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入植者と山しごとの様子

旭野 林  財二(七十五歳)

私が明治39年春、旭野に七家族で入植した頃は、うっそうたる原始林にあたりはかこまれて、現在の所へ行くのにも、今の東明官舎の所から日の出の石川さんの所を通り、山の尾根つたいに歩かなければ行く事が出来なかった。東の方に十勝岳の連峰があって煙のたなびくのに気がついたのは、入植して半年もたってからと言う。

食べものは2〜3年分は持って来たが、それ以後はムギといも、いなきびなどが常食になった。
日常生活のお金を手に入れる為に、冬はほとんどの健康な男子は、造材の為に山の飯場に入って働いた。この仕事は当時の北海道に入植した青年の、当然の義務としての使命感をもって、健康のゆるす若ものは皆働いたと言う。最初、杣夫(そまふ)が山で木を切っては、現場でチヨマと言うオノで角形に仕上げたので、石数(こくすう)も少く、運搬を受けもつものは、割合楽だったと言う。
しかし、後になって丸太のまゝどんどん材が出るようになると、運搬の馬追いや雑役夫はくるしくなった。杣夫は飯場を出る時は四時頃、現場に着く頃、朝日がのぼるくらいだったが、馬追いは、時には朝の2時〜3時に出たり、夜中に現場へ行く事もあった。馬に夕食のエサを食わせた後、夜の9時〜10時に、主人自から夜食を食わせなければ馬は、馬追いになつかなかった。馬追いは眠る間もない程だった。その上、日中は馬と一緒に重い材を押したり、冬の零下27〜28℃でも、トンビを雪にぬらさないように、いつも素手で仕事をしなければならなかった。

昭和6〜7年の不況時代は、仕事が少く、少しでも有利な場所から丸太材を搬出しようと、夜中には出かけ、体力の消耗を、たゞたゞ大食(たいしょく)で補った。一日に一人で米一升を食べるのは少い方と言う。粗末なおかず(ほとんどつけものと、味噌汁だけ)で、たまにお祝いがあると干したタラの魚がつくくらいの毎日で、過労とビタミンB不足のカッケか何かで、たくさんの馬追いが死んだ。ある飯場で6人一組の内、翌年の夏までに5人まで死んだ。林財二さんはとても身体がもたないと、途中でやめて命びろいしたと言う。
(聞き手) 金子 隆一

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛