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十勝岳大爆発の思い出 大正十五年五月二十四日

東中 高橋 寅吉(六十五歳)

五月二十四日午前中雨降り、今日は六月の楽しい運動会の総含初練習の日だが、雨のため屋内運動場で全校生徒が四列に並んで行進練習をした。
午后下校する頃は、雨も止んでいたが、空はどんよりしていて十勝岳の方も麓まで雲にすっぽり包まれて何も見えない。最近十勝岳の山鳴りがして心配だという話は聞いていたが、友達とそんな事も忘れて、雨のため何時もと一寸、変った黄色気味の用水の流れを不思議に思いながら家に帰り、兄と家の中で遊んでいる所へ駅に勤めていた長兄が「今日の十勝岳の山鳴りは何時もと違うようだし、今だんだん音が北の方へ移動しているようであるから、もしものために貯金通帳などの番号を控える」と急いで立寄って帰って行ったのは、午后四時一寸過ぎと思った。

間もなく表の方がさわがしいと感じたと同時に、馬の馳け抜けるヒズメの音と「水だー」という二声で、馬の姿を見て思わず素足で表へ飛出し、馬の来た方向を見た時は、何が何んだかわからないが、真すぐに見える国道の二十七号当りを、斜めに一直線にピカピカ光る一条の線と、その後に茶色い一寸もり上った感じのものが、丁度黒板に書いた絵をす〜っとなぜて消していくように家も木も音もなく消されていく。おや、と思ったその時、二十七号の角にあった大きな白壁の倉庫の屋根が傘の逆開きのように大きく空にはね上がったと思うと、白壁の家が爆発のように土煙りを上げてばっと消えてしまった。それが自分の見た泥流の押し寄せてくる状況の一瞬の最後のものであった。ピカピカ光った一筋の線は、丁度夕方雲の割目からさし込んだ夕日が、泥流に押されて泥の光に流れてくる水に反射したものであったことが後になってわかった。さぁその後は「山へ逃げれ」という声が耳に入ったが、雨降りということと山へということだけが頭の中で働いて、持った物は外套だけ、靴は何時の間にか履いていた。

山は高い所、高い所は駅と云うとっさの考えだけで、家は当時七町内の本通り(今の農協事務所前)に父母と兄妹六人同居していたが、駅に向かって走ったのは自分とすぐ上の兄の二人だけ、父はわからないが、母は妹を背負い弟や近所の人々と一緒に一番近い山、西の明憲寺の山へと泥流の流れてくる方へ向かって走ったようだ。
後で聞いたが、泥と木で速度が遅くなったのが幸いして、一団となって走った人達だけは泥流の先が橋(明憲寺下の涙橋)にぶつかると同時ぐらいに橋を渡って山へかけ上ったそうです。後からの人達は目の前に迫って来る泥流で危険を感じ通行止となり、町の方へ逆戻りしてそれぞれ東の山へ逃げたり、市街地に危険のない事がわかって自宅に落ちついた人と様々のようであったとの事。
自分等は、駅についたが、人数は何人もいない。誰かわからないが、駅も危いから東の山(今の日の出山)へ行くように云われて、線路を越して葦原をかき分けて何処を通ったか記憶はないが日の出山の楢の木の下で、又、ボツボツ降ってきた雨の中で外套を着て、兄と二人で泥流の来た創成(当時草分)の方を見ると、一面の灰色の原野のようであった。幸い、市街地はそのまま、自分等の近くの山にはボツボツと人の姿が見える程度、おそらく山へ逃げて来た人はあの凄じい瞬間の状況を見た人だけで、他の市街地の人は何が何んだかわからぬままに右往左往した事と思う。

間もなく日が暮れ、市街の家々の電燈もついて何の変化もないようだ。だんだん心細くなるし、電燈の明りにさそわれるように山を下り自宅に向かった。駅前の福屋さん前の十字路まで来たら、角に机が置かれ、吉田村長さんはじめ大勢の人が集まっていた。父の顔も見えたが、ほっとしただけで特別の喜びも感動もわかない、多くの人々の横のムシロの上に三つか四つの男の子の死体が寝かされていたが、地蔵さんのような美しい可愛いい顔だなーと思った事だけが脳裡に焼きついている。
父に聞いて、母等はみんな西の明憲寺山へ逃げたらしいとわかり、兄につれられてマルイチ呉服店の裏から明憲寺山へ向かったのは午後十時頃だろうか、前年立派に出来た高い土堤式の新道が明憲寺の涙橋まで続いていたが、処々割り切られ、その間を泥水がゴウゴウと音をたてて流れるのが聞こえ、右側は木材のようなものが山のように堰止められているらしい。
消防団の方々が大勢で道路を切り開いて、泥水を下に流す仕事や、涙橋に屋根が引っかかり今にも流されそうになるのを防いで、屋根を叩き破っているのがチラチラと目に入る。暗い道を、又、掘り割りした道をどうして通ってきたのか不思議だ。誰一人とがめる人も注意する人もいない。二人の子どもが最も危険な場所を通っていくのにと、人々はそんな子どもにかまっている余裕は、おそらくなかったためだろうと思う。自分等は、唯、母の居る所へ行きたいという気持ちだけ、夢中で通り抜けて明憲寺へ着いた時は、お堂の中は人で一ぱい。すぐ、母や弟等の姿も見つけたが良かったと思っただけ、特別の喜びも感動らしいものもわかなかった。唯、ニギリ飯を貰ってたべた事が記憶に残っている。

次の日は快晴、十勝岳はすっかり見える。唯、今までと変わったのは、火口の前に見えた小山が無くなり、火口が丸見えなのと、それから下は沢の中まで茶色に原始林が帯状に削られていることであった。
お昼頃だったろうか、又、山へ逃げろという声と半鐘の音に、こんどは母等と一緒に一目さんに明憲寺まで走り、そのまま、又、一晩大勢の人と一緒にお堂に泊めてもらったが、これは誰か子どものいたずらか何かで、一人の声が忽ち大声に拡がって町中の女、子どもの大半が山を見る考えも何のために山へ逃げるのか、もう考える暇もなく半鐘の音に驚いて、ただ山へ走ったものであった。後で考えると笑話しではあるが、町の人々の心は恐怖に神経が麻痺していたのだと思う。

三日目から学校も暫く休みで、やっとあちらこちら走り廻って見て歩いたが、幸いにも市街地は駅を中心に一寸盛り上った型で、特に八町内の一色さんから北の方の川までは、少し下り坂になっていた筈で、市街地の裏手は川の集りで地面も低かったのと、流れてきた泥流の量が創成原野一帯を平に埋める程度であった事が家続きの市街地に殆んど被害を受けなかったものと考えられる。
川近くにあった亜麻会社や大雄寺は、泥の中に床上まで埋められたが、丁度市街地の裏手はぐるりと泥流(溶岩)が取まく型になって、新しい道路が堤防になり、(マルイチ山と今の西小学校のある高台を除いて)見渡す限り林も川も埋って真平になったわけである。流されてきた流木は、明憲寺山からマルイチ山一帯に重なり合い、埋めつくし、遠く創成方面は処々流木らしいかたまりが黒く見えるだけ、その間を各沢から流れ出る川が適当な処を白く帯のように流れているのが見えた。

毎日々々多くの見舞いの人や応援の団休、兵隊(軍人)さんが来て、道造りや死体探しやらで街は人々でごった返した。又、当時の活動写真の撮影隊が機械をかついで流木の上を歩き廻っていた。
近くの病院やお寺の広場には、板で囲いをして中に死体が幾人も並べられ、どの人も手足着物は泥だらけ、板のすき間から見た泥に汚れた二本づつの足も脳裡にこびりついている。毎日々々あちらこちらから戸板に乗せられて運ばれてくる死体、それ等も何んの感動もなく見続けたのが幾日続いたろう。
十勝岳は、初めは時間を置いて、一日、何回となく黒煙を噴き上げ、次第に回数も減り一週間に一回、月に一回と完全に納まるのに三年はかかったと思う。その間、一回だけその年の八月正后過ぎ、大爆発があり、半鐘も打たれたが山が良く見えたので避難する事も無かった。たまたま駅で他所の老人夫婦が、余りの見事さに手を取らんばかりに喜んで、長生きした甲斐が有ったと云っていた言葉が忘れられない。

せき止められた溶岩まじりの泥流は、日が経つと共に固まり、処によってはツルハシでもカチカチと音のするような地面もできた。又、流木は十勝岳の原始林を根こそぎ泥流に巻き込み、狭い沢の中を約二十粁を二十五分程の早さで一気に原野に押し出したもので、根や枝のついたものはまったくなく、根本はげんこつのようになり、頭の方は途中から引きちぎられ、勿論木の皮などはついていない。見に来た人の中には、どこかの木工場の積木が流れてきたものと思ったという具合、そのため町の大半の人は、数年間は流木拾いで冬も薪には心配がなかったものだ。ただ、硫黄の匂いには閉口したものである。

今は立派な水田、畑に替り、当時の惨状の姿は何処にも見当たらないが、草一本生えなかった固まった泥流の上へ山土を運び、初めは下から噴き出る硫黄で、ろくな作物もできなかったが、当時の村の有志の方々や関係の農家の多くの方の汗と努力の結果である事を忘れてはならない。
なお、泥流に埋る前の明憲寺附近から五丁目橋、マルイチ山、二十六号、二十七号附近の川の両側は、川の面も見通せないような大木が立ち並び、又、笹やブドウのつるが生え茂り、所々やっと魚つりの人の通れる道ならぬ道の出入口らしいものがあっただけであった。

思い出はつきないが、大切なことは昭和三十七年の爆発を含めて生きている火の山、十勝岳を抱えている当町町民として、たとえ山が見えなくとも経験のない人々に爆発の際の地鳴り音の移動等に神経をつかって、もしもの時の被害を最少限度に止められる措置を構ずる事を言い伝えて置く事を痛感してペンを止めます。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛