郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

来し方九十年、思いつくままに(下)

岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(九十二歳)

世界的不況と冷害による不凶作

世界恐慌と言われたのは昭和四年から七年。冷害は六年から十年まで(八年は豊作貧乏)が重なったから、長い窮乏生活が続いた。この期間を農村の暗黒時代と表現した人がある。
次の私の日記引用からも、どの程度か想像して頂けると思う。我が家では、大正十四年には米一俵を十二円で売れたのに、冷害による減収とは裏腹に、毎年一俵七、八円に低迷した。せめて一俵十円が農家の願望であったのに、最もひどかったのは、我が家では昭和五年、中富良野の共成(米穀会社)に一俵五円の前渡金を受取って契約したが、いざ精算の段になって、一俵四円にしか買えぬ、つまり手取金は零で一円返金の決済、泣くに泣けない情けなさ。
こんな時、万一病気入院、耕馬の死、火事など不時の出費で借金百円が焦(こ)げつくと、高金利に追われて再び立ち直れないが、逆に百円を貸す立場になれふたら雪ダルマのように殖えて、小作人が自作にもなれる。我が家も月二分の利子を払う危機になったこともあった。当時の統計によると、水田の小作地は自作地の二倍を越え、地域社会の階層分化が進んだのであった。「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじっと手をみる」石川啄木の心境そのものであった。
不況が慢性化した世相の中にも私達は適齢期になった。私と妻、妻の兄と私の妹が相次いで婚約したが、これには両家の親達が年頃の息子、娘四人を抱え、家計困難も似た条件を見通しての仲人の話しかけに、乗ったように進行して見合いもした。挙式は相談の結果、不景気時代に相応(ふさわ)しく、父親の間では「青年団服にモンペ姿でいいではないか」だったが、母親達はそれではあまりに可哀相(かわいそう)、借り物で簡素にと話がまとまる。お客も招かず身内のものだけで、二組四人合同の結婚式を実行した。
「註」私達の結婚式に似た例は世間にはザラにあった。父が仲人役の松田家の結婚式の例。当日宮崎家へ花嫁を迎えに出向いたが、夕方なのに未だ畑で作業中、両親が早く切り上げてお風呂にでも入ったらと促すが、もう少しと言ってなかなか止めない。暗くなってから、ようやく支度に取りかかる。改まった髪も結わず、花嫁衣裳もない、盲縞(めくらじま)の着物。花婿の家に輿入れしたのは午後十一時になってしまった。お客さんは南さんお一人。
こんな時代だから、新婚旅行なんて考えてもみない、話にも聞いたことなし、夢の夢だった。たわむれには、「新婚旅行を飛行機で、飛んだ夢見て、寝小便たれた」なんて歌はあったが。
このような苦境から脱出する機会が訪れたのは、国の施策として、負債整理資金、自作農維持創設資金等長期低利の融資制度が出来て、村では百万円の融資枠の目標を設け、負債整理組合の事業として、債権、債務の両者間に立ち、制度資金で返済可能になるまで、債権額の減額を慫慂(しょうよう)したことである。
農家から月給取に転業
私は生来虚弱な体質で、働く意欲があっても体が思う様に動かない、重労働に耐えられないのだ。
私にとっては好きな酪農への道であったが、思い切って月給取りに方向変換、昭和十一年六月、村農会の事務員となる。(日給八十銭)農会の事務所は、村役場内半紙判一枚の窓口に私の机がおかれた。
私は緊張して訪ねて来る農家に対応したが私は困惑した。農会と言えば技術員が常識だからである。
「註」農会は明治三十二年農会法公布、三十三年戸長が農会長、書記が事務を夫々兼務担当で創立した。ついで産業組合も、土功組合なども役場内におかれた。
役場の陣容は村長以下二十数名(私は村から月一円の手当)係制ではあったが、税務が忙しいと庁内の係全員に召集がかかり、算盤片手に駆けつける。
日直も宿直も担当、時間外や日曜の税金の受領や火葬認許証も発行したのである。
私は考えた、農会の事務員は農会の本命である、技術面にも適切な対応が必要だと、先ず、永山農学校の教科書一揃いを買って日を通した。農会技術員資格試験にも機会を得て挑戦(道庁が行った)したが、全道から受検者七名、幸い一番で合格した。資格を取得すると直ちに、技手に任命され待遇も一挙に改善、会長から称讃と激励の言葉を頂いた。
私は余勢を駆って、文部省の甲種実業学校卒業程度検定試験も受検(永山農学校が会場)専門科目の耕種、畜産、林業は一回で取得した。また農業技術の基礎と併せて、気象の知識の重要性を痛感したので、村に設置の観測所を担当した他、気象講習の受講、測候所に出向き所長と面接して指導も受け、専門書も手に入れて勉強した。ずっと後になるが、永年の観測記録を統計処理して、平年値や各種相関係数などの知見を得て、私の特技のようになった。
農会の事業について少し触れたい。農事実行組合実蹟共励会を行った。(農事実行組合は法人で設立。理事の変更などの登記事務は、すべて農会が行っていた)項目は自給肥料、除草管理、農家簿記などを競うもの。毎月一日と十五日を堆肥増産日と定め組合ごとに旗を掲揚し一斉に堆肥の積み込み日とした。秋には農産物検査員や小学校の農業教員の応援を得て、全農家戸毎に農事実行組合の役員の立会いと協力を得て測尺審査した。(私は朝六時出発、鰍の沢、清水沢、日新、鹿の沢、旭野を雪の路、徒歩で廻って夜帰宅が七時になったのを思い出す)除草審査は実行組合員が全員相互採点したのを、抽出で審査。農家簿記は農会で独自の出納仕訳様式のものを採用、記帳戸数を採点の対照とした。年一回学校の体育館を借りて、表彰授与式が盛大に行われた。
また農会では月一回の農休日を提唱し、特に婦人の休養を狙いとしたが戦争であまり実行されず立ち消えとなる。
購買斡旋。新農薬、新品種種子、新農機具、土地改良資材等を扱った。(農家一般に普及しそうになると産業組合の購買に移管した)
販売斡旋。種籾、種子馬鈴薯もあったが、最大のものは軍用燕麦で、平時は年三、四万俵、戦時には八万俵にも達した。春先に農家と数量で契約栽培、糧秣廠の計画購買年間七、八回とは必ずしも一致しない。受渡しは倉庫に農家単位に「ハイ積み」一俵ずつ全部の俵の検査が出来る積み方で、大きな倉庫も収容力の何分の一しか使えない。出荷全量購買にならない時は購買毎に価格が異なるので、農家への支払は不公平にならない様に苦労した。兎に角、軍人相手は何につけても大変だったことは忘れられない。
時代は戦争に移行。農会は本来の業務に加え、国家統制の一翼を担うこととなる。食糧、軍需農産物の計画生産出荷の責任と、伴って生産資材である肥料、農機具、石油類、釘、針金に至るまで、一切の割当配給事務、並びに兵員、軍馬の充足に伴う農業労働力補充の一環として、町内会の勤労奉仕、道内外からの長期に亘る援農学徒の受入態勢、農家に分宿と、学校、青年倶楽部、お寺等に合宿の場合は、生活必需物資の調達のため、供給先、役場、農協との連絡調整に当たるなど、当時の農会の陣容では全く激務の連続であった。
「註」終戦前後については、「郷土をさぐる」第六、七号に「銑後の農村回想記」を投稿してあるので参照ありたい。
私に召集令状が来た
戦前は、現役で入営するのは適齢者の一割位のもので、私には軍隊は無縁と考えられたが、世は戦時下だ。昭和十八年七月、丙種の弟に赤紙が来て入隊した。私は既に三十四歳、だが第一乙種だから若しやと思って、現役兵で入営する者が準備した「軍人勅諭」の暗記をはじめた。一ケ月程かかって漸く暗記したところで本物の召集令状。九月三十日、神社前で同時召集の約五十名が整列、年長の私が指名を受けて代表で出陣決意表明の挨拶をした。
駅頭では見送りの人達があふれ、線路沿いに百米以上も続いた。列車は運転士の気転であろう、静かに長く長く徐行を続けてくれた。私達は再び帰れぬかもの、感無量のうちに村を後にした。
かくして私は、北部第四部隊第一大隊第一機関銃中隊の新兵になる。召集兵の中に片目義眼の者がいたが、係の兵隊の曰く「お前達は弾除けだ、跛(びっこ)でもたっこでもいいんだ」の言葉には、私は強く違和感を覚えた。内務班で迎えてくれたのは古年兵、真っ先に整列ビンタが挨拶だった。そして開口一番、お前達は地方では威張っていても、ここは軍隊だぞ。星一つ多いと上官だ、上官の命令は朕(天皇陛下)が命令と思え、いいか、分かったか。新兵一同大きな声で「ハイツ」で軍隊生活の第一歩が始まった。
入隊数日後、クエゼリン、ルオツト両島玉砕の報が入って、営前で大隊長の訓辞があった。太平洋には二千の島がある。一つや二つ玉砕しても問題ない、背後のソ連も、いざと言う時には、ウラジオストックはボタン一つで吹っ飛ぶんだ。大要こんな趣旨の言葉であったが、私は本心から納得できなかった。
我々召集兵は満州要員であったが、出発前の内示に私の名前がないことを知り、人事係の岩村准尉に満州行きを願ったが、俺が決めるんでない、軍医が決めたのだから動かないと。その時は残念に思ったが引き下がらざるを得なかった。残留になった四名は、次の召集兵と一所に教育を受けた。演習は仮想の敵はソ連の戦車隊。火炎瓶を抱えて飛び込むのを繰り返す。対戦車砲の曲射砲が、ノモンハン事件で敵戦車の装甲が厚く無力が分かり、曲射砲は廃止となって、兵隊は我が機関銃中隊にも編成替えして来た。
教育期間が終えると、今度は樺太転属が決まったが四名は再び残留、翌十九年一月十日、召集解除帰郷となった。召集の際の決意からすれば、誠に不本意で世間体の悪い思いがした。しかし、妻だけは喜んでくれた。夫が体が弱くてよかったと初めて思ったと。
痛恨の太平洋戦争
二十世紀の最大事は何と言っても太平洋戦争だ。私なりに要約して振り返ってみたい。
我が国は明治維新で世界に目を見開き、列強の殖民地になるかもに驚き、西洋の文物(ぶんぶつ)を取り入れ、富国強兵を国是とした。そして日清、日露戦争、引続いて日韓合併、第一次世界大戦参加、シベリヤ出兵などと、次第に世界的に頭角を現わす。このことが欧米列強に対抗勢力に見えたのか、我が国の国際関係に対して事毎に干渉したり、軍縮会議で強く圧力を感ずるようになった。街の本屋には「日米未来戦」「日米もし戦わば」などが並んだ。
昭和六年九月十八日、我が関東軍が柳条溝の満鉄線路爆破事件を起こした満州事変。世に言う十五年戦争の発端であった。八年には国際連盟で四十二対一で孤立脱退の道を選ぶ。十二年七月こんどは蘆溝橋で日中軍が衝突、支那事変となり、戦線は際限もなく拡大してゆく。十四年五月ノモンハン事件が起こり、ソ連軍の強力な戦車隊や、精鋭な狙撃隊に思わぬ敗北を喫する。この頃から列強は対日経済封鎖を強化し、少資源の我が国は、戦線維持が容易でなくなる。
「註」油の一滴は血の一滴と言われる時、米の石油生産は日本の百倍、鋼材は十倍、工業力を示す自動車は当時、米英で計三百六十万台に対し、日本は僅かに六万台であったのだ。
以上の状況下、十六年十二月八日、真珠湾を奇襲攻撃し宣戦布告したのである。緒戦は成功大戦果を得た。そして開戦から六ケ月位は破竹の勢いで、東南アジアから南太平洋を手中に収めた。ところがそれも束の間、十七年六月、絶対優位の物量と技術力を背景に、体制を整えた米軍は俄然反撃に転じ、ミッドウェイ海戦に於いて、帝国海軍の至宝であった大型空母四隻を含む艦隊が撃沈され、一挙に制海空権を失った。この時点で此の戦争の帰趨(きすう)が明らかになったのだ。その後は反撃どころか、太平洋の島々に孤立した守備隊は、殆んど補給、救援の途が断たれ、米軍の猛攻の前には、玉砕か然らずんば餓死かの途しかなかったと言っても過言でない。
大本営発表は、いつも大戦果を誇示し損害は控え目だった。耳に入って来るのは「大和魂、必勝の信念、神州不滅、一億総決起、鬼畜米英、討手(うちて)し止まん」と国民を鼓舞激励の言葉であった。
ひしひしと迫り来る戦況不利が想像出来ても、誰も公然と口にする者はない。でも、来る年も来る年も生活物資は枯渇の一途。農家では、ランプに必要な灯油は一滴の配給もない。(極少量は発動機用のみ)生産資材は、金偏のつく製品は皆無、海外産の燐酸、加里肥料は無論皆無、国産の硫安も(爆薬と競合する)反当一貫匁ではどうしようもない。作物は地力の減耗著しく逐年減産の一途、終戦年の反収は、良くて六分作、多肥性作物に至っては、僅かに一分作の惨たんたるものであった。
これより前(さき)の十九年十月、最後の切り札とも言うべき神風特別攻撃隊が編成された。一発必中、体当りで一機で一艦の撃沈を狙った作戦であった。ところが私がかつて、特攻隊発進基地であった知覧(ちらん)を見学した折のお話では、訓練を受けた十八歳の少年は燃料片道分と重い爆弾を抱え、やっと離陸、低空飛行を続けながら、はるか彼方の山影に機影が没するまで見送ったと仰しゃっていた。しかし無念にも実態は無勢に多勢、攻撃機は群がる艦載機の迎撃には百機で一艦も目的を果たせなかったのではないか?と。
開戦から五年目の二十年三月、米空軍重爆撃機B29等一千二百機による本土無差別大空襲に依り、東京も焦土と化す。続いて四月、沖縄米軍上陸、激戦により、軍民莫大な犠牲を払って占領される。
八月六日、九日の両日、広島、長崎に地球上の人類の歴史に絶対忘れてはならない原子爆弾の炸裂によって、非戦闘員である一般市民三十二万人が、此の世の生き地獄の酷(むご)たらしい死に方で犠牲になったことである。かくして八月十五日無条件降伏となる。
玉音放送が良く聞きとれず、本土上陸を前に最後の決起かとも耳を疑ったが、翌日の新聞は敗戦の事実と一億総懺悔(ざんげ)だと報じた。私どもは急には頭の切りかえが出来ず只、茫然自失の状態が続いた。世の中も敗戦によって混乱、無秩序になり勝ちで、様々なデマも飛んだ。男は去勢される、女は連れ去るが多く、或はソ連軍が稚内に上陸するとか、逆に大陸からは将校は帯刀のまま帰れると言うものまであった。
戦争を顧みて、今になっても疑問が解けないことがある。先ず何故戦争と言う手段に訴えたのか、総合戦力に格段の差があるのに、この事は公表されている統計でもあきらかだ。これはノモンハン事件でも実証的になったことだし、更に開戦半年にして早くも帰趨(きすう)が決定的になったのに、その後も何年間も戦闘が継続されて、三百万人という尊い人命を犠牲にしたのかである。作家の司馬遼太郎も戦車隊少尉で、小隊長の経験から「日米戦争など正気で言ったら、負けるに決まっていた」と述べている。もう一つ残念なのは、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、無条件降伏後も戦闘を継続し、結果的には六十万人の将兵をシベリヤに不法抑留したことであり六万人が酷使と寒さと飢えで犠牲になったことだ。
「註」終戦直後の昏迷の中で、村内の心ある者達が自然発生的に集まったのが「自由懇話会」であった。(顔触れは旧産業組合青年連盟の盟友が多かった。思い出せる名前を挙げると、石川清一、和田松ヱ門、長沼善治、久野専一郎、林財二、川野守一、中山武好、近藤利尾、伊藤実、新屋政蔵、横山政一、石橋貞一、大柳正二、飛沢英寿、佐川亀戒、松島、北川三郎、上田美一、まだ何人かいた)何かの機会に声を掛け合って会合を持ち、質問をぶっつけ合う。毎回、活気溢れるもので、いつも十数名の出席があった。また、道新の論説委員を招いて、耳新しい幅広い話題に耳を傾けたこともあった。私達は迷える小羊のような心境だったから大変役に立った思いがした。
農業改良普及員時代
戦後GHQ(連合国総司令部)筋では、農会の技術員は農村の支配者である地主の手先であった、との見解を示した事であった。そもそも占領政策の農業改革の一環として、農地改革が打ち出された。一片の紙切れ(インフレもあって)に等しい土地證券で地主から土地を買い上げ、小作人に与えた。農業団体も農業会から農業協同組合に改変。一方、旧農会に変わる農業改良助長法により普及員制度を設けた。専ら耕作農民の立場で、農家を指導すると言うのだ。普及員は大学卒を受験資格とするが(経過措置として、中等学校卒は三年以上、小学校卒は六年以上試験研究、教育、普及機関の実務経験者も可とする)準国家試験とし合格者は都道府県共通の資格とする。受験は四日間におよび、一千六百点満点で行われた。行政では毎日ラジオで、普及事業の宣伝を行ってくれた。主人公は緑の自転車の稲村さんで、当時の農家にはよく馴染んだようだった。普及員の仕事は農業試験場の試験の成果を農家に伝達する事。個別訪問、実証試験展示圃、4Hクラブの育成が手段とされた。当初辞令が出たのが四ヶ月おくれ。「道の技術吏員を命ずる。三級に叙する、上川支庁在勤を命ずる、上富良野村駐在を命ずる」だが机一つなし、緑の自転車は四人に一台だけ、すべてが村の農業改良委員会の配慮によって、村と農協の援助を得て活動を開始することが出来たのだ。
新しい制度になって、より高い技術水準が期待されるのに、現実は自己研修の機会が、旧農会時代より少ない。自分で積極的に農業試験場、専門技術員に文書や電話で連絡や教示を頂くことになる。或る時は、北大の石塚喜明教授に文書で質問事項を並べてお願いしたら、直接出掛けて来ないかとの事で教授室を訪ねたことがある。土壌肥料に関連して、微量の必須元素についてであった。項目ごとに、うん蓄のあるお答えを頂いた後、研究の現場を案内されて見学させて頂いたことを思い出す。その中で、水に弱い馬鈴薯が水耕栽培で、薯がごろごろと成育しているのを珍しく興味深く眺めたことも。博士は作物の必須の微量元素の研究では日本の権威。著書にされたらと申し上げたら、完成したら東京で出版すると仰しゃった。時代背景の飢餓と混乱から立ち上がるのに最も貢献したのは農業と石炭産業で、二大産業となって、都会の親達が娘の一人は農家のお嫁にと考えた話もあった。増産だ増産だと尻を叩かれたと考えればいやな感じもするが、農家には良き時代だと考えるのが穏当であろう。そして身近な関係にあった普及員も似た感覚になるのであった。自惚れかも知れないが、割合に好意を持って付き合ってもらったと思っている。
個別指導では水稲の温冷床育苗の相談が最も多かった。我が町特有の泥流地帯や強酸水地帯も縁が深かったし、酪農を担当したこともあった。グループでは4Hクラブ、農業学園、営農同志会、水稲研究会の皆さん、真剣に勉強しグループ活動し実践されていたことを思い出している。また田畑作物共試験展示圃を担当して下さった皆様には、ご協力に対して深甚な謝意を表したい。(私の特技研修は畜産で滝川、新得の畜産試験場で二ケ月受講した)アメリカの普及員は特定の事務所はない(郵便局内でもよい)行政にも左右されない、転勤もない、文字通り足を地につけて耕作農民の相談相手、ファマーズ、アドバイザー。日本でも似た運営がなされると思っていたのに、日本は然(さ)に非ず、行政は上からの指令に従っての行動となったから、私にしては違和感が永く尾を引いた。住宅を建てたのに転勤の話、意に副わぬと断る。次にまた転勤の話だ。これは海江田町長の口添えで断る。三回目は遠隔の地、音威子府になったが、石川農協組合長から思い切って行って来いと決意を促され応じた。新任地赴任、初対面の中原農業委員会長から、水田地帯から来た普及員さんは、うちの村には不向きだとの趣旨の率直な挨拶で私はがっかりした。
私は上富の弟のバイクを借りて(私物の持込み燃料と修理は農協負担の了解)村中を駆け巡った。小さな村だから、直ぐに名前も顔も知ってもらえた。農家の人達は素朴で、農業以外の問題にまで意見を求められ、私はすっかり気を良くして、新鮮な気持ちで安心と自信を持つ事ができた。勤務した期間は短かかったが私の普及員生活の中では、充実した任務を果たしたと思っている。
音威子府は夏季低温冬季多雪で恵まれないが、降水量の多いことは草生には優位な条件で、牧草作りでは管内一であろう。他町村の作目に惑う必要はない、酪農では必ず成功すると。
支庁と赴任の時の口約束の期限が来た。支庁は応じてくれることになったが、村では関係者が諮(はか)って留任運動を起した。「単身でよい、炊事の手伝いも考える、毎週土曜日帰宅、月曜午後出勤」の条件提示である。折角の好意だが辞退し我侭を通した。後日、支庁の石坂係長曰く、岩田さんは上富からの転出には随分骨を折らせたが、帰すのにも留任運動で手間がかかったと。
「註」音威子府を去ってから、十五年も経った昭和四十九年に、上川北部地区農業改良普及所から依頼があって、音威子府在勤中の思い出を紙幅十枚に収めて提出した。
私は村に戻ってからも、自分の持ち味は、自然科学に忠実な農業技術を旨とし、農会以来の経験の更なる蓄積、水稲などの生育ステージの記録、気象観測と統計的処理も試みるなど、技術に対する自信と農家の信頼を高める努力を続けながら勤務した。
普及員時代の上司で特に思い出に残るのは、尾谷支庁長、石坂係長、赤岡課長、それに個性が強くて有名な大和課長補佐が忘れられない。
普及員退職後
昭和四十八年一月退職後、町の嘱託、農業共済組合嘱託、道の嘱託と五ケ年同じ役場内で勤務した。
仕事は計算事務を伴うものが多かった関係で、役場で当時としては、富良野市、農林省札幌統計事務所で採用しているものと同じ機種、ソニーマイクロコンピューター、汎用なので、プログラムを組んで色々なものに利用してみたことが思い出の一つにある。(プリンター付で八十万円位だった筈)退職したら町の農業小史でもと思っていたが手付かずに終わる。僅かに中富良野町史編纂委員会から依頼があって気象の項二十頁を執筆したのに止まる。
在職中から切実な思いに感じていたのは、町の開拓の生きた記録を現存の数少ない古老から尋ねておきたいと。たまたま助役を退いて、郷土館勤務となられた加藤清さんと相談意気投合、私の車で約五十名ほどの方々から聞き取ることが出来た。これがやがて郷土研究会「郷土をさぐる会」の誕生となる。
「註」郷土をさぐる第十号を参照頂ければ幸い。
老人クラブと部活のダンス
昭和五十四年、勧められて中央老人クラブの仲間入りをさせて頂いた。五十六年、時の会長は西武雄さん、そして私が副に選任となった。ところが会の規約もなかった(紛失)ので、会長から会則の素案作成の命を受け、東中など他のクラブの規約を参考に練って、成案を得て総会で議決となった。これが私の初仕事であった。会の創立の記録も不明、私より十歳も先輩の本間庄吉(元助役)、村上寛治(元役員)の両氏に伺ったり、上富周報などから辛うじて判断できる程度。
クラブ活動は、他のクラブは当然加入的会員なのに対し、中央の場合自発的意志に依って入会した者で成立しているので、割合活発だと思っていた。
民舞の部長加藤房子さんから、ダンスを始めたいので協力を頼まれた。「仕事一筋で生きてきた人間無芸で……」と断ったが、役員が非協力では困ると迫られ、やってみると面白くて楽しい、運動にもなる。以来十年以上、役員を辞めてからもダンス部長は八十六歳まで続けたが、多くの部員(七、八十名)の皆さんどうも有難う。たった一つ心残りな事がある。札幌のNHKから電話があった、惜しかったが取材をお断りした。放映は有難いが私達のレベルでは、視聴者の反応が案じられたからであった。
余談になるが、私のダンスの師、原先生夫妻に誘われて、札幌真駒内のアイスアリーナで開かれた全日本ダンス選手権大会を見に行ったことがある。(入場料一日一人一万五千円奮発)
プロフェッショナルからアマチュアのシニアまで二日間、延べ千数百名の出場、その規模壮大さに度肝を抜く。模範演技には世界チャンピオン、英国のウッド・ルイス組の華麗なる演技を目の当りに只々見惚れるばかり。
因みに原先生夫妻はシニアに出場、見事第四位に入賞された。私達夫妻はダンスタイムに、広いフロアを心浮き浮き愉快な気分で、思い切りステップを踏んだ。後々まで思い出される一駒であった。
他のカラオケ・民謡・ゲートボール部も参加者が多く活発であった他、日帰り研修旅行、湯治旅行は数多く計画し参加者はいつも多く好評だった。温泉では午後九時を過ぎると、簡単なダンスや盆踊りの輪には女中さんは元より、男の調理師も加わって盛り上がったことを思い出している。
中央老人クラブは町内では一番古い歴史がある。富永会長の頃、二十周年記念式を考え、費用の積立てをしたら、それが裏目、老人クラブには金が余っているとみられ、市街地区連合住民会からの助成が打切りとなった。会員の中にも異論があって、西会長の時、その金をビデオカメラ購入に当て、記念式はお流れとなる。私は残念に思った。せめて記念植樹でもと(私が副会長)安藤苗圃に赴(おもむ)き、富原、島津東の苗圃を見せて貰い、目星(めぼし)いハルニレ、樹高五米位のを選定し購入しようとしたら、そんな趣旨なら無償で差上げると、お言葉に甘え頂戴した。それと片井会員から山で自生のこぶしの幼木を仮植した四米程のもの、二本寄贈したいとの申し出があり、向井会員の小型トラックと役員七、八人が出役し、掘り起こし、運搬、老人センターの敷地に定植を終えることが出来た。只、植付後活着も順調であったのにハルニレは除草剤の薬害で枯死した。こぶしはすくすく見上げるばかりに成長、二、三年前から花をつける様になり、老人クラブ員を見守ってくれている。
海外旅行
私ども夫婦は旅行が好きで、七十歳も大分過ぎてから海外にも数回出掛けた。旅行会社のツアー参加だから駈足観光と言うところだが、それでも毎日違った風景、人種、言語に接するので、異国情緒を満喫とまでいかなくても、結構物珍しく、面白く、楽しいものであった。入国した国名を挙げると、米国、カナダ、ソ連、ドイツ、オーストリア、リヒテンシュタイン、スイス、フランス、英国、イタリア、台湾、シンガポール、マレーシア、中国、韓国の十五ケ国になる。これでも世界の一割にも充たない。
アフリカ、南米、オーストラリアにもいかず心残りも。でも欲張らないでおこう。地球を一周したことに満足しよう。(西廻りになったので、日の出、日没では一日減ったのだ)
旅行を終えて残念に思うのは外国語には明き盲(めくら)。英会話の出来る人達が羨ましかった。でも明治の時代離れの人間だから、致し方ないのだ。それでも改めての話しかけは出来なくても、人間は狭い空間では皆な同じ心理状態におかれる。例えば飛行機の隣席、展望台に立った時、空港の待合室、博物館の入場待ち、遊覧船、小型機の副操縦席の時、操縦士などに何か話しかけたい衝動にかられる。会話にならない会話をやってのける。お互いに笑い合って別れる。文字通りの一期一会(いちごいちえ)。旅のつれづれの楽しさでもあった。アメリカ人、ドイツ人、イタリア人、中国人、南アフリカ人、みんな同じ人間だった実感。
何事も始めの印象は強いものだが、是らの旅行でも、最も強烈に心にインプットされたのは、成田空港から四百人がジェット機上の人となって、アメリカ大陸のシアトル向け、太平洋を無着陸九時間飛ぶのだ。無事故だそうだが、全く不安がないと言えば嘘になる。幸い成層圏は機体のゆれもなく、平穏に飛び続ける。夜中目はバッチリ眠くない。午前零時左前方の空が幽(かす)かに白む。やがて、かつて宇宙飛行士が「宇宙から見た地球は青かった、そして神秘的だった」と仰しゃったが、さもありなんの光景が眼下に展開される。何に例えてよいか苦しむ。強いて想像すれば、薄暗い早朝の、摩周湖を何倍か何十倍したような湖水が、暗濃緑色の広大な森林らしい中に、次から次ぎへと見え隠れする。壮大で壮観、幽げん玄(ゆうげん)の世界と言うのだろうか、生涯に何度も経験できない感動「このまま死んでもいいわ」と最大限の感動詞が妻の口をついて出た。
アメリカ旅行十一日間を書いたら、原稿用紙が七十枚にもなってしまった。
二十世紀前半の文明の片鱗
日本の文明開化は明治初年からと言うが、私の生涯からすれば二十世紀の前後半では隔世の感がある。そのことを見聞の範囲で、一部重複も顧みず辿って見る。
[飛行機] 一九〇三年(私の生まれる七年前)ライト兄弟(自転車修理業の青年)が自作のフライヤー一号、一六馬力のエンジン、高度何米か、距離二五五米を五九秒で飛んだ。人類が大昔からの鳥の様に飛ぶ夢が達成されたと世界が驚いた。
日本では一九一〇年(私の生まれた明治四十三年)徳川大尉が代々木練兵場で初飛行、高度七〇米、飛行時間四分間に成功した。
私がこの目で見たのは、一九二七年(昭和二年九月二十一日)朝、北海タイムス社機が鉄道線路を目安にして、富良野原野の空を飛んで帯広に向かった。その感激の一瞬を祖母に見せたら「えらい世の中になったもんだ、長生きしたお蔭だ」と大喜びした。(二年後に八十一歳で死去)
[電信電話] 一九〇〇年(明治三十三年)鉄道上富良野開駅して間もなくのこと、電報の取扱いを行ったと言う。上富良野郵便局では一九一一年(四十四年)電信電話開通(電報用)トンツートンツー、モールス信号だ。東中郵便局は一九二七年(昭和二年十二月二十一日)電報電話取扱開始。市街地の加入電話は、一九二〇年(大正九年三月三十一日)上富良野郵便局で交換電話取扱開始。(加入者三十二人)
[電灯] 上富良野市街地には一九二〇年(大正九年十二月)電灯がつく。東中市街地では、一九三〇年(昭和五年九月)初の通電。
[ゴム長靴] 一九二一年(大正十年)小学校五年生の時、始めてゴム短靴(澱粉靴)を買った。
[毛糸のジャケツ] 一九二二年(十一年)小学校六年生の時初めて買う。
[学生服] 一九二八年(昭和三年)小学六年生の弟が初めて学生服を着る。
[自動車] 一八八五年(明治十八年)ドイツでガソリン車完成。日本では、一九〇〇年(明治三十三年)フランスから初輸入。私が初めて見たのは一九二三年(大正十二年五月十日)旭川から二台のオープンカーが富良野土功組合の潅漑溝通水式に招いたもの。(走行出来る道路を選びながら来たと言う)上富良野の自動車は、一九二八年(昭和三年六月十四日)上富良野東中間を朝夕二回、赤間次男が営業運転を開始した。幌形のもの、前日十三日が試運転で初見参だった。
トラックは、一九三〇年(昭和五年)山本運送店で初めて購入運転開始。
[ラジオ] 一九二五年(大正十四年七月十二日)東京放送局本放送開始。私は北大病院に入院中、患者にラジオを聴かせると中央講堂に集まった際、放送が偶然にも照宮様誕生のニュースだったのを覚えている。自分でラジオ受信機を買ったのは、昭和十年頃だったかも知れない。
[自転車] 一九二四年(大正十三年)には、村内の自転車八十七台とある。我が家で自転車を買ったのは大正十五年八月、高いと思ったが牛乳配達には、欠かせないと七十五円を奮発した。
[農家の経済] 一九三四年(昭和九年)の村の調査では、一戸当り平均農業収入五百二十七円、負債額は千二十四円、実態がよく現れている。
「註」 西暦二〇〇〇年から記述の年数を引けば、暗算で今から何年前かがすぐわかる。
おわりに
フラノ盆地を囲う高く黒く連なる山並みは、遠望したところ昔も今も似たように見えるが、一歩足を踏み入れてみると、何百年の昔を忍ばせる巨木、大木はその影を潜め、余りにも貧弱な林相に変貌(へんぼう)したことに驚き、かつ悲しみを覚えるのは私一人ではあるまい。
数百年の年輪を刻んだ森は簡単には甦(よみがえ)らない。樹海で知られる富良野の東大演林前林長・高橋延清名誉教授の言葉。国有林も今瀕死の重傷にあると。
森林が炭酸ガスをストックし、酸素を作り、水を蓄えるその能力を、常に最高水準を維持するように人間が手を貸すことが必要である。「林分施業法」と名付けた。要約すると、択伐方式(ぬき伐り)と補植を組み合わせ、針葉樹、広葉樹の混交天然林を天然更新を行いながら、森林が極盛相の直前に達するよう誘導する施業法で、森林の生産力を最大にするものであると言うのだ。この「林分施業法」が世界的に認められて、エジンバラ公賞を受賞された。
ここで思い出すのは、かって石油ショック時代の立役者であった、産油国サウジ・アラビヤのヤマニ石油相が言った、石油は人類にとって掛け替えのない貴重な資源、エネルギーには使うことなく、石油化学製品としてのみ利用すべきであるとの御説。石油大消費国の我々にとっては、誠に耳の痛いお話だ。
今、地球環境汚染が問題になっているが、他方では景気浮揚策の一環として、大量生産大量消費が促されている。私は既に時代に取り残された老人であるが、一言、此処で一歩踏み止まって現状を見詰め、子子、孫孫の遠い将来を見透したものの考え方も必要ではなかろうか。心ある識者は、地球は病んでいる、人類も亦病んでいる、現代人は、今日の幸せだけを追求している。あまりにも近視眼的に過ぎないかと。
地球が何千万、何憶年かけて蓄積した鉱物や化石資源を、地球の歴史からすれば、一瞬にしか当たらない二百年か三百年で使い果たし、まるで人類文明の終焉(しゅうえん)を急いでいるかのようだと。
将来のことを、まま国家の大計は百年云々と言うが、千年の計でも短くて情けない。あらゆる資源は、完全にリサイクルされる循環体系が確立されなければ、人類の永遠の繁栄は約束されない。現実には、やっと方向づけがその緒についたばかりの観がある。
年寄りの繰り言になるが。
明治の開拓地の原始生活時代に生まれ、農家の後継者として成長したのに、数え二十七歳で転職、しかし農業と直接つながる職業に終始出来たことを喜びとしている。三つ子の魂百までものたとえ、百姓根性の抜けない農業人だと思っている。我が国は大昔は瑞穂の国と言った。封建社会の階級観念は、士、農、工、商、ついで富国強兵につながる農本主義。私は地味ではあるが、国の土台になる職業だと、密(ひそか)かに誇りにさえ感じていた。(国としては人口食糧問題が最大の課題とされていた)それが終戦を境にして時代は大転換、自由資本主義の台頭によって、戦後復興や驚異的経済の発展を遂げたのであるが、自由競争の社会は進歩には責献するが、節度がないと弊害も出る。(政治の役割はそこにあるべきと思う)農業はどんな体制下にあっても、食糧不足時代が来ないと浮かばれないのが過去の現実であった。そんな社会は決して正常とは言えないと考える。
農業は自然の大地の上で、作物や家畜を相手に、太陽のエネルギーの恵みと、天気や気候など気象の制約を受けながら、農畜産物と言う果実を得る職業である。そして作物や家畜は、自然科学の原理に基づく技術手段は正直に受け取って、忠実に結果を現してくれる。だから、農業技術は常に真理の追求であり、かつ普通年一回の勝負なのである。
更に狭い国土で高い生産性を望めば、家族を単位とする自立経営が最適で他人に支配されることがない。その上で補完的に大農機具や施設等の共有、利用、或は販売等を行う組織として、部落、農協が発達し文化活動も併せて行って共同社会を形成している。そこでは精神の浄化によって人間性が育まれる。これを田舎気質(いなかかたぎ)と表現しよう。
また少し話は戻るが、食糧増産の至上命令の掛け声から、水稲の減反政策に反転したのは、米が穫(と)れ過ぎたのではなく、食生活の洋風化によって米の消費が減ったためだ。食糧自給率は先進国中最下位、絶対量不足の小麦、大豆、飼料の輸入は当然だが、減反(上富では五割も転作)しながら米余り現象なのに米まで義務的に輸入している現状は、誠に情けないの一言につきる。
「経済は常に拡大し続けなければならない」の考えは、永久不変の真理でも、自然の摂理でもない、ある特定の時代に突出したイデオロギーに過ぎないとの見方もある。私も考える。本来人間は地球上の夫々異なった土地と気候の下で生産されるものを、主食としてきた、小麦、ライ麦、玉萄黍、コーリャン等と。これら穀物に比し水稲は単位面積当りで、生産熱量は最も高く連作にも耐え、地力の減耗(げんもう)少なく、併(しか)も洪水調節の役目を果たす。これこそ狭い国土の日本で最適の作物なのだ。だから米余り対策は単純に減反転作ではなく、消費対策が先決の様に思える。
日本の人口は一億二千万人、自給できるのは五千万人分、これは大変なこととの認識を持ちたい。消費対策の一端として、一案を提起する。戦後食糧難の時粒食にこだわった日本人は、小麦粉から人造米を作り上げたが、逆に米を微粉化してパンの原料にすること位は、産学官が知恵を結集すれば、そんな困難な技ではないと思われるのだが。麺類も同様なことが、純米でなくて混用でも、国益のために。
新農本主義の提唱
元農林省官僚だった竹内直一氏が提唱している新農本主義をかいつまんで紹介したい。先ず原則的なことから。経済活動の究極の目的は、経済財のうちでも消費にある。日本の社会では経済行為は大企業によって行われている。生産も分配も消費も、すべて利潤追求の対象としてのみ行われている。もう一つ重要なことは食糧・農業観。私どもが生きるために一番必要なものは突きつめて考えるとグアムの密林で二十八年も生き延びた横井庄一さんを思えば分かることだ。生命の維持に不可欠のもの、それは空気と水と食べ物の三つで、自動車や電気製品とは意義が異なるのである。一口に経済といっても、食べ物は絶対不可欠財で、並みの経済財とは性質が異なっている。農業も産業の一つではあるが、第二次、第三次産業とは全く違った意義のあることを認識すべきである。更に食べ物は食文化として取り上げるべきで、第一に安全性、第二に栄養、第三に嗜好、第四に経済性の四条件。今の経済は食文化を破壊している、儲け本位の商品としか考えない誤り。仮にメジャーが一ケ月間日本への石油をストップしたら日本の独立はなくなる。全国民の命の糧は絶対自給しなければならない。それには生産者は消費者の協力を得て、新農本主義実現のために立ち上がらなければならない、新総合農民運動として。国は、農業は生産性が低いから仕方がないで片付けているが、工場で大量生産したり、無限に技術で変化に対応できる工業と、自然を相手にする大きな制約のある農業を、同一視することに大きな誤りがある。所得保障するのは当然である。私は百%共感を覚える。
私はこの世に生を享けて九十年。まだ一世紀に満たない年数だ。物心ついた幼い時のことも、五十年前のことも昨日の出来事のように甦える。しかも辛かったこと、若しかったこと、過ぎ去った昔の思い出は、楽しく、懐かしく思われるから不思議なものである。人間の幸福や不幸感は所詮その時々の主観の問題のようだ。
それが理性の世界に立ち帰って考えると、子供の頃の思い出される生活の様相は、おそらく数世紀前と大差ない原始生活、それが今日では、電気、電子、原子の時代、宇宙への時代に。身辺にはテレビ、携帯電話の便利さがあふれるなんて、今昔(こんじゃく)は天国と地獄の違いの有難い世の中。併(しか)も実質的には最近の四半世紀に出現したものだ。夢にも見られなかったことが現(うつつ)になったんだ。手をつねったら痛い、夢でない、長生きできてよかった、仕合わせ者の一人なのだ。それにつけても忘れられないのは、同年輩の人達が戦争の犠牲になったことである。特に敗戦が決定的になった、絶望のドン底で死んで逝った心境を察すると、生きていることが勿体(もったい)なく、申し訳なく心苦しい気持ちになる。
何故人類は戦争の路を避けられないのだろうか。知性に優(すぐ)れ、特有の理性がある人間は、万物の霊長と言い地球の最終の生命として君臨しているのに。
元アメリカの大統領が言った。「文明は戦争を引き起こす。人間が戦争をなくすることが出来るか、それとも戦争が人類を絶滅するか、どちらかだ」と言ったのを思い出す。今や原水爆弾頭が米ソで七千発も保有、地球の全人類を数回繰り返し殺りく出来る量だ。誤った情報に基づいてどこかの国が万一発射のスイッチを押すことがあったら、全人類の滅亡に突き進まないとは限らないのである。
世界平和の願い。くどくて申し訳ないが、繁栄か絶滅かの岐路の様相だ。日本は第二次大戦に於いて言語に絶す犠牲を払って得たものがたった一つあった。それは日本国憲法であると思っている。敗戦廃墟のドン底から、我々は金輪際(こんりんざい)戦争は御免だ。戦争は勝敗に関係なく、人類最大の罪悪であることを悟ったのである。この憲法は世界に向かって不戦を宣言したことにもなる。お陰で憲法施行から五十幾年国民の努力、精励もあって、戦後復興と平和と繁栄を享受することか出来た訳である。しかし、一国だけ考えた平和の手段は他国に対して独善的になる側面のあることも否めない。
全世界一八九ケ国は、地理自然的、資源的に夫々異なった条件下に成立した歴史があり、当然人種、宗教、政治経済体制も規模も異なり、価値観も千差万別、先進後進と国力の格差も大きい。しかし、これらの事を対立として捉えるのではなく、各国は相互に異なるのが当然なことと認め合う、これが平和への基本原則ではなかろうか。
国際連合は、世界の平和と安全維持を目的に、各国の経済、社会、文化、人道上の諸問題について、国際協力を達成するために成立されて今日に至っているが、現状は残念ながら恒久平和には程遠い感じがしてならない。その理由の一つに覇権主義的傾向のある大国が、拒否権行使を盾に主導権を持ったためとも考えられる。これはやはり各国が平等の立場で発言権のある国家民主主義、国家の理性が機能する組織と運営であることが望まれる。
この観点から私は理想的憲法をもち、半世紀に亘り手を汚さない、加えて経済力のある我が国が世界に向かって、世論を喚起するのには最適格で、是非外交の柱に揚げて、恒久平和が二十一世紀中の達成を目標に、その緒(いとぐち)を早急につけたいものだ。
今、文明の進歩とは裏腹に平和が遠ざかる観さえあり、力に依存した一時的な平和から、真の恒久平和と繁栄世界共生の道を探ってほしいと願って止まないものである。
二〇〇〇年稿

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔