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三重県より北海道に渡るまでの想い出話

● 川田金七翁・北海道開拓移民当時の苦労話から ● 〔第一話〕

ありがたや 無事新玉の年むかえ
   九六(酌出)いとまなき 大慈かな
                          金七
生前金七翁が詠んだ詞章です。
明治四十二年十一月上川管内志編纂会で蒐集した「上富良野志」から河田金七氏の興信録があるのでご紹介いたします。
川田金七  西一線北百五十六番地
   平民 農 三重団体元祖
        明治十六年三月十六日生
   父  七五郎 弘化三年三月三日生
   母  こしぎ 五十七才
   妻  みつゑ 明治十七年生
   長男 金一  明治三十九年二月五日生

   宗旨 真宗高田派
   土地 三戸分 十五町歩
君は三重県河芸郡玉垣村字柳村(注一)に生る
農業に従事す明治三十四年四月郷里を出発し三重団体一行と共に渡北し五月現在地に移住す
爾来農業に専心尽力し現に三戸分即ち十五町を所有せらるゝに至る成功者なり
      「上富良野志」
           明治四十二年十一月
                  旭都 上川管内志編纂会蔵版より
                   (資料提供 上富良野町郷土館 加藤 清)
(注一)郷里三重県伊勢国河芸郡玉垣村について「全国市町村区画総覧」で調べると昭和一七年一二月一日を以て二町七村が合併し鈴鹿市となっている。
故川田金七翁は本町最初の開拓者として入植し、上川管内全体の草わけの地「三重団体」を築いた先駆者でありました。翁は昨年、本町開基八十年にちなみ、開拓功労者として表彰されましたが、はからずも同年三月五日、「急性心不全」により九十六才をもって御永眠されました。このことは、本町の開拓史を知る上において、貴重な証人を失い、返す返すも残念に思うものであり、ひとしおの淋しさを感ずるものであります。
翁がお亡くなりになる直前に、お孫さんの川田哲司氏と対談されて、開拓当時の苦労話しを収められたことは、本町郷土史発掘に重要な記録として保存されることと思います。
収集に当り、現社会教育係長野尻主事、村端指導主事、さらに郷土館加藤清氏各位から熱意ある協力をいただき厚くお礼申し上げる次第です。
本町開拓史の重要な部分を不肖私が、翁に代って寄稿を耕す機会が与えられたことは、誠に幸せであり、衷心より感謝する次第です。
茲に、生前、金七翁が詠んだ詞章を掲げて、謹んで哀悼の意を表するものであります。
※尚、川田金七翁と孫、川田哲司さんの対話は「三重団休を築いた当時の苦労話」と題して第二話に譲ります。
                          昭和五十四年三月
                                 上富良野町教育委員会
                                    速記ライター   小松信幸
◎子供のころ
父、七五郎は、「おまえにやる土地の分け前が無いので分家もできない、今のうち手職を習い、大人になれば自分で何か商売をやって独立したら…」などと話していました。
私は尋常小学校四年間を終るとすぐ、カジ屋に弟子奉公に入りました。カジ屋に幾人かの見習い小僧たちがおりましたが、その中にはあまりよくない兄弟子(あにでし)がいて、小僧たちに意地悪をしていじめたり、仕事中にやけどをさせるなどの悪行があって大変つらい思いをしました。それに加えて、わたくしはカジ屋の子守ばかりで……当時まだ十一くらいだったと思います。
とにかく、わたしにとってあまり気に入った店でもなかった。こういうことを知ってか?どうか分かりませんが、或日、西川の姉がやって参りまして、わたしを四日市に連れて行きました。
わたくしを新たな店屋で見習いさせようと、弟子入り先を探していたようで、姉はある人雇(ひとやとい)の口入屋(くちいりや)で「この子を欲しいという店屋を紹介していただきたい」と頼み、「とりあえずサト屋に行ってみては」と案内されたようでした。
わたしは、人より体も小さく弱々しくみられていましたので、サト屋の親方は、わたしを見て、「うちの店では、間に合わないから…いらない」ということで断わられ、やむを得ず、姉と一緒になって、あちこち掛け合ったようです。
やっと、一軒の「洋物屋」に入って、いろいろお願いしていたようで……店主は、わたしを大いに気に入った様子でした。
「うちで使ってもいい」「真面目に勉めあげれば、のれん分けをしてもいい」と言ってくれまして、この時、姉もほっとしたようです。
わたくしは、この洋物屋でしばらく働き、店主にも大変好かれました。しかし幼少だったこともあって、どうしても親元に帰りたいという気持にかられました。そうこう思っている或る日……、父の七五郎が私をひょっこり尋ねてくれました。
「元気でやってなあ」といって、わたしの頭を撫でてくれました。
「伊勢参りをしていないので、つれていってやる」こう言って、三〜四日暇(ひま)をもらい、伊勢市に行って神宮をお参りしましたが、この時わたしは、ほんとうにうれしく恩いました。
三〜四日という日は、またたく間にすぎてしまい、また四日市に行かねばならないかと思うと、わびしかったので、父に「もう四日市には行きたくない」と我が儘と思いつつも言ってしまった。
父は、わたしの気持を察していたらしいし、母もそのことには口をはさみませんでした。
その年の正月を迎えて、父は「こんど北海道へ行くが、おまえも一緒に行かないか」といいました。わたしは北海道というところを知らなかったので「北海道はどこにあるの」と聞いたら……、「ずっとむこうに島があり、船で渡るんだよ」と向うの方を指しながら、私に語りかけました。
父は、やはり私を丁稚奉公に出すのは可哀想だと思っていたようですし、いろいろな面で私を案じていたように思います。
◎父の決心
父、七五郎は五十二才、私は十五才でした。父は私に「金七にやる土地もないし、北海道に移住したら、五町歩の土地をただで貰えるんだよ」といいました。だから私を連れて一緒に北海道に移住するつもりだったと思います。
この頃、北海道の開拓移民団を募集するお役目に、板垣という方がおりました。この人は田中常次郎とともに、三重県の人を募り北海道に移住させる仕事をしていました。のちの開拓功労者として立派な碑が立てられた人です。
板垣氏が玉垣村の本家にも訪れて、北海道の土地を開拓する魅力について大いに語りました。
彼の話を聞いた人たちは、「北海道はいいところ」という感じを抱いた人も多かったようです。
母親の本家でも、みんなが移住するなら一緒に行くということでしたが、世間の噂が出始めて、「北海道というところは原始林が覆っていて、冬は非常に寒く、とても人の住むところではない」というようなことが流れました。
荒山の凄さという噂を耳にした人達は、皆驚いて恐しくなり、本家の連中も中途で逃げ出す始末だった。
こういう姿を見た父は「北海道はいいところだ。荒山だって何も恐くわないさ。一生県命に耕せば喰うくらいの作物もできるよ」といっておりましたから、父の決心は固かったと思います。
◎郷土を発つ
明治三十年三月二十七日、三重県玉垣村を発ちました。集結地は四日市の港ですが、あちこちから集まった移民団が大勢おりまして、その晩は四日市で泊ったと思います。その夜は同志たちが、開拓話をあれこれと夜おそくまで語り合っていたようです。
翌二十八日は天候も良く、波も穏やかでした。しかし、後日に起ったあの恐しい大シケは、誰一人として予測出来ませんでした。
「敦賀丸」という船は、、小型で就航間もないときでしたから大変きれいな帆船で、大勢の開拓移民団が乗り込む船でした。船は岸を静かに離れ、懐かしい郷里をあとにしたのです。
この船で玉垣村から移民した同志の中には、城ノ口仁蔵、杉野捨吉、加藤清松、山崎脇松、久野伝兵衛、それにわたしたちの六戸でした。
北海道に渡るのに、持ちものといえば夜具、着物、マサカリ、オノ、クワ、ノコギリ、カマ、あと、農耕に使うようなものもたくさん背負っていました。移民者は、一様に北海道に行っても、買うことが出来ないものと思っていたので、持てるだけ持って行くという人が多かったのです。
◎つるまる誕生
四日市を出発して横浜の港に着く間は非常に好天に恵まれ、楽な船旅でした。
ことに大きな話題となったことは、伊藤李吉氏の妻トハが紀州沖を通過中に男児を生んだことでした。これには皆びっくりして、船上の大勢の移民者たちも大喜びして、お祝いしたものです。
ひときわ大喜びしたのは「敦賀丸」の船長さんでした。「長い間船乗りをして、こんなおめでたいことは、はじめてだ」といって、スルガ丸の船名からツルの一字をとって「鶴丸」と命名してくれたのでした。その伊藤鶴丸さんは、現在も草分けにて健在です。
「敦賀丸」船は小型なので、津軽海峡を航海するには危険でしたから横浜までの航海でした。横浜からは、日清戦後の御用船で二千五百トン級の「仁川丸」という貨物船に乗り込むことになっておりました。「仁川丸」は、日本郵船会社の所有で、朝鮮国の地名に「仁川」というところがあります。その地名から取った船名と聞いています。
横浜港には、「仁川丸」のような貨物船、客船が入港するまでの数日間は、港で待たされたものです。そういう時「海上丸」という船が湾内に停泊していて、一時宿泊所の様な役目を果たしていました。こうして仁川丸が到着する三日くらいの間、海上丸で待たされたようです。
四日市の港を出港して小樽の港に着くまで、約一週間くらいかゝったと思いますが、まあ「敦賀丸」の船で航海中の出来事として「鶴丸」という元気のいい男児が生まれたことで、船内の移住者達と船員が大いに和むことができたことが本当に楽しい想い出となりました。
◎大しけに遭遇
四日市の港から乗った「敦賀丸」に別れを惜しんで、北海道通いの「仁川丸」に乗り替えて横浜港を出発しました。この日の空模様は、ぐづつき気味でどんより曇っていました。夕方に差しかゝるころは、九十九里浜沖を通過していたころだったと思いますが、風もしだいに強く吹き付けて、波も荒立ち、乗船した移民者達は皆一様に不安気な顔で語り合っていました。
夜に入り、一段と風波が強く「嵐が来るぞ」と口々にこういっておそれていました。
あの静かな海面が一変して魔の海になるということは、海ほど怖ろしいものはないと、つくづく思ったものです。
「敦賀丸」のような小さな帆船でも、人が乗るように造られていれば何とかもちこたえられそうですが、「仁川丸」は大型で専門に貨物を輸送する船だったので、人が乗る様には造っておらず、揺れてもつかまるところがないから、揺れたら大変です。
いよいよ大しけがやってきた。私達の様な開拓移民団は、皆貧乏人ばかりですので、客船で行くなどとは考えられませんでした。
この大しけでこんなに死ぬような苦労するなら、船に乗るのではなかったと、そのとき後悔した。
今さら愚痴をこぼしても、どうにもなりません。ただ「何とか、無事に港に着きたい」「何とか命だけは助かりたい」の一念でした。甲板上に持って来た荷物を下ろし、その一間(ひとま)ぐらい空いたところにコモを重ねて敷き、その上で休んだり、子供を寝かせたりしました。
この大きな貨物船も嵐になると、まるで木の葉の様に、いまにも沈みそうに波間に突っ込んだ。
船に弱い人は、たちまち嘔吐したり、子供たちはあまりの怖さに泣きわめいていました。もちろん私もすごく船酔をして、空腹になってもごはんなどを食べられる状態ではなく、「まあまあしけたも、しけたも」あとになって、九死に一生を得た様な気持ちになりました。大波が甲板に這上って波しぶきがかゝり、全身びっしょり濡れ、船が左に傾けば、乗っている人達もザーッと船の端に落ち、右に傾けば、その方向にザーッと滑るというような具合で、一枚板の向こうが魔の海だと思うと、ゾーッとして本当に生きた心地はしませんでした。今にも「ぶっちゃがる」(ひっくりかえる)と何度こう観念したか知れません。
子供や幼児は、ことに哀れでした。泣き叫ぶ声というか、悲鳴というか、とにもかくにも一生の中であのような怖い光景は、二度と味わいたくないと今でもそう思っています。
あの大シケに会った位置は、後で聞いたところ、宮城県の東部牡鹿半島、金華山沖ということでした。
嵐がやんでも、皆疲れ果てゝごはんを食べる気力もなかったようで船酔の方が苦しかったのです。命拾いをしたなあという感じで、皆無言のまゝしばらく語ろうという気になれませんでした。何時間か過ぎたころ、落着きを取り戻してごはんを食べはじめましたが、おかずといっても、切りスルメと干大根のまぜ合せたようなものでしたが、とにかくむしゃぶりつくように食べたことを憶えています。
船員たちは、一晩中動き廻ったせいか、真赤な目をしてげっそりしたほゝに不精髭をはやして、ギロリとした目付きで私たちを見たときは、恐ろしいほどに感じられたものです。
◎荻浜での子供の死
皆、死ぬ思いでやっと荻浜に着きました。やっと「助かったなあ」と、はじめて実感が湧いたのです。ここで、今しばらく休息できる時間があったので本当によかったのです。
この港から北海道の七飯浜(ななえはま)に行くことになっていました。昨日の大しけは、まったく嘘のように過ぎ去って、穏やかな航海となるような感じでした。
だが、この日思いがけない悲しいことが起こりました。この航海で久野伝兵衛の子供、年は三才くらいの女の子だったでしょうか、その子が死亡したのです。
久野さん一家は、三重県河芸郡玉垣村出身であり、私と同じ郷里でした。
この女の子は、体が弱かったらしく、それに大しけで衰弱したのでしょう、荻浜で死亡しました。
今とは違って、医者とか病院などあろうはずがなかったのです。
気の毒に、両親はこの子にとりすがって泣いていました。
私達も一同涙して、皆集まって冥福をお祈りしたものです。
こゝから北海道までは、まだまだ遠いのですから、やむを得ず「水葬」として海に葬ったわけです。
本当に可哀想でした。今でも、あの子供のことを想い出して、今ごろ生きていればどんなにか、大きくなっているだろうなあと、時折り想い出すこともあります。
私達移住者にとって、荻浜に着くまでがとにかく大変な航海だったと思っています。
◎大船渡に寄港
荻浜は宮城県東部石巻に近く牡鹿半島入江に位置したところに「荻浜村」がありました。当時、汽船の寄港地で「石巻市」への積み換え輸送拠点として栄えた海村でした。
大船渡へは気仙沼沖を通って広田湾をすぎ、入江に入ったところで、大船渡の港に入るとすぐに船荷の揚げ下しにかゝっており、皆忙がしく働いていたようです。
一仕事を終えて休んでおりますと、二〜三人の物売りが、カゴいっぱいに梨を入れて売りに来ました。移民者たちは、何日もの船旅で疲れていたし、これといって食物もありませんから、梨は、またたく間に売れてしまい、商人は次から次と梨をとりに行っては、背負って戻って来ていました。
ゴム鞠くらいの大きいあの梨は、新鮮で甘く本当においしかったと記憶しております。それに、飛ぶように売れましたから、商人は大分もうけがあったのではないかと思います。
それから、後になってまた聞いたことですが、途中で下船した三家族の人達は、私達が小樽に着いてから三日か四日くらい遅れてから到着したと言っておられました。
◎歌志内炭山へ
大船渡港を発って一路北海道に向い、無事、七飯に寄港して、そこから小樽に向ったわけです。
当時、函館〜小樽間の鉄道は工事中であり、汽車が通るようになったのは、その後、明治三十七年でした。小樽を発って歌志内に向ったが、汽車といっても屋根なしの無蓋車(むがいしゃ)だった。その日は、みぞれまじりの雪が降って寒い日でした。
無蓋車にはみぞれが降り積っていて、そのまゝではとても座れそうにもない。ムシロやコモを重ねて敷き、身をうずくめたが、体のぬくもりで雪が溶けだして、座った下からジワジワと下着が濡れてきました。それに加えて、みぞれを顔にうけて機関車の長い煙突から石炭を焚く真黒い煙が目に入ってきて、とてもつらい思いをしました。
そうして、やっとの思いで歌志内の炭鉱に到着しました。持って来た荷物を、ひとまず歌志内炭鉱において平岸に向うことになりました。歌志内〜平岸間は、約二里の道程であり、「平岸三重団体」としてすでに入植していました。開拓者は五〜六戸だったと思いますが、山崎さん、篠原さんと……、あとの人の名は忘れたが、まあ、あそこの開拓者たちは「チカーサワ」というところで、ヤチダモの木でワリイタをこしらえて、丈夫そうな大きな家をたてゝ住んでいたようです。
ここで七日〜八日間滞在して、歌志内の炭鉱においてある荷物をとりに行かねばならなかったわけですが、家族ぐるみで荷物を背負に出かけました。このときも大変な苦労だったので、思い出は深いようです。
ある日、父、七五郎は私にこういって元気づけてくれた。
「金七、長い旅でつかれたろう。こわいこともいろいろあったが、とにかく平岸まできたんだ」「おれたちが住む土地は、まだまだ向こうだが、もう少し辛抱してくれ」と言った。私は、「何処へ行ったら、こんな大きい家をたててくれるの?」と聞いた。父は「もっと大きい家を建ててやる」と言った。
私は、こどもながら父のこの言葉を聞いて、うれしかった。父が早く大きな家を建てゝくれればいいなあと、心ならずも願ったものです。
(第一話おわり)

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛