吹上温泉の変遷(下)
《飛澤温泉から吹上温泉の廃業まで》
野尻 巳知雄 昭和十二年三月三十一日生(六十六歳)
※引用文を除き、文中人名敬称は一部省略しますのでご了承願います。
自動車の運行を始める
昭和八年、飛沢清治は江幌吹上温泉間の自動車の権利を赤間次男から買取り、フォードの自家用車二台を導入し、運転手に本間・角家・千葉という人を雇って、飛沢自動車部として営業を始めました。しかし、夏季の期間限定のため利用者も思うように増えず赤字が続き、二年後の昭和十年四月に大印自動車会社へ、その権利を八千五百円で売却しています。
清治は九年頃から体調をくずし病床に伏せる日が多くなりましたが、ただ一冊だけ残っている昭和十年に書いた清治の日記には、温泉路線バス売却の様子などを次のように書いています。
清治体調をくずす(昭和十年の日記から抜粋)
○ 一月一日 火曜日 晴れ
近年二十数年快晴 今冬一番の寒冷 零下十六度何となく元気出ず。
辰己より道庁から開墾補助の券来たとの事。
○ 一月四日 金曜日 晴れ後曇り
山本一郎氏を招き自動車の件と養子の件につき頼み込む。佐藤敬太郎氏年始に来る。自動車の話をしたところ、結局面白からず。
○ 一月十六日 水曜日 晴れ後降雪
山本一郎、山七伊藤、西条氏が話し合ったところ、山本氏は自動車新会社を創立することで、高畠氏が金額を見積もりの筈、その模様に依って金子全一氏と会見の筈なりと。
○ 一月十九日 土曜日 曇り吹雪
角家を下富良野に遣わす、警察に自動車路線の願書を出すも、一時中止する事に決す。
村長は商工会を造り、自動車等を村営の事に決するようの話、西条より話しあり。
○ 一月二十九日 火曜日 晴れ
本日健康状態悪くて三十八度四分に上昇す。
富樫銀次郎の父危篤の報に接し、下山するように連絡、その様子にて一時保留する事を決す。
西条の話に依れば、金子氏より自動車に関する件の返事は、百円位の金を必要とする故会社創立は出来ぬと云う。
○ 二月十日 日曜日 降雪後晴れ
自動車の買人来る。縷々話し一度帰りて後日返事すると言って帰る。
○ 二月十九日 火曜日 雪
清水、白川、杉本、佐藤、安田、角家立会の元にて自動車の売買契約をなす。手金として七百五十円収入す。価格は八千五百円にて私の取り分は七千五百円とす。
山本一郎氏を招き拓殖無尽の事を頼む。
○ 二月二十五日 月曜日 雪後晴れ
山本一郎氏出旭、拓殖無尽より書類返還を受け、午後一時三十分に渡す。富樫銀次郎の父和助より暇願来る。
○ 三月一日 金曜日 雪晴れ
中茶屋売上高三十六円 二月分二十二円一銭。
金三円三十九銭を味噌パン及びオコシ代として中茶屋に送る。内地より洗濯女伊藤トミ子本日午後一時到着す給料五円とす。
○ 三月二十六日 火曜日 小雪
角家終列車にて帰る、自動車シボレーを三百五十円にて買う。先方にて車体検査を受け、手渡す事に決す。手金二百円を渡し、車体検査の後百五十円を払う。
○ 三月三十一日 日曜日 晴暖
佐藤芳太郎と杉本来て、自動車の金猶予の事を願い出るも、変えることは絶対拒絶す。
○ 四月一日 月曜日 小雪暖
自動車山下引き受け、本日三千円丈入金。残金五月三十日支払い約束す。
○ 四月九日 火曜日 晴れ
池の水を干す 金魚一匹、鮒一匹見る。温泉にロック六羽送る、一羽一円五十銭計九円。
○ 四月十一日 木曜日 小雨
辰己温泉に帰る。中茶屋の次女下富良野へ帰る。
山部の久野由巳という者、孵卵器を見に来る。本日鉄道の手当(駅逓)五十二円収入す。
飛沢清治は、六月八日で自筆の記入をやめています。九日からは七女尚子が代筆していますが、日記を見ると五月に入ってから遠くにいる親類縁者も見舞いに訪れるようになり、健康状態は日に日に悪化していったものと見受けられます。
残された清治の日記からは、路線自動車の赤字解消のため昭和九年暮れ頃から売却先を探しており、一時は村営に移行することと、新たに自動車会社を設立して運営することなども検討されていた様子がわかります。
また、大印自動車会社から自動車の代金支払い猶予の申し出があり、清治はその中し出を拒絶したところ山下某氏が替わって引き受けたと記載されていますが、山下某氏とは旧町史に中川温泉の売買の欄で出てくる、中富良野村で鹿討農場の管理人をしていた山下半太郎氏と思われ、山下某氏はこの売買に関係したのではなく、吹上温泉線の自動車の権利に関係したものと推測されます。
バス路線は大印自動車会社に売却
吹上温泉線の路線バス権利を買収した大印自動車会社は、昭和十三年の村勢要覧によると、十一年から夏季のみの限定で十勝岳線の観光バスを定期で運行しています。(十七年から運休)また日記には、昭和十一年の春に温泉で番頭を務めていた富樫銀次郎さんが、辞めている事や養鶏場を売ることに決めたり、商工会が設立された事なども記載されています。
本稿上・中にも記した清治の生涯を振り返ると、清治は秋田で生まれ飛澤家の婿養子となりましたが、養父との折り合いが悪く、北海道に新天地を求めて渡道することとなり、上富良野で医院を開業して住民の医療と治療に尽くされました。また、温泉旅館を買収して十勝岳の観光開発に取り組んで、多額の私財を投じて温泉道路の整備を行い、路線自動車の権利を買収して十勝岳線の路線バス運行を始めたり、温泉経営に必要と中茶屋の施設を買収するなど、十勝岳の温泉開発に多大な貢献を残しています。
一方では、秋田から兄弟達を呼び寄せて修学・就職の面倒を見るなど、家族のきずなを大事にしていたようです。
住民の健康管理については、栄養不足の為に増えつづける結核の予防と健康増進を図るために、乳牛や鶏を導入して自ら飼育を実践し農家にも育成を勧めるなど、上富良野の医療と農畜産業の発展にも多くの功績を残しております。
そのほかにも、競走馬を飼育して中央競馬の馬主として活躍したり、いち早くハーレーのオートバイやシボレーの自家用車を購入して乗り廻すなど、明治・大正・昭和とダイナミックにそして全精力を注いで生きた人生は、他に類のない生涯であったと言っても過言ではありません。
昭和十一年三月二十一日、五十二歳の若さで生涯を閉じた飛洋清治は、町の歴史に大きな功績と記念樹を残しております。これからも多くの人に語り継がれることでしょう。
清治死亡後は、飛沢辰己が温泉経営のすべての責任を担う事になり、独自の発想を生かして運営を展開する事になりますが、辰巳の家族について少々触れておきたいと思います。
飛澤辰己と家族
大正七年一月に秋田県六郷町佐藤貞一・イナの長女キヱと結婚した辰己夫婦には、五人の子どもがいます。
長女イヨは大正八年に秋田県大曲町於倉で生まれ、小学四年生のときに上富良野で亡くなっています。次女智子は大正十年九月に上富良野で生まれました。三女律子は大正十四年に上富良野で生れ、山田真一(日通勤務)と婚姻、四女孝子は昭和二年に上富良野で生れてまもなく亡くなっています。五女育子は昭和六年に上富良野で生れ、同じ職場の同僚であった小山成史(教諭)と昭和三十二年に結婚しています。
辰巳の実家秋田県大曲市の飛澤家では、昭和九年に父春吉が死亡して家督相続をする予定であった姉(長女カネ)の婿養子、清治が北海道へ渡って戻らないため、三男の辰己が家督相続をすることとなりました。
もともと辰己は、父の職業である医者を嫌い軍隊に志願入隊し、その後営林署に就職していましたが、姉婿の飛澤清治から北海道に来るように誘いがあり、飛澤医院を手伝う事になりました。また、辰巳の兄弟も父春吉の死後は医業を継ぐ者も無く、比較的生活が裕福であった姉婿の飛洋清治を頼って北海道にやってきたため、飛澤家は幼い弟雄三郎がひとり残ることになってしまいました。
秋田県大曲町で長年続いた飛澤医院は、父春吉の死亡とともに途絶えることになってしまいましたが、辰己は飛澤家の家督相続者として、そのことが何時までも心を痛めておりました。
大正九年に北海道に渡った辰己は、一年ほど清治が営む飛澤医院で薬剤の仕事を手伝い、その後吹上温泉の支配人として温泉経営に携わることになりました。
昭和七年に温泉経営が吹上温泉株式会社となり、昭和十年にその経営責任者となった辰己は、吹上温泉を大きく発展させようと考え、株主に施設の増改築を強く働きかけましたが、当時の株主は石橋を叩いて渡る人が多く、辰巳の積極的な意見は受け入れられず、結局現状のままでの経営を続けざるを得ませんでした。
それでも辰己は、意欲的に吹上温泉の宣伝に努め、昭和十一年のパンフレット「北海の楽園国立公園十勝岳」には、次のような記事を出しております。
《交通自動車》 夏季は上富良野駅より吹上温泉まで乗合自動車の便あり、所要時間片道四十分。賃金一人上り金七十銭・下り金五十銭《当時は米十sたり約二円》、便数一日四往復。駅前発午前七時二十分・十一時二十分、午後二時二十二分・五時三十分。 《馬橇》 (必要の時は予め上富良野駅に人数・時刻をお知らせ下さい)
湯たんぽを抱き鈴の音を耳にして揺られて行く態また格別なり。中茶屋より森林に入り。蛇行形に登り曲ること百八回にして、温泉に達す。所要時間四時間〜五時間なり。中茶屋から鉄索コースを登り行く者多し。片道二人まで二円・三人の場合三円、中茶屋まで片道二人まで一円五十銭・三人の場合二円五十銭。一台三人までとし、一人でも二人分申し受く。荷物運搬は、一台に付き三人分の料金を申し受く。《宿泊所
吹上温泉》(収容人員百二十人)
一泊二食、一円五十銭より二円五十銭まで、握り飯二十銭。《吹上温泉
付属自炊館》(収容人員二十五人)
部屋代・一日四十銭、布団代・一日二十銭、木炭代・一日三十銭。《勝岳荘》 (収容人員三十人)
吹上温泉より泥流寄り二百メートルの箇所にあり。一泊一人五十銭自炊の設備完全。《白銀荘》 (定員九名)
勝岳荘より更に泥流寄り二百メートルの箇所にあり。一般のスキーヤーの宿泊は許されない。
当時のスキー客と登山客数
年次 登山客 スキー客 昭和七年 四二〇名 六七五名 昭和八年 七九〇名 九二四名 昭和九年 八〇〇名 九四二名 昭和十年 一〇〇〇名 一〇八〇名 昭和十一年 一二九〇名 一四二〇名
昭和十三年三月の「富良野毎日新聞」に上富良野駅調査による十勝岳への一般登山客とスキー客数が掲載されています。
十勝岳への登山客数とスキー客数(上富良野駅周辺)
このように、昭和七年からの十勝岳への利用者はヒュッテ「白銀荘・勝岳荘」建設の効果もあり、年々増加して順調に推移していました。しかし、昭和十二年十月の「国民精神総動員令」の発令により、国民の中に「温泉利用は贅沢である」との空気が除除に広まって、温泉の利用を控える人々が増え、吹上温泉の客は次第に減少の道をたどるようになっていきます。
そんな中、村では観光客の誘致に力をいれ、昭和十三年版「村勢要覧」の国立公園十勝獄名所案内欄には、次のような記載を載せています。
東洋一のスキー場十勝岳は山岳家の憧れの的となっておる、風景眺望共に壮絶なり。中腹には湧出量無限豊富の吹上温泉あり、夏季登山・避暑・湯治と併せ三大快味を満喫でき、冬期間はスキー場として十勝岳独特の雪質と変化あるゲレンデは、山岳スキーヤーに羨望される所で、スキーの巨人ハンネス・シュナイダーによる、世界的スキー場の賛辞を得たる其界の独壇場である。
このように、村も観光宣伝に努めていましたが客は一向に増えず、温泉経営が日増しに悪化したため、辰己は昭和十六年十一月三十日をもって官設駅逓を廃止するとともに、温泉経営の夢を断念して山を下りることにしました。
辰己は山を下りる少し前の昭和十六年十月、秋田県ではかなうことが出来なかった御典医を勤めたという由緒ある飛澤家代々の医者の家系を、次女智子に託そうと医師黒沢實(秋田県平鹿郡・黒澤清長男)を婿養子に迎えました。このように飛沢家の医師の家系は辰巳の次女智子が北海道で継続することになりました。(医師の實は明治四十五年五月、秋田県大曲で生まれ、昭和十二年に北大医学部を卒業後第二内科に入局し、十六年に智子と結婚後昭和十八年四月に応召になり、ビルマ方面に派遣となった。昭和二十二年に除隊後、旭川厚生病院に勤務して院長などの要職を歴任し、昭和四十七年春光町で飛澤医院を開業した。現在は次男の志朗が継いでいる)。
吹上温泉売却
昭和十六年十一月、当時吹上温泉株式会社の筆頭株主であった飛澤英壽は、硫黄山駅逓としてほそぼそと経営を続けてきた吹上温泉も、道庁の補助金無しでは経営不可能と考え、出資者の株主と相談して吹上温泉株式会社の株を、札幌に住む鉱山技師で兼松某と云う人に売却することにしました。
吹上温泉を購入した鉱山技師の兼松某氏は、居住地と吹上温泉が遠く離れているためなかなか営業出来ず、しばらくはそのままとなっておりましたが、昭和十七年に兼松某氏と山歩きの仲間であった上富良野の陶治助氏(以後敬称略)に温泉施設を売却し、陶冶助が吹上温泉の経営に当たることになりました。
陶治助の出身地と陶氏の由来についても少し記します。
陶治助の祖父直蔵は、戸籍によると香川県綾歌郡陶村の出身で、治助は父吉次、母シナの長男に生まれました。
治助の祖父直蔵の出身地、香川県綾歌郡陶村は、明治四年高松藩が廃止され、それぞれが独立して陶村と称し、明治九年に愛媛県に属した後、同二十一年香川県となり、現在は昭和二十九年に昭和村と合併して綾南町となっています。
「陶」の名称と「陶」氏の由来
「陶」の名称について、綾南町史の編纂を担当した綾南町企画課の担当者の話によると、『「陶」村の地区は昔から陶器の生産が盛んなところで、村全体に陶器を焼く窯が立ち並んでいた程で、このようなことから陶器の「陶」を略して「陶」の地名が残されたのではないか』と話しています。現在も陶器を作った窯の跡が陶地区に歴史記念物として数箇所に残されているようです。現在もその名残りである「陶」の名称は村落の地名や、神社、仏閣、学校、公民館、石碑などで「陶」の名が使われ残っています。
「陶」氏の由来については「綾南町史」に、文献など確証する物は何も残っていませんが、古老の古くからの言い伝えとして次のような記述が記載されています。
《綾南町陶地区には古くから住んでいた部族が四つあって神別(かみわけ)と皇別(きみわけ)のグループがあり、その一つ陶氏のグループは皇別の家柄で、讃留霊王(さるれいおう)の子孫が統括して専ら土地の開発や農業に従事していた。日本書紀、及び南海通記によれば「讃留霊王は悪魚平定の大功によりて讃岐の国造りとなり給い永く讃岐に留り給う」とあり、その子孫が陶に分封せられたのが陶氏の始祖で、荘園を開いたこの地域の豪族として名を馳せ、年代は二世紀頃のことと推定される。》と記されています。
現在綾南町字陶村には、「陶」という名字の家は一戸のみ残っていますが、「陶」氏の由来については何も解らないとの話のようです。
「陶」の地名は、香川県綾歌郡綾南町字陶村の外に、山口県山口市に「陶」という地名の地域があります。ここにも陶磁器を生産した窯跡が残っていることから、そこでも「陶」の名称が残されたものと思われます。
この山口市の「陶」氏については、戦国時代に周防守護代(今の山口県)を務めていた大内氏の一族で、大内盛政の弟盛長が周防国佐波郡右田村に居住して右田氏を名乗り、弘俊のとき弟の弘賢が吉敷郡陶村(現在の山口市)に住んで「陶」を名字とし、後に毛利元就に討たれて絶滅してしまった有名な武将の「陶一族」も居ります。この地区には「陶荒田神社」「陶氏館跡」などの史跡のほか、地域の名称で「陶」が残っており、小学校や幼稚園なども綾南町と同じように「陶」の名称を使っています。
「陶」地区の名称と「陶」氏との関係は、地区名の「陶」が先に就いており、そこに赴任した地区の支配者がその地域の名称「陶」を「氏」としたことも考えられますが、これについても定かではありません。讃岐地方の「陶」と山口県の「陶」との関係についても、資料がほとんど残っておらず、詳しい事は何も解っておりません。
「氏」の起源
「氏」の起源について調べてみると、その地区の名称と戸籍上の氏が同じであっても、その祖先がその地区の支配者であったと言う仮説は成り立たないことがわかりました。
「氏」「苗字」「名字」の起源については色々な説があります。最初に苗字を使ったのは天皇家が血系の純度を保つために、公家諸家が家の名として称号を称したことから始まったとされています。
その後、武家の勢力が増強するにつれて新しい所領毎に「氏」を名乗るようになり、その名を天皇から下賜されたもの、所領地の地名に合わせたものなどが多く使われるようになったほか、戦国時代になると次々と武将が誕生し、その配下の家来を統率するために「名字」や「氏」を与えたこともあって、苗字(名字、氏)を使うものはだんだんと増えていきました。
しかし、江戸幕府の時代が終了するまでは、苗字(名字、氏)を名乗る事が出来たのは皇族や氏族と言われる極く一部の階層の人達であり、ほとんどの住民は名前のみ(例、伊勢の佐助、越後の三衛門など)を使用していました。
明治新政府になり、「四民平等」の新国是の下に明治三年にそれまで苗字帯刀を許されなかった百姓、商人、一般住民にも苗字を名乗る事が許されるようになりました。また同年に公布された「徴兵令」を敷く為には、すべての国民の所在を特定し、その姓名を掌握することが必要となったため、翌明治四年に戸籍法が制定され、明治八年には皇族を除くすべての国民が苗字を持ち、名を持つことが義務づけられました。
この時に新しく作った苗字(名字、性、氏)の八割もしくは九割は、居住地の地名から採ったと言われています。
その他の苗字の由来では、@自然や動植物の名(山、川、谷、木の名など)A役職地位などの職名(鍛冶、臣など)B神仏などの名(星、大仏、神、福など)があるようです。
このことからも綾南町字陶地区と、陶冶助の祖父「陶直蔵」の戸籍にある出身地の陶氏との関係も定かではありませんが、無関係であるともいえず、今では二千年の昔のロマンを推測しながら、先祖の歴史に思いを馳せることも夢のあることではないかと思います。
陶治助父母と北海道に移住
陶治助の父吉次は、明治八年に直蔵の死亡により家督相続して、明治四十年に本籍地香川県綾歌郡陶村から札幌郡白石村厚別に入植しました。その後千歳・恵庭と移転し、治助の時代になってからは占冠・富良野と転居して昭和十六年に上富良野へ移住して今日に至っております。
長男毅さん(大正十二年生、以後敬称略)の話によると、『父治助は若い頃から山が好きで、山師(鉱山を探したり山林を売買する人)の仕事をしており、占冠では山林を買って木材を搬出したり、炭焼きの仕事などもしていました。山歩きが達者だったので、山菜取りの名人と言われていたほどです。兼松さんとはいつも一緒に山歩きをしていたようで、そんな関係から、札幌に住む兼松氏が吹上温泉の経営を地元で適任者がいないだろうかと、父治助に温泉経営について相談していました。吹上温泉の経営には旅館業の経験も必要ではないかと、駅前で旅館を経営していた山乙北川与助氏にも相談していたようですが、北川氏も駅前と十勝岳の二箇所での旅館経営は無理があり、当時何もしていなかった陶が適任ではないかと言う事になって、懇意にしていた陶冶助が吹上温泉を買う事になったのではないかと思います』と話してくれました。
吹上温泉を再開
陶治助は札幌市に住む兼松氏から吹上温泉を譲り受け、昭和十七年春から営業を始めました。
最初は、治助の家族や親族だけで温泉の経営をしていましたが、忙しくなると人手が不足となり、地元の旭野から若い娘さん達や豊沢島吉さんなど近くに住む人の応援を頼みました。仕事は薪割りや炊事などの手伝いで、働いていた人数は、従業員と合わせると全部で十人はいたそうです。
治助の長男毅の妻ナツさん(大正十五年生)は、開設当初から廃業するまで吹上温泉に勤めておりましたが、当時の模様について次のように語っています。
『お湯の温度は微温めで三十八度前後しかなく、宿泊人員は二百人以上が泊まる事ができました。温泉で働いていた人はみんな市街から歩いて登りました。当時は中茶屋に工藤さんが小さな店を開いていたのでそこで一服し、道路を歩くと遠いので索道跡の直線をまっすぐに登りました。冬はスキーを担いで登ったので、膝まで雪に埋まって歩きました』と話しています。
冬の客は馬橇で運搬
また、長男毅さんも当時の様子について語っています。
当時は温泉までのバスも無く、宿泊客も下から歩かねばならず、夏の利用者はあまり多くありませんでした、冬は馬橇で運んだので夏よりもお客は多く来てくれました。
馬橇での運搬は、最初は六平さんがお客さんを運んでくれましたが、その後は父の治助が自分でやっておりました。温泉でも馬を飼っていて、夏は軽い馬車を使い冬は馬橇を引いて、一日おきくらいに下から食料などの荷物を運びました。
冬のスキー客は芦別炭鉱の人や大学生、営林署の人が多かったようです。
温泉では発電機を使い夜だけ電気を使っていましたが、発電機が古くなり故障も多かったので新しく木炭の発電機を買い、玄関の半分を仕切って発電機を置きました。
仕切った部屋は狭くて木炭から出る二酸化炭素がこもってしまい、中毒を起こして倒れているところを助けてもらった(現在の奥さんのナツさんに)ことも時々ありました。
駅前のバス車庫は住宅に改良
駅前に、元の大印自動車会社が使ったバスの車庫がありましたが、戦時中で自動車会社が経営出来なくなったので、治助はそれを温泉の車庫に買収して、子供たちの学校に通うための住宅に使いました。また、車庫裏で豚や鶏を飼って温泉客の食料にしてたことなどを、当時のことを思い出しながら話してくれました。
毅は、富良野の大印自動車会社で貨物自動車の運転手として働いていましたが、昭和十八年に帯広に飛行場を作る事になり、その工事に必要とのことで車ごと軍に徴用となってしまったのと、痔を悪くしたこともあり、車の運転をやめて十八年の春から父の経営する温泉で働く事にしました。しかし、十九年三月には軍隊に入隊することとなり山を下りています。
吹上温泉昭和十九年六月で営業中止
陶治助が温泉経営をやめた理由については、当時戦争が激しくなり『温泉経営は贅沢だ』と言われて、寝具や食器類と二階の部分の建物が室蘭の捕虜収容所に使うためにと、軍に徴用されてしまったためでした。経営を続けることが出来なくなり、昭和十九年六月で営業をやめることになったようです。
その後終戦となり、昭和二十三年夏から十勝岳登山観光バスが駅前から吹上温泉までの運行を開始したので『吹上温泉を改築して温泉を再開したい』と営林署に申し出ましたが、『木造つくりの建物では許可しない』と言われ、大きな資本を必要とする建築では資金も不足なため、己む無く吹上温泉の経営再開を断念したとのことでした。
当時残っていた本館部分の建物は、昭和二十五年に解体して街まで運び、翌年にその材料を使って現在の陶家の住宅を建てています。
その後の十勝岳登山バスの運行は、相変わらず乗客も増えることなく土曜・日曜のみの運行に変更になるなど、多くの変遷を経てきました。
戦後の吹上温泉の変遷
終戦後は白銀荘も一般客にも開放され、昭和二十五年の「登山案内」には、○「白銀荘」定員九名、宿泊料百円、浴場の設備完全。○「勝岳荘」定員六十名宿泊料五十円、二階・三階畳敷、階下ホール、自炊・寝具の設備完全″と記載されております。
また、その後の道路事情は、昭和三十六年に「十勝岳産業開発道路」として、中茶屋から翁温泉を経て旧噴火口に至る道路工事が着工され、昭和四十六年には十勝岳温泉道路から、旧吹上温泉を通り白金温泉に至る十勝岳観光環状道路が完成しています。
平成三年には旧吹上温泉の露天風呂が改修されて復活し、同八年に「吹上温泉保養センター白銀荘」として、現在の建物が新築完成しております。なお、「旧白銀荘」の建物は現在もそのまま残されておりますが、近く解体するとの風説も伺われることから、道内外の関係者から「歴史ある建造物として保存してほしい」との意向が寄せられており、町としても建物の老朽化が激しいこともあって、今後の活用に苦慮しているようです。
最後に、この執筆にあたり数多くの関係者の方々にお世話になり、特に旭川在住の飛澤智子さんと、最後の吹上温泉の経営に携わった陶毅さんご夫妻には、お忙しい中インタビューや貴重な資料の提供にご協力いただき、心より御礼と感謝を申し上げます。
機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔