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開拓のころ

草分 伊藤 鶴丸(八十二歳)

父は、明治三十年開拓者として、上富良野へきました。当時は食物がなく、ふきやわらびを食べて、土地を開いたそうです。
買物に行くのに、旭川まで行ったそうですが三、四才の頃野地のすいすいをかじったり、れんげの玉(球根)、かたくりの玉をやいて食べたのを夢のように思い出されます。
ごしょいもが取れるようになってからは、毎日のように焼いて食べました。
今の日新、昔の新井農場に笹の実がなり、六俵取ったと聞きました。それを石臼で粉にして、だんご汁にして食べるのですが、もさもさして食べにくかったのは忘れられません。
旅から来た魚釣りが、たまにお弁当の余りをくれました。米のおにぎりが嬉しかった事は今なお思い出されます。
だんだん開いて麦、とうきび、そば、いなきび等が取れるようになりました。
今、特に思い出すのは、白とうきびをくだいて御飯に炊くのです。見た目には白くて美味しそうですが、食べたらもさもさで今なお心にのこっております。
兄弟げんかをしたり、井戸に落ちたり、川に落ちたりしておこられたり、色々の事が夢のように浮かんできます。
開拓の当時、高田のお寺さんで島と言う人が教えてくれたそうですが、内地へ帰られたので、その後佐々木さん、吉田さんが教えてくれたそうです。
私が七才の時は、上富良野簡易教育所で、先生は、久世弟二と言う方でした。
当時は、下駄や草履をこしらえてはいたものです。わらのはなおで足がすれて痛かったり、霜の降る朝、足がしびれそうに冷たかった事等思い出されます。
一年生の時から草取りを手伝いました。
魚釣りが好きで、ひまさえあれば釣に行きました。その魚を串にさして焼き、そのまゝ干します。
大きなかじかやうぐいを釣りし時の嬉れしさは忘れられません。
私が九才の時と思いますが、開拓記念とうの西元の踏切の南に、木材置場をこしらえ、二十九号、三十号の間の木材をレールをひきトロで運びまちずみと言って、台車に積んだものです。
私は現場へ遊びに行った事があります。その頃は道が悪く、馬車のたいこ(車輪)がぬかったものです。
二十七号より二十六号のこりこり川(コルコニウシュベツ川)の間はやわらかで通れず、割木をひいて通ったものです。
五年生の時、先生に日本で一番木材の出る所は上富良野だと聞かされました。
当時は江幌川を流送で二十六号まで運び、それから木材を並べ、その上にどろをひき、玉で馬にひかせたものです。
その他色々の事がありますが、特に思い出した事だけ書きました。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛