郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

此日、余は(その三)
―遠藤藤吉小伝(藤吉の日記から)―

旭川市緑が丘五条一丁目 遠藤博三(藤吉三男)
昭和二年十一月二十八日生(七十五歳)

◎昭和十四年(一九三九年)―藤吉四四才―

この年の主な事業としては次のことがあげられる。
・歌志内炭鉱長屋の仕事   ・布施政一さんの仕事
・溜池番小屋の仕事     ・松原さんの仕事
・里仁学校住宅の仕事    ・美瑛緬羊場の仕事
・十人牧場佐藤さんの仕事  ・役場村長室の仕事
・帯広柏小学校の仕事
この中、歌志内炭鉱長屋の工事と帯広柏小学校の工事は、いずれも地元を離れての長期間にわたるもので、地元に工事のなかった事情とともに、大工職人の不足という時局に伴う求人難(徴兵による労働力の不足)が窺える。
また日中戦争の拡大と全面化により国内経済の統制は強化されるとともに、建築業に直接的に影響してきたこととして『釘』の手配があった。日記の中に『……釘持ちにて請負す。』『釘の申請』『釘の配給』ということが随所に出てきている。
この年の藤吉は色々な面で多忙であった。三月八日に商工会会議員に、四月十三日に区長に、四月十六日には大工業組合を結成し自ら組合長になっており、それに伴い多忙な日々を過ごすことになる。
特に区長職は多忙を極めたようである。区長については町史の中で次のように記されている。
『……区長は常に郷土の第一人者が選ばれ、区長自身も郷土をになうという責任感のもとに行動したからその権威を保つことが出来たのである。上富良野の特色と行ってよい。』
藤吉は地域の第一人者と認められたということであろう。
戦時という時局から、応召兵の壮行会(この年五回、五月七日、八月二十日、九月十四日、十月二十日)。戦死した英霊(遺骨)の出迎え(この年二回、六月三十日、八月十六日)などへの対応は、区長として大切な務めであったようである。
しかし藤吉は、半年程経った十月二十日に区長職を辞職している。家業と区長職との並立が困難であったと推察できる。
健康を回復した長男『憲一』を八月五日から商業組合に勤務させる。
◎昭和十五年(一九四〇年)―藤吉四五才―
この年の主な事業として次の工事があった。
・八木さんの仕事       ・赤平炭鉱浴場の仕事
・藤崎さんの仕事       ・山本さん事務所改造の仕事
・商業組合事務所と倉庫の仕事 ・産業組合倉庫の仕事
・ホップ園乾燥場と倉庫の仕事  など
この中、赤平の浴場の仕事と釘や針金等については、前年に記したことが更に深刻に考えさせる。
この年の藤吉の動きの中で特別な二つの動きがあった。
その一つに、二月二十六日に海江田さんの依頼で余市に赴いて蘭島の古家を見て帰り、更に三月六日、海江田さんから千三百二十円を預かって余市に赴き、三月十一日まで六日間にわたって古家の解体を指示し、古家材の運送を手配して帰っている。古家の解体材は何に使われたかはわからない。
今一つは、商業組合理事長金子全一さんの依頼である。四月八日に古平に赴いて石蔵を見て帰り、更に二十四日に余市に赴いて石蔵を見て帰る。帰って話合いの上、古平の石蔵を購入することになり、六月三日、金子さんと共に古平に赴き、三日間にわたり石蔵の解体、運送の手配をして帰って居る。解体した石倉は上富良野に持ち運ばれ商業組合の倉庫として再建される。その倉庫は今も現役として活用されている。
同じ頃、同じ方面に同じような動きをしたが、その裏に、時局に伴う資材の不足と、かってニシン漁で栄えた地域の衰微が窺える。
藤吉の子供の身の上で嬉しいことが二つあつた。
その一つは、次男慎治の苫小牧工業校建築科への合格入学である。向学心の高かった藤吉にとって、次男慎治の進学は何にも増してうれしかったことに違いない。八月二十日には学校を訪ね担任に面会している。
その後、次男慎治は昭和十九年四月仙台の第二高等学校(旧制)に進み、昭和二十六年三月早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、昭和三十二年葵設備株式会社を創設して実業界に進出した。
その二つめは、永い間祖父母のもとに在った三女美恵子が、十二年振りに十二月六日に帰宅し共に生活することになった。
日記の抜粋の中で
『商組』とあるのは『上富良野商業組合』、『信組』とあるのは『上富良野信用購買販売利用組合』、『産組』とあるのは『上富良野共立産業組合』のことである。
◎昭和十六年(一九四一年)―藤吉四六才―
この年の主な事業として次のことが挙げられる。
・多田さん住宅の仕事  ・永楽座(上富良野劇場)の改築
・麦酒会社の仕事(ホップ園農場住宅、富良野合宿所、処理場)
・産業組合の仕事(美馬牛集積倉庫、味噌醤油倉庫)
・役場吏員住宅の仕事
この頃、農産物等の集荷配給統制団体としての機能を持つ産業組合には、その機能の遂行のために農業倉庫の充実が強く求められていた。このことから進められていたこの年の産業組合の倉庫の建設は、旭川の安田と言う人が請負い藤吉が下請けをしたようである。
なお、藤吉が手掛けた上富良野劇場は、戦中戦後を通して住民に娯楽(映画)を提供してきたが、昭和三十八年閉館し現存していない。
この年の藤吉の仕事は麦酒会社(ホップ園)の仕事に終始したと言える。この藤吉と麦酒会社の堅い結び付きはどうして生まれたのかと考えさせられる。前に記したような時代背景とともに、藤吉の豊かな人間性と優れた技能に心服した麦酒会社の人々の姿が思い浮かぶ。上富良野に遠藤藤吉あり″と言うことであったのではなかろうか。
前にも記したが、釘、針金の確保には苦労したようである。この年の日記に記された釘・針金の記述は十八か所に及んでいる。釘は原則的には大工業組合を通した配給制がとられているようであるが、配給の数量は一人当たり、三百匁とか四百八十匁とか僅かであり、配給の回数も三回しか記載されていない。ただ、建築が特別な要請でなされた場合に特配の制度があったようで、『処理場の釘が来る』『倉庫の釘が来る』などの記載がある。しかし、こうした配給制で必要量が満たされたとは思えない。赤平の浦田という人にお金を送ったり米を手配してやったりしている。石炭景気の炭鉱地域の人に裏から働きかけをしていたことは充分想像できる。
また、職人の確保にも苦労したようで意を使っている。
昭和十六年十二月八日朝、太平洋戦争が勃発し、日本全体が戦争の深みに嵌まって行く。藤吉の記述は『日米英戦争、午前五時より始まる』と簡単である。
◎昭和十七年(一九四二年)―藤吉四七才―
この年の主な事業
・麦酒会社の仕事(ホップ園住宅、倉庫、乾燥場)
・丸一山本さんの借家の仕事  ・産業組合の住宅の仕事
・学校の職員室改造の仕事   ・富良野火葬場の仕事
この外、個人の仕事があったが量的に減少している。
この年、藤吉は常会(町内)の常会長(町内会長)に選ばれたことから、日記には時局を反映したことばが多く記載されている。それを列記し少しばかり補足的なことを記してみる。
○『今夜、常会をす』=常会は定期的に開かれていた。昭和十五年九月以降、内務省によって隣組の制度が全国的に整備され、住民の相互協力・相互監視・上意下達の体制が徹底されていく。
○『此日、午前四時、神社に参拝す』=戦争遂行への国民精神高揚の手段として、早起き、神社参拝などが求められた。また、応召軍人の出征にあたっては神社で壮行会を開き必勝祈願をした。
○『金属を回収する。役場に届ける』=アメリカの対屑鉄禁輸措置は日本の物資動員計画を破綻に導き、昭和十七年九月の金属回収令により家庭の鍋釜に始まり寺の梵鐘まで常会を通して供出させるにいたった。
○『此日、勤労報国隊十四名出発す』=昭和十六年十一月、国民勤労報国協力令が公布され、男子十四才〜四十才、未婚女子十四才〜二十五才の勤労奉仕が義務化された。
○『此日、組割当の白菜六十六貫目を配給す』=此日とは昭和十七年十一月十日である。太平洋戦争勃発前に既に国民生活に不可欠な物資の不足が目立ち始めていた。この日は白菜の配給であった。参考までに、この頃、配給制(切符制)であった物資を列記してみる。
・米・砂糖・マッチ・味噌・醤油・食塩・小麦・木炭・清酒・衣料品
○このほか、『国防献金』『銃後奉公会』『恤兵会』『教育招集』などのことばが記されている。
この年、三男『博三』が函館師範学校に入学した。『此朝、枯木に花が咲いた様に寒い』この年十二月五日の日記に記されている文である。藤吉という人はこのような詩的な表現をする豊かな心の持ち主であったことが窺える。
◎昭和十八年(一九四三年)―藤吉四八才―
この年の主な事業
・温床障子作り    ・青年学校の仕事
・ホップ園の仕事   ・富良野火葬場の仕事
・東中校長住宅の仕事 ・土管工場の仕事
・産業組合の仕事
この年の特色ある事業として温床作りの始まりがある。この頃、水稲栽培の冷害対策として生まれた温床苗床に使用する油紙障子の作成を、農業指導機関を通して依頼され、三人の建具屋と共に作製することになった。この仕事はこれ以後昭和三十一年二月まで続いた。
この頃、建設資材の不足と共に困ったことに、労務者の確保があった。それは『徴兵』と共に『徴用』が起因していた。昭和十四年七月八日に『国民徴用令』が公布された。戦争遂行のため重要産業に必要な労働力を強制的に確保する徴用命令の公布施行であった。藤吉の許では既に政信、進次の二人が出征していたが、九月に高藤、与一の二人が、十月には惣吉が徴用され一カ月余の期間、勤労報国の名で国策の遂行に協力させられている。
特に、土管工場の工事に当たっては労務者の確保に苦労し、芦別に、富良野に、中富良野に、指導所に赴いて協力を依頼している。この頃、朝鮮人労働者の日本への強制連行政策が本格化していた。そのことからと思うが、十一月二十日の日記に『半島五人にて排水堀りにかかる』『半島に道路造り、一人』の記述がある。
またこの頃から、毎月一回、勤労報国隊の名で時期に応じた勤労出動をしている。援農など、国内に在った労働者は『産業戦士』と呼ばれていた。
幼児期から虚弱で、昭和十二年に腎臓摘出の大手術を受け健康回復に努めていた長男『憲一』が五月十三日に死亡した。日記には『憲一、午後二時十分死亡す』と記述を読む限りでは淡々としているが、長男『憲一』に寄せる思いの深かった藤吉の痛みを伺うすべはない。それこそ、人事を尽くして天命を待つの心境であったのであろう。
長男憲一戒名『光照覚道信士』
九月十八日に長女トミの婿『若佐司一』に召集令状が来た。これまで、藤吉の身内で兵役に従事したものは無く、婿の『司一』が唯一の兵役であった。
◎昭和十九年(一九四四年)―藤吉四九才―
この年の事業として次のことが挙げられる。
・温床障子作り       ・青年学校の仕事
・土管工場の仕事(住宅、作業場、便所)
・営林署の仕事(倉庫)   ・銀行の仕事(物置)
・東中土功組合の仕事(用水路架樋)
この年の一月から二月に藤吉は四十二日間にわたって旅行している。旅行の目的は明記されていないが、一月十八日の日記に『吉水浄正寺来る。外全部来る。』と記されていることから、父惣次郎の十三回忌の法要を営むための内地行きでなかったかと推察される。
それにしても、戦局が激化の方向をたどるこの時期、広島まで脚を伸ばしての旅行を何と解してよいものか。旅行の概要は次の通りであった。
一月六日、上富良野を旅立ち、途中、日光、湯沢に寄り十日夕方脇野町に到着する。
十一日から二十日まで上岩井に在り、親戚、近隣知人を訪ねて廻り、十八日に父惣次郎の十三回忌の法要を営み、二十一日午後、東京に向かう。
二十二日から二十六日まで東京に在り、親戚を訪ね、相撲を見物し、名所旧跡を参観する。東京では次男慎治の紹介で新宿の旅館聚楽に泊まっている。
二十七日に藤沢遊行寺で父と憲一の法要の御経を上げ、二十八日には鎌倉を訪ねる。二十九日には伊勢神宮を参拝し奈良に向かう。三十日には奈良の寺社を参拝し京都に出て広島に向かう。
三十一日朝、広島に着し若佐さんの出迎えを受ける。その後、厳島神社等を参拝し二月三日夕方京都に向かう。四日には京都の寺社を参拝し五日には名古屋を訪れ東京に向かう。
六日から八日まで東京に滞在、歌舞伎を見物し、笠間神社に参り、西徳寺で墓に参り、長野に向かう。
九日には善光寺を参拝後越後に向かい槙の山に泊る。
十日から十三日まで上岩井に滞在、その間、弥彦神社に参拝する。
十四日朝、上岩井を出て、十六日夜、上富良野に着し四十二日間の旅行を終える。
大工挺身隊、労務報国など労務者と時局との関わりの中でリーダー的立場に在った藤吉がこのことに関わって警察の取り調べを受けた。十一月二十日の日記に『自分に不正無いに自信有るに付……』と言うとおり無事釈放された。
若佐司一が出征の後、トミが子供達を連れて五月六日戻ってきた。
◎昭和二十年(一九四五年)―藤吉五〇才―
この年の主な仕事
・温床障子作り       ・東海震災復旧工事
・山本さん住宅の工事  ・丸一山本木工場の仕事
・役場住宅の仕事     ・土管工場の仕事(浴室)
なお、日記が部分的に欠落しているため詳細は不明だが、それまでの日記から、
・土管工場の事務所増築と倉庫の新築の仕事
・西谷麓郷木工場新築の仕事
も手掛けたものと思う。
東海地方は昭和十九年十二月七日と昭和二十年一月十三日の二回にわたる大地震で軍需工場施設も大きな被害を受け速やかな復旧が要求されていた。このことから東海震災復旧工事は大工挺身隊としての出動で、一月二十七日の出発から四月十一日の帰着まで七十五日に及ぶ出動であった。しかも、出動地は愛知県知多半島と遠隔地であった。
日記によると富良野地区からは大工五名の出動で、北海道班の編成は百九十名となっている。藤吉は『隊長より大工班小隊長をを命ぜられ……』大工職の隊員を統率していたようである。
藤吉達はこの出動地で空襲を体験する。二月十五日の日記に『B29敵機の編隊来る。初めて見る』、三月十二日の日記に『敵機百機、名古屋に空襲ある。実に凄惨の極みなり』の記述がある。
この空襲体験は上富良野に帰ってからも続いた。七月十四日・十五日の北海道空襲の際にも上富良野は直接的な襲撃は受けなかったが、空襲対策として防空演習″防空壕掘り″荷物の疎開″など色々な対応に忙殺された。
七月十四日の日記に『此朝、五時に吉田さんの布団の疎開す。母さんとトミと三回運ぶ。布団四ケ箱四ケ計八ケ御願をす。』の記述がある。荷物の疎開は十八日、二十一日にも行っている。
五月十八日、役場より『若佐司一、昭和十九年七月十八日、マリアナ諸島にて戦死す』の公報が入った。長女トミの夫『若佐司一』が藤吉の身内で唯一の戦死者となった。この後、藤吉は長女トミを含めその家族を養育することになる。若佐司一の戒名は『忠孝院釋俊道』藤吉の弟子、片野与一、長谷川政信、小林進次が相次いで戦死している。
この年八月十五日は第二次世界大戦終結の日である。藤吉のこの日の日記は『天皇陛下の放送を拝す。米英支口四カ国に降伏申込みを受詔する。我々は涙を飲んで之を聞く』と簡単な記述で、それ以後の動きに大きな変化はない。
◎昭和二十一年(一九四六年)―藤吉五一才―
この年の主な事業
・温床障子作り   ・山本木工場の仕事(浴場)
・松原さんの仕事  ・村上さんの仕事
・新井さんの仕事  ・ホップ園農場住宅の仕事
・阿部さんの仕事  ・進駐軍関係の仕事(千歳)
十一月十四日から二十九日まで十六日間にわたり進駐軍関係の工事に従事しているが、当時の日本人には連合軍の日本占領政策としての事業(連合軍施設の建設)は拒否することの出来ないこととして出動するほかなかった。作業の内容はダンスホールの建設とか官舎の造作などであった。
空爆による金属工業施設の破壊は、零細な大工職にも大きな影響を与えた。釘の不足である。工事に必要な釘の確保には相変わらず苦労していたようである。苫小牧の奥田という人(小林子之八の親戚に当たる)からは米を通して釘を求めた。また、室蘭の造船所に赴き十四貫目に及ぶ釘を二人で背負って帰ってきている。
終戦の後の無い無い尽くしの生活が始まって半年、前年秋の四十年ぶりの凶作は食糧不足に追い打ちをかけた。都市の人々は着ている衣類を一枚また一枚と剥いでいく生活を「竹の子生活」と自嘲したが、農村地域に住むとはいえ藤吉達の周辺も同じような食糧危機に襲われていた。四月二十一日の日記に『町内会総務班長集合、食糧対策の件を話す』、六月三日の日記に『営団に行く。三町内に六俵と三十五キロ配給ある。一人二百八十五グラム。八才以上を普通とし、七才以下を二百五十グラムとす』とあり、五月九日の日記には大内さん方の葬儀に関し『班にて手伝いする事にす。各人とも自家にて食べて手伝いをする』の記述がある。葬儀の際に手伝いの人に食事を供する事も出来なかったという事であろう。また、四月六日の日記に『鰊四箱配給ある。直ちに分ける』、二十四日の日記に『町内に鰊十五箱配給ある』と記されており、当時の食糧事情の厳しさが良く窺える。五月二十五日の日記に『自家の鶏小屋を直す』と記されているが、鶏を十羽程飼い卵を自給していたようである。
しかし、法は法なりとして耐えていくことは出来なかった。知り合いの農家の人に頼み、米や麦や澱粉をわけて貰って食を満たしていた。日記の中に『〇〇さんに△△を頼む』『〇〇さんが△△を□□持って来てくれる』などの記述が随所に記されている。
この年、藤吉は町内会長を努めていたようで、『村常会に付役場にゆく』『役場に行く。健康保険の会議に列す』などの記述がある。
◎昭和二十二年(一九四七年)―藤吉五二才―
この年の主な仕事
・温床障子作り       ・小林さんの仕事
・東中集乳所の仕事   ・東中鍛冶工場及住宅新築
・学校の仕事(昇降口、教室、便所、校具室、石炭小屋)
・学校住宅土台替 ・東中学校住宅の新築
一月一日の日記に『雪降りて風無く、一般に新春の気分あり』と記されている。敗戦という現実に打ちのめされて一年余月、その中から立ち上がろうとする日本人が、久しぶりに安らかに新春を迎えた気分の溢れた記述である。しかし、この年の建設関係にはまだそれらしい気配は感じられない。
一月十四日に藤吉は内地(上岩井)に赴き二十九日に帰宅している。旅行の目的は明らかにしていないが、二つあったように思う。
その一つは戦死、戦病死した弟子達の霊を弔うことであった。長谷川政信(戦死)、片野与一(戦病死)、小林進次(戦死)。
今一つは三女美恵子の縁組のことである。長岡市小市家を訪れ養子縁組を願い、その後承諾を得て十月二十日、美恵子は小市賢二と結婚した。
この年は選挙の年であった。婦人に参政権が与えられて初めての選挙は四月に集中し、五日に知事市町村長選挙、二十日に参議院議員選挙、二十五日に衆議院議員選挙、三十日に道議会市町村議会議員選挙と連続して選挙が実施された。
この中で、藤吉は同じ大工仲間で道議会議員選挙に立候補した富良野の田中三次氏の当選に尽力した。三月二十一日の日記に『十一時の列車にて富良野田中三次さんに行く。武田君も来る。道議の話を聞く』と記されており、極めて短期間の選挙活動であったようだ。五月二日の日記には『此朝、東中小林、六時に来る。田中当選をいう。直ちに高坂、穴田、佐藤、中川、伊奈に通知をす。余は十一時の列車にて富良野に行く。田中に御祝を述べる。』とある。
また、町内会長の選出に当たっても、三月十五日の日記に『町内会長公選をす』と公選という言葉を使っている。
三月十四日の日記に『渡道三十周年にて一杯飲む。山部渡辺、中富元井、赤川来る。』と記されている。大正七年三月、脇野町上岩井を志を掲げて発って三十年、苦難を乗り越えてそれぞれに身を立て名を成して三十年、深い思いの会合であったことと思う。
◎昭和二十三年(一九四八年)―藤吉五三才―
この年になって直そう″建てよう″という機運が民間個人の中に生まれてきたような感じが窺える。それが復興への歩みと言えることなのかもしれない。この年の主な仕事は次のとおりである。
・温床障子作り    ・福屋さんの仕事
・東中診療所の仕事  ・松本さんの仕事
・中西一旦さんの仕事 ・勝井さんの仕事
・小川さんの仕事   ・中西さんの仕事
・中富良野弘照寺の仕事
この頃の日記を通して、上富良野という小さな村社会の中でも、そのしくみや動きに変化がおこってきたことが窺える。
二一・八・一  『此日、富良野へ行く。大工労働組合を十五日頃設立する話ある』→労働組合の組織化・民主化。
二二・七・二二 『此日、学校の後援会に行く』→PTAの設立。
二三・一・三一 『此日、農業会の解散総会に行く』→農業協同組合の設立。
二三・五・一八 『此日、商工会の発会式に行く』→商工会の再組織化。
二三・五・一九 『此日、労働基準法の話を聞きに行く』→労働者の権利確保。
三月二十一日、弟惣吉より『ハハワルイ』の電報があった。藤吉は直ちに妻ミセを内地上岩井に赴かせ看病に当たらせたが、五月二十一日に母死亡の電報を受けた。享年七十五才であった。
藤吉母 タニ 戒名『貞心院光式明阿大姉』
藤吉の母『タニ』は明治六年二月二十一日、長谷川栄蔵の長女として生まれた。父惣次郎と母夕二が結婚したのは母夕二二十一才明治二十七年九月二十七日(入籍)である。『タニ』については四才から十六才までタニの手元で養育された藤吉三女美恵子が次のように述べている。
「昔ながらの気丈夫な女性だったと思う。生家は裕福だったようで土蔵が二棟もあったのを覚えている。弁護士の弟や石炭商を手広く商う弟が居たりして、兄弟姉妹が年に一、二回生家に集まったのを記憶している。世間の噂話は嫌いでむしろ政治の話等を好んで聞いていた。昔の人らしく乗物酔いがひどく北海道へは一回も来なかった。」
『タニ』は死ぬまで遂に長男藤吉の住む地を踏むことはなかった。
この年三月、三男博三が北海道第二師範学校を卒業して上富良野中学校に赴任し教員となった。子供の誰かを教員にと思っていた藤吉には嬉しいことであったであろう。
◎昭和二十四年(一九四九年)―藤吉五四才―
この年の主な事業(◎は会社関連)
・温床障子作り     ・中富良野弘照寺の仕事
・変電所の仕事     ・郵便局舎の改造
◎上富良野農協精米工場の仕事  ◎東中家畜診療所の仕事
◎東中農協倉庫の仕事    ◎東中中学校校舎新築の仕事
◎東中農協精米工場の仕事
藤吉にとってこの年は画期的な年といえる。土建会社の設立がそれである。大正七年三月、二十三才の若さで身を立てんとして北海道に渡り、骨身を惜しまず働き大工として社会的に信用を得、昭和二年一月(藤吉三十二才)建設請負業の認可を得た藤吉は、更なる進展を心に期していたものと思う。昭和十二年には藤吉個人としてピークを迎えたが、それも戦中戦後の暗い時期に入ってそのまま推移していった。
建設会社の設立を何時誰が言い出したかは分からないが、藤吉の日記によれば昭和二十三年十二月二十一日の日記に『夜、土建会社の準備会を真保にて開く。社長を穴田さん、専務を高坂、常務を遠藤』と記されているのが始めてである。建設会社の設立が藤吉の願いであったかどうかは分からないが、その流れが時代の趨勢であったように思う。
その後の設立総会までを日記でたどってみる。
二月一日   夜、穴田さんに行く。払込みの件に付打合せをす。公募は穴田、伊藤、松下、高坂、遠藤の五人にて打合せの上することにす。
二月十三日  高坂氏に会う。会社の話をす。夜、穴田さんに行く。
四月七日   此朝、高坂さんに会う。
四月十日   午後、公会堂に土建会社の総会に行く。
設立された会社の概要を登記簿謄本から写してみる。
・登記年月日 昭和二十四年四月十三日
・会社名   上富良野土建協同株式会社
        (後に上富土建株式会社と変更)
・資本金   三十万円(一株百円・三千株)
・取締役   穴田裕二(社長)
       高坂新三郎(専務)   高坂 幸治
       遠藤 藤吉(常務)   小山 国治
       佐藤芳太郎       赤川 太作
       田上 音造       伊奈 正平
・監査    松下 忠平 伊藤 弘夫
◎昭和二十五年(一九五〇)―藤吉五五才―
この年の主な事業(◎は会社関連)
◎東中農協精米工場の仕事  ・温床障子作り
◎日通社宅の仕事 ・金子さんの住宅改造の仕事
・屠場の仕事        ◎江幌小学校住宅の改造の工事
◎江幌中学校の新築工事   ・東中公民館の仕事
・日本劇場の新築工事    ◎上富農協美馬牛倉庫の仕事 
前年四月十日の土建会社の創立に関わった藤吉は、この年、急に忙がしいこととなる。それは六月二十六日の日記に『此日、会社の内容を調査す。』から始まる。会社に何らかの問題が生じたことが窺える。日記をたどれば、
六月二十六日 『此日夜、穴田さんに行く。役員会ある。』
七月二日   『此日午後、会社の臨時総会に行く。選挙の結果、取締役七名とす。山本、穴田、村上、遠藤、赤川、佐藤、伊奈、七名当選し社長に山本さん、専務に遠藤、常務に伊奈と決定す。』
七月五日   『此日、会社の事務引き継ぎに行く』
七月六日   『此日、伊奈さんの家を事務所にするに付直す。』
七月九日   『此日、伊奈さんと山本さんに行く。会社の今後の打合せをす。』
七月十日   『此日、村長さんに行き挨拶をす。石森さんに登記の件を頼む。』
七月十一日  『此日午後、事務所に行く。山本さんと打合せをする。』
七月十二日  『此日、午後三時より会社の役員会を開く。三十一万円の借入れの件を承認す。』
七月十三日  『此日、銀行より借入金をす。各商店の借りを支払いす。』
七月十五日  『此日、東中松浦さん来る。新田中の昨年の工事の玉石整地代七万円の請求がある。……。東中中西さん来る。農協と会社の間のセメント三百二十袋の精算書を出す。……。』
日記に記されている限りで考えれば、直接的には会社の経理に問題があったということであろう。
何れにしろ藤吉は専務という重責を担うことになった。この日から、毎日のように『会社に行く』の記述が残されていく。
◎昭和二十六年(一九五一年)―藤吉五六才―
今年の主な事業(◎は会社関連)
・温床障子作り        ◎中学校渡り廊下及トラス工事
・東中家畜診療所の仕事    ・久保さんの仕事
・赤川菓子店土台替の仕事   ◎中富良野農協国保病院医師住宅の工事
◎日新小学校校長住宅の工事  ・東中農協鍛冶工場の仕事
・伊藤さんの食品加工工場と住宅の仕事
前の年、土建会社の専務となった藤吉がこの年まず当面したことは、会社の増資問題であった。二月二十五日の日記に『此日、午後二時より会社の総会を開く。報告の後、増資の件を可決す』とあり、二月二十八日の日記に『新株募集に歩く』と記されている。三月と四月、新株の募集に歩き廻った様子が連続して記されている。この間、新株募集で面談した人は日記に記されただけで十名を数える。ともかく上富土建会社は資本金三十万円の会社から資本金百万円の会社に大きくなった。
藤吉終生の恩人『西谷元右衛門さん』が八月十五日に亡くなった。藤吉は十六・十七日の両日、終日葬送に当たったがその心情はいかばかりであったか、察するにあまりある。
昭和二十二年四月、北海道議会議員に当選した富良野の田中三次氏が改選に当たり立候補し、藤吉も再選に尽力したが落選した。
藤吉とその一家は大正十二年七月三十一日に現在地に転居したが、その宅地は河村郵便局長さんから借地していた。三月四日の日記に『此日、局に行く。土地の代価を三回位に支払いをする事に話す』の記述があることから、この年の三月に宅地を購入取得したものと考えられる。また、八月九日の日記には『此日夜、河村さんに土地代金二万円支払す。計四万円』と、より具体的な記述がある。
この年、藤吉は二級建築士の資格を得た。六月八日に『此日、道庁より二級建築士の免許来る』の記述がある。また、六月十四日の日記に『石森さんに土地調査士の手続きを頼む』の記述があり土地調査士の資格も取得しようと努めたようである。
◎昭和二十七年(一九五二年)―藤吉五七才―
この年の上富土建会社の主な事業
・元井地先護岸災害復旧工事  ・富良野用水路堰門新設改修工事
・町役場庁舎増築工事       ・旭野富原治山工事
・麦酒会社農場作業所改築工事 ・新佐川道路改修工事
・江幌小学校改築工事       ・旭川現業所富良野事業所増築工事
・美瑛農協美馬牛支所事務所新築工事 ・不息橋架換工事
・清水橋架換工事          ・上富良野駅改築工事
この年の日記を読み返していく途中で二つのことに気が付いた。
その一つは量である。藤吉の残した日記の全部をワープロで打ち直したが、この年までの日記の分量は年当たりB五判で二十頁位であったものが、この年が三十二頁、この後、三十七・三十八頁と増えていく。倍増である。知人にそのことを話したら「事業に対する積極的な意欲や充実ぶりの反映ではないか」と言われた。会社に関わって四年目、年齢は五十七才、まさに脂ののりきった時期と言えるようである。
その二つめは表記の内容である。前の年までの日記には自分自身を含め、どれだけ(半日とか全日とか)仕事をしたかが必ず記入されていたが、それが、この年から全く消えている。何故だろうと考えさせられた。すると、土木建築請負業遠藤藤吉個人から上富土建会社専務への転換という構図が浮かび上がる。大正七年に北海道に渡り、昭和二年に土木建築業の認可を受け、昭和二十五年に上富土建会社の専務となり会社の経営に専念する藤吉の姿が大きく浮かび上がってくる。労務者個々の行動の記録は藤吉個人が把握することではなくなったということであろう。
ここで、土木建築請負業遠藤藤吉は何処へ行ったのだろう。土建会社の専務として会社の経営に携わることはその発展として喜ぶべきことであったのだろうか。そうかもしれない。藤吉の日記を読む限りにおいては、藤吉自身はそれを何も問題としてとらえてはいない。
藤吉が『俺も早くから旭川や札幌に出ていれば……。』と語っていたのを子どもが聞いている。
◎昭和二十八年(一九五三年)―藤吉五八才―
※この年の日記が見当たらない。
この年の上富土建会社の主な事業
・十勝岳勝岳荘住宅新築及白銀荘土台替工事
・富良野信用金庫上富良野店舗改修工事
・富良野川改修事業所新築工事
・十三号護岸工事       ・北十八号貯水池改修工事
・べべルイ川十五号橋架換工事 ・清富校教員住宅新築工事
・平和橋架換工事       ・江花校運動場新築工事
・東中校校舎補修工事他    ・日新荒廃地復旧工事
◎昭和二十九年(一九五四年)―藤吉五九才―
※この年の日記が見当たらない。
この年の上富土建の主な事業
・上富良野神社神輿庫新築工事   ・北海道電力幾寅変電所新築工事
・富良野川改修事業所増築工事   ・日新校体育館新築工事
・日新荒廃地復旧工事         ・上富良野町公営住宅新築工事
・十勝岳白銀荘便所増築工事他   ・山手幹線十三号護岸工事
・十六号橋架換工事           ・江幌完別川井堰災害復旧工事
・中富良野西山地区農地保全事業
この年の上富土建会社の総会(昭和二十九年二月二十八日)で藤吉は代表取締役に選任された。社長となったわけである。また、娘婿の賢二も取締役(専務)に選任され、遠藤家の人は完全に上富土建会社の人となる。
次男慎治が十一月三日に玲子(西野目玲子)と結婚している。
◎昭和三十年(一九五五年)―藤吉六〇才―
この年の主な事業(温床障子は遠藤家)
・温床障子作り         ・大雄寺庫裡新築工事
・十線十三号分水門工事     ・竹の湯新築工事
・十八号堰堤及取入れ口改修工事 ・高畠家新築工事
・東中家畜診療所増築工事 ・松井家新築工事
・国道旭川浦河線上富良野地内道路改良工事
・富良野河第四幹線井堰災害復旧工事 ・東中農協事務所及店舗新築工事
・富良野河改修工事雇人宿舎新築工事 ・下金山北電駐在所土台替工事
・二十一号橋災害復旧工事      ・東鹿越変電所本館屋根改造工事
・中富良野土地改良区住宅及物置新築工事 ・地げき復旧下川治山工事
会社の経営には色々な問題が付随するのは当然である。
労務上の問題もその一つである。一月三十一日の日記に『此日、富良野安定所より丹治国茂の離職票不正の件にて電話ある』の記述があり、この間題の解決に二月いっぱい振り回され二月二十三日の日記の『富良野安定所に行く。丹治の件にて始末書と誓約書各二通提出す』で結末をみている。
また、九月十五日の日記に『西野の件にて監督の激しい怒りにて建前中止になる。直ちに行き、夜になって建築委員全員にて大工を建前後に取替える事、そして、今後は特に誠意を以て仕事をする事にして許していただく』の記述がある。
賃金との関連で次の記述がある。八月二十日『〇〇さんと△△さんが来て、銭高に付行くに付と話あるに付承知をす』。八月二十一日『△△さん来る。又、使ってくれと言う。当方は宜しいといって打切る』労務者確保の足元を見た態度に厳しい姿勢が示されている。
この年、会社では大雄寺庫裡新築工事を行っているが、大正十一年、二十七才の若さで大雄寺本堂の建立を指図した藤吉は、三十三年経ってまた大雄寺の工事に関わった。官公庁の公共工事を受注施工することになった今、藤吉と事業の相関を振り返ってみると、大雄寺、東中地区、ホップ園の三つが浮かんでくる。いずれも藤吉にとって貴重な活躍の場を与えてくれていた。
藤吉の健康状態の記述がある。一月二十日『血圧一六〇に下がる』、十月十八日『七時、医者に行く。絶対安静と言われる』、これまで、感冒や歯痛などで休んだことがあったが、六十才になった藤吉に健康の心配が出てきている。
◎昭和三十一年(一九五六年)―藤吉六一才―
この年の上富土建の主な事業
・べべルイ川北三号堰止改修工事 ・高橋郵便局長宅新築工事
・草分第十七号水路移設工事   ・中富良野横山地先護岸工事
・中富西山地区農地保全工事   ・富良野川改修工事及車庫増築工事
・北十九号堰堤改修工事     ・日新地隙地復旧工事
・立松家新築工事        ・富良野川十五号橋架換工事
・第三枝線北九号暗渠及架樋工事 ・上富地内工手詰所新築工事
・占冠村地内湯の沢橋架換工事
(昭和十八年に始まった温床障子作りが、この年の二月で終っている。)
この年の工事請負において、昨今問題提起されている土建業界の裏事情が生々しく具体的に記されている。その要点を記してみる。
五月二十九日 『……。協会長、次の入札には必ず仕事が取れる様にしてくれると言う』
六月八日   『△△と〇〇と□□に入札の件を御願』
六月九日   『◎◎に行く。所長と会う。予算九十二万円と聞く。』
六月十三日  『此日、旭川に行く。◎◎の机上説明に行く。夜、話合いをす。会長決裁にて当方に戴く事になる。』
六月十四日  『此朝、宿より入札に行く。再入札の結果、九十二万円にて落札す。午後三時半、協会に行く。歩金を納める。』

工事の受注施行は順調に続いているようであるが上富土建の経営は若しかったようである。
三月十六日の日記に『此日、午後二時より総会を開く。決算報告をす。役員選任にて前役員全部辞任にてまとまらず。一時保留として後日にする事にす。』とあり、十八日の日記に『此日、〇〇さんと□□さんに行く。役員を断られる。◎◎さんに話をし同族会社として発足する事にす。』の記述があり、この後、西谷さん、渡辺さん、赤川さん、佐藤さんに取締役就任を頼み承諾を得て同族会社として再発足している。
藤吉はこの年五月、九日間にわたり入院生活を送っている。発端は五月二十八日の日記に『此日、進藤さんに行く。結核性睾丸炎、直ちに手術する事にす。』ということで、五月一日富良野執行病院に入院手術し九日に退院している。藤吉にとって一時の休みと言える。五月八日の日記に『朝は晴れて、気分は山を見て満点』とある。
(次号に続く)

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔