもすっかりやんでいる。災害に命からがら助った部落の知り含いの人が泊めてくれないかと言って、家族の者と五人連れでやってきたところへ、私は裏の山から戻ってきた。下級生の女の子は、母親に手を引かれ、親ともども目を泣きはらしていた。泥のついたモンペ姿、野良からすぐ逃げて助かったのだろう。
女の子は帽子もかぶらず、ハナオの片方が切れたぞうりをはいたままだ。

雨もすっかりやんだ無気味な夜がおとずれた。こうして誰も知らなかった大爆発がわずか十五分間にして、祖父等が開いた田畑をイオウ臭い泥流と化してしまったのだ。被害その他は上富良野町史をごらん頂きたい。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛