郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

愛馬の追憶

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(八十九歳)

三重県で生まれて家族七人と共に北海道に来た私だったが、二歳五カ月の幼い頃なので記憶は定かでないが、物心のつき始めた頃にようやく馬との対面を果たした。
開拓といっても当時はもう掘立小屋で広い土間に馬小屋があって、馬とは一つ屋根の下で暮らしていたから馬とは朝夕、顔を合わせて家族同様に付き合った。
今は千望峠となって町の名所に数えられているが、当時は曲りくねった山坂を街まで用事で行く時は一人息子である私を馬橇に乗せた父は、ハイヨーと声をかけながら走らせてくれるのが、子供心には一番の楽しみで、馬小屋で息を荒げている馬の鼻面をなでてやるのが習慣の様になりながら成長して来たと思う。こうして大正十年、島津の現在地に住みついてもう八十年近くにもなろうか、その春の四月一日、憧れの小学校へと入学したが基線道路までの草を刈ってもらったり、風雪の日は馬橇で途中まで迎えに来てくれたりして、一人息子とは言いながら父と馬には随分と厄介になったものよと幼い頃を思い起している。
こんなわけで、小学三、四年頃になってからは馬喰さんがきて馬の取替えをする時は、必ず私を呼んで、私の呼び名である「坊」の馬に乗って見ろ、といって馬に跨らせ走らせたりして試験をしてから交換に応じた様だった。
従って、もうその頃から、夏は畦草を刈って与えたり、冬は藁を切り刻んで飼料とし馬の世話一切を進んで引受けた格好で、男手の無い我が家の為に働いたものであった。
こうして小学校と高等科一年までは無欠席の状態で頑張ったが、残念にも二年生の時は五月と十月の農繁期には一カ月連休して、どうにか卒業させてもらったが、その期間だけでも馬との縁は深まった。
その頃は尋常科、高等科を問わず卒業と同時に青年団員となる義務があったので、父親を早く失った関係で早婚した私などは、三人の子供を育てながらも尚、青年団員であり在郷軍人でもあった。
その頃は満州事変が始まり日支事変にと進展して緊迫した状況の中で、農耕馬の大徴発があり、旭川まで延々と曳馬をして師団に引渡した事もあった。
これが始まりとなって次から次へと人馬共ども徴発が続くので、あまり馴染みのないまま別れさせられた。その都度、馬喰さんのお世話になるので出費も多くなるばかりで、もう堪えられず考えた末に絶対徴発にならぬという血統証付きの優良牝馬を見付け、もう大丈夫とばかり、明け三歳の頃から当時としては町内でも珍しい水田除草機も上手にこなせる様に仕込んでもう大丈夫と安心していたのだが、豈はからんや馬どころでなく、小学三年を頭に五人の子供を妻一人に托して応召しなければならない破目になってしまった。
昭和十八年は稲の作柄も良かったので、応召日時までに刈取り、はさ掛けだけは終ったので後を頼んで第七部隊の営門をくぐり、十月の末にはもう関東軍の騎兵隊大二中隊の一員となっていた。
そんな事で子供の時から馬とは縁が深かったことから、騎兵隊でも二頭の馬主となった。訓練用の馬は桜垣という牝馬で背が高いので乗り降りには苦労したが、内務班でビンタを取られているより青空の下で馬と一緒にいる方が楽しかった様に覚えている。
四カ月の教育期間も比較的良い成績で終わり、通信兵の特務が与えられトツートツー等の特別任務についていたが終戦が近づいた頃、ソ満国境の挺身大隊に転属となり、ソ聯の進攻に依り敗戦の憂き目に遇い、果てはシベリヤの虜囚生活を二カ年も経験させられ漸く妻子の待つ我が家へ帰った時は、優牝の栗毛はどんな訳があったのか青毛の馬に代っていた。その馬も当時に多発していた骨歎症とかですぐ鹿毛の老馬と取り替えて飼っていたが、二十四年の農協が斡旋してくれた馬をくじ引きの様な格好で引取ってきたのが、誰れ知ろう不思議な縁というか前世よりの絆に結ばれた様に、我が家の家族同様に、三十年近くも苦楽を共にして来た馬の「東簾」で、ドル私に取っては弗箱的存在であったし娘の様に可愛がっていた「カゲ」なのである。
血統証を見る限り釧路方面の生れてアングロ系の中間種なのだが、骨組がガッシリしているので力も相当なもので、それでいて農作業も器用で水田の除草機は勿論カルチベーター、それに遠く富良野の演習林まで行って、現在住んでいる家の材料のやぶ出しや搬出までも苦労をともにしてくれた。
私の復員後に生れた三女と同じ齢だから生きていればもう五十何歳かになるであろうが、何しろ三歳になった春から農耕馬として働いてくれたが年が経つにつれ馴染みが深まると同時に、アングロ系の本姓に目覚め敏捷と勝気が加わり人語を理解するのが得意になってオーヨ、ヨシ、バイキ、タメ等の命令を一つ間違えると大変な事になるので、私も家族と付合う以上に気を配らなければならなかった。
農作業に於てしかり、特に街へ出掛ける時などは、各商店前の馬繋杭につないで用足しをして顔を見た途端に、ヒヒンと噺いて前騒ぎを始める始末で、手綱を取るが早いか命令なしでも出掛け、基線道路に向かうとすぐ走りだすので家に帰ると汗びっしょりだった。そんな事が重なって暮していた或る年の秋、ふとした事で私が入院する事になり、家を明けた事があったが、息子が手綱を持った時ならまだしも嫁が馭者になった時などは全然、意志が伝わらず随分苦労をした様で、仕事が捗らなくて困っていると病院へ来て口説くので、もう快方に向かっていた私は院長に話をして少し早目に退院した事もあったのを覚えている。
遠方の山から薪を運ぶのに急な坂道を力一ぱいに出し切って上った時などの為に用意していた飴玉を掌にのせて、ヨシヨシと良く頑張ったと顔や首を撫でてやると、待っていた様にペロペロと口に入れたかと思うとすぐコリコリと、さもうまそうな音を立て食べた時の事が今でも目に浮かんでくる。
こんな馬だったから可愛さのあまり死ぬまで飼うつもりで共済組合の獣医さんに話をしたら、そんな事をしたら組合が持たないから止めてくれと拒まれた事もあったが、二十五・六年も経った頃に息子が誰にどう言いくるめられたものか「カゲを売って来たよ」と、十枚足らずのお札を渡してくれたのだが、これも時世というものかと渋々受け取って仏壇に供えて「カゲ」の冥福ならぬ幸を祈った。
馬の年齢 人間換算
3歳 13 歳
4歳 16 歳
5歳 19 歳
6歳 22 歳
10歳 34 歳
15歳 49 歳
20歳 64 歳
25歳 79 歳
30歳 94 歳
我が家の水田は爆発の被災地で客土の関係上重粘土の為、町内でも先がけて耕運機を導入し更にトラクターも購入していたので、馬の力はそれほど必要ではなかったものの冬期間の小間使いに結構役立っていたが、今更取り立てて反対の理由もなく諦める外なかった。
私はその当時まだ元気だったので、町役場から請負った電線工事に出ていたし、息子も農協の仕事に出て留守の所へ「カゲ」の買主が来て車に乗るのを随分嫌がっていた、と嫁が状況を話してくれたが、「カゲ」にしてみれば長い間住み慣れた家にもう帰ってこれないという予感がしたであろうから無理からぬことだと胸中を察して、謝るばかりだった。
実は、その年の冬頃だったか、いつも作業が終ると直ぐ道具を取りはづして汗をふいて労って休ませてやっていたのだが、その日に限り午後から普段の飲み友達が来てお茶代わりにと湯呑茶碗で飲みだしたら馬の事をすっかり忘れ、話に花が咲いてとうとう一升瓶が空になるまで飲んで帰ってから、ふと馬の事を思い出し、酒の酔いも手伝ってか馬小屋に入るなり、「カゲ」よすまんかったなあ、俺だけいい気になって酒を飲んでお前を休ませてやれなかったがほんとにごめんなと、まるで家族に話す様に謝っていたら、つい感情がこみ上げて今まで長い間の「カゲ」との生活が思いだされて来てとうとう声をだして泣いてしまった。
相手の「カゲ」も心なしか日がうるんでいる様に思われて、往年の浪曲ではないが「塩原多助」を地でゆく様な劇的な気分になったが、その時の情景が浮かんで来て「カゲ」も私の心を察してくれたのではなかろうかと、自分勝手に割り切ることができた。
因みに「カゲ」は、私の三女と同い年なので人間なら働き盛りであろうが、馬の寿命を考えると生きてはいないであろう。私達農家にとっては単なる経済動物でしかあり得ない、従って仮に五年に一度買い代えたとしても、相当の金額が組勘から引き出された事になるわけで、「カゲ」の様に三十年近くも家族同様に辛抱してくれたということは我が家の経済にどれだけ奉仕してくれたかは物心両面に亘って想像に値するものであって、正に我が家の弗箱的存在であった事は言を待つまでもないと感謝している。
これも余談かも知れないが、私は七人目に生れた男の授り子であるが幸いな事に三男三女に恵まれて現在、孫と曾孫を合せると三十数人となる。皆健在でそれぞれの土地に根を下ろしており、八十年近くも住んでいるのは、長男夫婦と私達両人だけなのだが私は今は亡き両親や御先祖様の位牌とともに、経台の前にではあるが、水谷家に貢献を惜しまなかった愛馬、「東簾」こと「カゲの霊」と親書して大好物だった飴玉を供えて毎日お経を上げさせてもらっている。
三、四年前に御住職のおすすめで金色燦然としたお仏壇を入れさせてもらったが、この金の一部も或いは愛馬「カゲ」の永年勤続の賜かとも思わせられて凍れのきびしい朝でも声をふるわせながらも一心込めてお経を続けている齢九十に近い私である。

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔