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災害の思い出 大正十五年十勝岳爆発

北栄区十二 公務員 高橋 七郎(五十九歳)

降り続く雨に朝からどんよりとした灰色の雲に覆われて、街は重苦しい内にその日も暮れかかっていた。大正十五年五月二十四日の四時半過ぎのことであった。

十勝岳の爆発は前から予想されていたらしいが、思いがけない山津波の来襲は、末曽有の本町一大惨事となったのである。
その春四月一日、白い小雪まじりのみぞれ降る朝、私は学生帽だけ新品をかぶり、着物、服、半々で小学校に、兄のおさがり服を着て駅に務めていた一番兄に手をひかれ、街はずれの踏切りを渡り、ぬかる身をさけながら、学校の門をくぐった。一年生になったばかりの私は、その二ケ月後にこの災害に遭ったところである。当時の私は馴れない通学に七番目の倅のせいか、甘えん坊な素質と我がままも芽ばえていたんだろう。毎日、「腹が空った!」と泣きながら家に帰ったことも何度か記憶している。(後日シベリヤ物語りで「ガキ道」に陥いった所似!?である)当時はカロリーが少ない生活のせいでつまみ喰いでもしていたのであろう。
当時今の農協スーパー前に仮住まいをしていた我家であったが、薄暗い室住いの上、雨天のためなおさら暗い。その茶の間で私は戸棚の中に何か口に入るものはないかなと引っかき廻していた。

四時半頃であろう。駅の一番兄と母は、この雨降りのなかで庭に立って心配そうに、一生懸命山の方を見ている。十勝岳なぞ全々見えない。見えるものは雑草ごしにマルイチ木工場と木工場に積まれた丸太位なものである。時折帯鋸で丸太を挽割るチューンと唸る金属音と引きかえす台車の「ゴゴーッ」と云うトロッコ台の音だけが休みなく練返えされていた。別段気にも掛けていない毎日の音である。
だが今は違うようだ!!
兄「木工場の音と違った音が十勝岳の方にしている。」
母「何だか音が美馬牛の方に動いているようだ!!」
しかし、私には何のことやら、ガサゴソ相変らずのはつか鼠の真似をしていた。
突然、表通りに異状な気配を感じたので、無意識に靴を引っかけて戸口に出た。その瞬間、目の前を白い裸馬(雨によごれ真白でなかったが‥‥)にのった青年が(半てんか着物か着ていたものの記憶はないが)馬のたてがみにしがみつき「水だ!水だー!」と大声で連呼しながらそれこそ一目散と云うところであろう「アッ」と云う間に本通りを馳け抜けていった。

俄かに街中が騒然となり、父が慌てて一色さんの方に走って行く姿が見えた。何か真すぐのびた本通りのつきあたりが白く光っていたようだ。本通りと云っても向いとは目と鼻の先である。真向いに吉田雑貨商店に丁稚奉公中の二番兄菊松兄が店から飛び出してくるなり、私の前でしゃがんだ。「七郎ッおぶされ!」無意識に背中にしがみつくやいなや、ガムシャラに走り出した。本通りを南にかけぬけた方向に向っている。
マルイチ幾久屋さんの角を曲り山のお寺に向う途中、中間に十字路があり、簡単な半鐘があった。
昇って半鐘を打っていた男が「そっちへ行ったら危ないゾッ!」、二、三十人一団となっていた連中は右往左往となっている。どっちへ行けばよいのか一時迷っていた兄も再び山のお寺を目差して馳け出した。オロオロ組も一団となって走る、走る。背中でガクン、ガクンゆれながら涙橋を渡る瞬間、川面を見た。幾分盛上った赤泥に濁った水がガーッと橋下を過ぎた。山津波の先鉾が来たときだったのであろう。

明憲寺を過ぎ、坂道を登り墓地道ばたの小高い畑の中に独り降ろされてしまった。また、他の避難民の姿も見えず、兄は私を降ろすなり、又、お寺の方にさがって行ってしまった。
取りのこされて独り、何が起きたのか不安とさみしさと、これからおそってくる黒い影におびえながらワアワア泣き出した。
チラホラ人の登ってくる姿が見えはじめ、すぐ上の、春枝姉がヒョコヒョコ登って来たのを見つけ、安緒と気づよさに泣くのを止めて、やっとあたりを見渡す余裕が出て来たのである。ほんの五・六分の時間なのに長く感じられた。(足のおそい母は、妹を背負い、最も近道ではあるが大雄寺から五丁目橋を渡り、近く押寄せる泥流に追いかけられながらも、かろうじてこの山に辿りついているが、その後、瞬時にして五丁目橋は流失してしまった。)
丁度その時になって、丸一山の西側を迂回した泥流が、私の立っている目の下(現在公住が建っているところ)の水田地帯を茶色に波頭を立てて、次々と噛むように呑んで行くところであった。
整然とまき付けを終えた美田がガッガッガッと喰い呑まれて行く。子供心にこれは大変な事が起ったんだ!ボー然として、手も足も動かない。丸一山が一つ残って周囲は泥水に覆れた。

材木がビッシリ流れて来た、アッ家も小屋も流れてくる。まだ煙突から煙でも出て来そうな藁ぶきの屋根だけが浮かんで、すべるように静かに動きに乗っている。鶏が一羽その屋根の上でトキの声を挙げているのが目にやきついている。ドンドン流れてきて、そして目の前を過ぎて行く。
ミノカサをつけた男の人がロープを肩に、山を馳けおりて行くのが見える。人を助けるためなのだろう。
「ここも危ない!!」の声に、誰と一緒だったのか知らない間に墓地の焼ガマ小屋の内に入っていた。止んでいた雨が、又、激しく降りだしたせいもあったのだろう。どこの仏様か火葬の最中で煙突から盛んに煙が立ちのぼっており、臭いも鼻をつく。然しぬれた肌には心よい窯の暖かみに、みんなへばりついている。小屋一杯に入り込んで、押されて身動きも出来ない。顔なじみの小母さんも不安一杯の顔で黙りこくっている。暮れも迫り、益々不安もつのる。
目の前の佐藤姉妹(現井関、竹内夫人)が声をはり上げて泣いている。もう私は泣かないぞ!!

七時頃だったろうか、あたりが薄暗くなり、流れも弱まり始めたところで、誰言うとなく、明憲寺まで戻って泊ろうとなったのであろう。その夜はお寺で、母、姉、妹達と町内の大衆共々ごろ寝して一泊お世話になったことを覚えている。
父、兄達は田中山方面に避難して、夜遅く流失を免れた涙橋をやっと渡り、明憲寺にたどりついたそうで、丸一山附近の罹災当初の状況は知る由もなかった訳である。
断片的に記憶されているが、涙橋に次々引掛る材木や家屋を除き、又、打ちこわして下流に流す必死の消防団、青年団員の姿やら、橋から上流は見渡す限り流木の山々の枝も根っこも先きもない丸太んぼーの残骸を見て、山津波の猛威に今更ながら、ぎょうてんしていた兄達の驚きも覚えている。晴れた日に次々と運び込まれる遭難者の遺休も、男、女の見わけもつかぬ泥にまみれたあわれな姿に目をそむける場面も、こわいもの見たさに板べいのすき間からかいま見て、大人にまねて手を合わしたものである。数日後、駅頭に山と積まれた救護物資が罹災者に渡されることを聞いて、私の家も流れていたら戴けるんだがナー」と言ってお袋にきつく叱られた夜もあったっけ。

街はずれ近くに集積された流木の山は、その後十年近くの間燃料として利用され、兄達と何時も富良野川堤防附近に出かけて薪づくりをし、集積しては、年間通し、朝夕硫黄臭い流木薪をたいたもので、そのためか小学校を出ても石炭ストーブのたき方は知らなかったようである。
又、丸一山附近の平坦地で流木が片附けられた跡地は、いたるところ手頃な広場となっており、畑地にもならないため、数年の間子供達の絶好の遊び場であり、ガキ大将達はなわ張りをつくって○○広場オレの運動場と勝手に名づけて、大いに走り廻り、グループ運動会やら兵隊ごっこと活用したものである。泥流地は暫らく放置されていたため、いたるところトレーニング場であり、走ることにかけて当時の草分地区の人達が一番強かった様に記憶している。
一生懸命走った連中も、もう七十すぎであろう。

あれから五十余年の才月を経て、今なお、白煙を噴き続ける活きている山、十勝岳の爆発の恐ろしさは身に泌みているのとうらはらに、故郷を何万粁はなれた他国にありし身の上にも常に聳え連らなる十勝連峰を憶い、想い出して、四季折々にかわる山を偲んで懐しさ恋しさに涙したことか、十勝の岳を仰ぎつつ、小学校校歌の一節どおり、日々の明け暮れに、「災害の日から」永遠に自分から切離せられない山となった所以でもある。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛