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草分報徳

草分 立松 石次郎(八十二歳)

私は三重県一志郡久居町畠戸木村の貧農で父は為次郎、母きしの二男として明治三十年一月二十四日に生れ、両親とともに板垣贇夫団長、田中常次郎代表の世話で、三重団体の一員として西一線北二十七号に入地しました。
当時の模様を父や母から聞きましたが、入植して一番困ったことは、三年くらいは食物の生産がなく、旭川まで行かなければ入手できないため、深い笹を刈った細い道を徒歩で行き来したそうです。途中美瑛川では橋もなく、倒木を探し廻り道をしてやっと渡ることができたが、雨で増水したときなどは、両岸で水の引くのをじっと待っているので、家族達が帰りの遅いのを心配しながら待っていたようです。
また、旭川へ出ても当時は品物も少なく、金物や日用品など欲しい物もなかなか入手できにくく、食物や日用品を買い求めるにも大へんだったようです。

当時は大木がうっそうと繁り、青空もなかなか見ることもできず、笹を刈り、木を倒し木株の間を島田鍬(トンビクワ)で起こし、イナキビなどを蒔き食糧としたようです。
毎日の食事も野草のフキ、ワラビ、ゼンマイ、タランボの芽などが多く、お米はほんの少々しか入っておらず、私たちはよく病気もせず育ったものだと思います。
学校は街の小学校まで下駄やゾーリで通い途中夕立などにあうと、はだしで走って帰ったことを思い出します。家に帰るとすぐ親の仕事の手伝いをしたのです。

最初の開墾のときは、大木を切り倒し、今考えると大へんもったいないことですが、倒した木は六尺くらいの長さに切り、一カ所に集めて火をつけて焼いたので、夜はあちこちで燃え上り、さすがに山中でも淋しくはなかったようです。
開拓まもないころの住居は、おがみ小屋といい、側板や床板にはヤチダモの割板を使用したもので、入口の戸はむしろをつるしただけだったので、よくキッネや熊がのぞいたこともあったそうです。
このような生活に辛抱できずに、内地に引き返した人もいたようですが、それでもお金をたくさん持って入植した人は、その後馬を買い求めてダグラを乗せ、お米六斗くらいの運搬賃が参百円あまりで、それでもうけた人もありました。
私たちの小学校時代には、畑に木の根株がたくさんあり、馬耕には難儀なようでした。木の株の少ない原野に入植した人びとは、比較的開墾は楽にできましたが、地力が長続きせず、樹林地の人びとは開拓に苦労しましたが、反対に土地が肥えており、だんだん収穫があがりました。

当時は電気などはもちろんなく、ローソクはあっても提灯がなく、ガンビ(白樺)の皮を生の棒につけてタイマツを作って明りにしたとのことです。
十勝岳爆発は大正十五年五月二十四日午後四時半でしたが、二〜三日前から金子道路関係者が補修工事に出ているとき、物すごく山鳴りがしたので何だろうと話しておりました。
火山爆発であれば灰が降ってくると思っていたところが、山には残雪が深く、火山弾と地熱によって雪を解かし、泥流となって流れ出して宮林の樹木も根こそぎ押流され、しかも数分間のできごとで突き出た山をけずり、三重団休に流れ込み、大木はとんぼ返りしながら丁度木材の流送するような有様で、代かき時の農夫も逃げることもできず、多くの死者を出したようでした。泥流は二丈以上の高さで、家屋も一しゅんにして流され、吉田さん、田中さん、若林さんなどは団体の真中にあったので大勢の家族が死亡されました。
時の村長吉田貞次郎さんは、泥流に埋った田畑に対して村民の意見が放棄と復興に二分され、道庁や支庁の役人や技術員も復興の見込みなしとの結論を出しましたが、永年の先人の苦労を水泡にすることは出来ないと訴え、反対する人々を説得につとめ、また、代替地の希望者には誠意をもって進め、遂に今日のような美田をよみがえらせたのです。

偉人吉田貞次郎先生は、永久に忘れられない町民の恩人として敬慕に堪えません。
私の家は被害地より北に位置し、直接の被害はありませんでしたが、爆発の日の二十四日の夜は親類の者や近くの金子さんの奥さんなど二十人余の人が頭を並べて一夜を明かしました。
一ケ月くらいは何も手に付かず、さらに被害のあった年は凶作であったり、糸屋銀行が整理休業に入ったりして不安な毎日でしたが、せめて市街地まで及ばなかったのは幸いでした。

これからの農業は政府の施策も前途は暗やみ同然で、世界的な食糧問題としての位置づけも不明であり、若者は将来に見切りをづけて離農したり転職する者も多く、農家には嫁に来る人も少なく、これからの農業を考えると我々老人は心配でたまりません。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛