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まぼろしの開拓地『森農場』

東中 岩崎 与一(六十七歳)


上富良野から東中に通ずる斜線道路は、明治何年に開通したかは定かでないと言う。古老も知らないと言う程の古い道路であるから、原野の区画設定以前からのアイヌの道であったと推測されている。
開拓当初には、鉄道が東中を通り、布部方面に向かって設定される目的で、駅の予定地が東九線北十七号附近に設定されていたのであるが、鉄道は東中方面には延びず、西の山沿いに決定した。
その理由は、ベベルイ川の下流が尻無し川となって、一面の湿地帯であり、ことに下富良野(現富良野市)の鳥沼地帯は湖沼状態のために、西部山麓地帯にくらべ非常に工事が難工事となることから、後日変更になったものである。
ベベルイ河の両岸も、デポッナイ川の両岸も湿地帯の原始林であったために、乾燥地であるアイヌ路を奥地に進んで、先ず開拓が始まったのである。この森農場は、現在自衛隊の演習地となっている場所で、宮林(十勝岳連峰山麓国有林)の境界までである。明治三十五年頃に入植したと言う。
大正六年頃まで人家があったが、その後官に引き上げられて、国有地となり、荒廃していたが、大正九年、平担地の農耕に適する地帯の一部に、長野農場、向井農場が出来、又、昭和四年には、佐渡団体十八戸が再度入植している。これ等の農場も、現在は自衛隊の演習地となっている。
さて、この森農場は、東中から倍本農場を経てベベルイ川を上流に登って行くのだったが、現在でも道路が昔日の面影を止めている。森農場と言う四角い柱に書いた標柱が最近まで建っていた。
明治三十五年と言えば、この附近の農場としては、最も古いものであったと古老は伝えている。
この地帯に最も早く入植者が入り込んだ理由としては、アイヌ道は乾燥地を選んで通っていた事、密林地で獲物がたくさん棲息していた事、木材等の運搬には下り坂になるので、大量の荷物が軽く搬出できる事等が挙げられる。
又、道路が傾斜のために、雨が降っても水引きが良く、冬期間は雪道をつくって、近道を上富良野の市街地の駅土場へ搬出できる等の条件があったからである。又、農場主が、札幌や旭川の造材業者と手を組んで、小作人を募集する事が可能であったからであろうと言う。
この様に、札幌や旭川方面から多数の造材業者が入り込み、造材も盛んに行なわれ、又、石材も良質なものがあったので、石材業者や、これ等造材人夫や石材人夫が百五十人余りも来て、飯場小屋を建てて賑わった時期もあった。
密林は、大木が密集して長くのびているので、この地帯に迷い込んだら方角がわからなくなった程であったと言う。開拓の最盛期には、入植者が六十〜七十戸あっただろうと言われているが、正確な事は知って居る者はいない。
その頃、この近くに学校の分教場を建てるか、と言う協議もした事があったが、将来の見込みがないので取り止めたと言う。
開拓者は、家を建て食物を作付けするために、木を切り草を刈り、火をつけて野焼きをするので、山火事が頻繁に発生していたので、雨が降らなければ消す事が出来なかったと言う。
この山火事の、跡地の枯れた立木の合い間を乗馬で菜種を蒔いて、収穫の時には莚を引きながら、種の収穫をした事もあったが、雨の多い年には、全部芽が出て、収穫皆無の年もあったと言う。その頃は無肥料で作物が取れるし、造材や石材で金銭の廻りが良かったため、酒や焼酎が大量に消費されたものだと言う。
ベベルイ川の上流の支流に、カラ川と言う文字通りの川が、富良野岳から流下して、農場の中を走って居るが、上流の宮林地帯には水が流れているのに、下流になると水が地下に吸収されて大雨でも降らないと水が流れない地帯である。そのために、農場では数十日を費して井戸を百二十尺も掘ったが、水は出なかったと言う。
古い井戸が元事務所の裏にあるが、現在では埋もれて浅くなって居る。昭和二十年頃はまだ、井戸の上に棒で三つ又を立て、標しがしてあったが、演習地内になったので、その後は誰も知るよしもないのである。
この農場にも、下の方に一ヶ所だけ水が湧いている所がある。水汲み場で、農場の人達は皆んなここ此処まで馬に土橇を引かせて、空樽を(二斗入り)三〜四ケ積んで、登り道を苦労して家まで運び、この水を大切にして使った。
又、冬期間は、雪を大きな鍋に入れ、火にかけて解かして水にし、炊事や洗濯に使った。従って、常時風呂には入る事が出来なかったが、農場の事務所には大きな風呂があって、専門の人夫が風呂を沸かしていたので、時々は昼間に交替で風呂に入りに来たと言う。夕方は熊が恐しくて、女や子供は歩けなかった。
この農場は、大きな石が多く、表土が浅いために、農耕に適せず、又、その頃は大変強い風が毎年吹くので、作物を作る事を主として入植した人々は、早く見切りをつけて、二〜三年で他の土地へ移って行ったので、小作人の移動は激しかったと言う。
造材の盛んであった頃は、富良野原野の学校、工場、農場の家屋の建材や薪炭は、殆んどこの森農場から搬出して使用されたと言っても過言ではない。農場の末期(大正五・六年頃)、農場から木材の運搬や薪を運搬したと言う古老は、今でも健在で生存している。
この様に、十数年間桜花の様に、一時的に栄えた森農場も、木材の消失と、豆景気が悪くなると同時に、人々は他の開拓地に移動し、農場は官に引き揚げられて国有地となり、現在は自衛隊の演習地に活用されている。
この様な事実が現在の人々から遠ざかり、物語りをする人々も居らぬ時世となって来たので、ここに記してみました。
昭和二十年、終戦後、東中、西中、旭中方面の人々が宮林から、建築用材や薪材の払い下げをうけて、此の農場の道を冬期間に息をつらぬて搬出した時期もあったので、今日の老人方にもなじみの深い原野であり、道路でもあります。なお、この地から切り出された材木は鉄道敷設用の枕木に、又、石材も鉄道に使用されたり、倉庫用材としても搬出されたのです。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛