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追憶

草分 田村 嘉市(七十歳)

私の父(田村 勘)は、十九歳にて三重県より明治三十年三重団体十二名の開拓団体に入り、四月十二日草分、現在の開拓記念碑のある所にて一夜を明したそうです。そして項在地を開拓し、私が二代目にて大正十五年の十勝岳爆発迄の思い出を書いて見たいと思います。

入植してから十五年位たった明治四十四年頃は、道路といっても道路らしきものではなく、馬はいましたが馬車はなく、物を運ぶのはフゴといって藁でタライの形に造りひもを付けて、テンビン棒にてかついで居りました。
当時は西二線北三〇号の富良野川堤防敷地に五尺位の水車を作りウス四個をすえて相互にコットン、コットンと搗いて居りました。
それでコットリといって、父についてよく遊びに行きました。

その当時の家は土台付で屋根は柾茸でした。大正十二年は、東京大震災があり旱魃にて水争いがあり現在はコンクリートにて川をセキ止めてありますが、その当時は、土俵で止めてありましたので富良野土功組合より来てセキを切って行く、草分土功組合が止める、その繰返しで大けんかとなり、富良野土功組合がセキ切って山に登り、草分土功組含がセキを止めに行くと山より投石をして怪我人が出るという騒ぎがありました。当時の土功組合は、項在の土地改良区です。

当時の住宅も増築や改築をし、馬小屋作業所は新築をして草分地区は生活も安定して、幸福に暮せるようになりましたが、大正十五年五月二十四日、十勝岳大爆発により私の弟二人は水死をして、家、土地は、流失してしまい、三〇年の苦労は水に流されてしまいました。
当時の村長吉田貞次郎氏は、視察にきた高官に即座復興の意志決意を申し、復興賛成派と反対派もあり対立して騒いだものでした。開拓三〇年の思い出は山ほどありますが、これ位にして筆を閉じます。
昭和五四年四月

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛