郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

ふらの沿線初めての商店
マルイチ幾久屋物語

金子 隆一 昭和十二年三月二日生(六十五歳)


はじめに

今度「かみふらの郷土をさぐる会」の菅野稔会長さんから、平成十二年四月に亡くなった父、金子全一がこの会の初代会長を長く勤めさせていただいたこともあって、沿線で初めての商店マルイチ幾久屋の変遷や、それに関連した郷土のことについて書くように勧められた。
『老人が死ぬことは図書館が消えるようなもの』と言うことばがある。古いことをこの機会に文章に残しておかなければ、永久に忘れられてしまう。
昭和十二年生まれの丑年会(平山寛会長)が四十二歳の厄年(一九七九年)の記念に「かみふ物語」というタイトルで上富良野の昔のことを記録した本を出版した。私も同期として、沿線初めての店マルイチ幾久屋について書いた一人である。父は「かみふ物語」を見て「大変良い事だ」と言ってくれ、有志の皆さんに諮って、この「郷土をさぐる会」が始まったのである。この昭和十二年丑年会には、当時熱意をもって編集に当たった中村有秀氏、野尻巳知雄氏もいて、この趣意を引き継いで「郷土をさぐる会」でも活躍されている。
父は初代会長に選ばれたが、この活動を長く続けて行くための資金的な事も考え、会員の皆さんと相談しながら今日の会員制、賛助会員制のシステムを作った。毎年一冊の発刊を基本に郷土の歴史を語り継ぐ事業を展開して、今日の役員の方々に引き継いで来たが、今回第二十号を発刊するに当たっては、草葉の陰で亡き父もさぞかし喜んでいることだろう。
さて、亡父や亡祖母から聞いた当町の昔の開拓の頃の様子、マルイチ幾久屋にまつわる話などを、この際記録しておかなければ、関係した人達や子孫に忘れられてしまうと考え、手前みそになり、また少し脱線あする事もあることをお許しいただいて、敢えて詳しく述べることにした。
初代庫三の生い立ち
「幾久屋」は岩手県日詰(現在の柴波町日詰)で代々南部藩の御用商人を勤めていた。当店(上富良野町)の初代庫三は「幾久屋」七代目・七郎兵衛とカツ夫妻の十人兄妹の四番目に生まれ、旧名は忠四郎(後に庫三に改名)と言った。
当時の「幾久屋」は、石造倉庫が《いろは》と数えて《と》まで七棟あり、子ども一人ずつに乳母と子守りがつけられて育ったと言う。しかし、南部藩が幕府側だった事もあって、明治維新後「幾久屋」の経営は苦しくなり、明治二十三年ついに倒産の憂き目に合った。
近所の人達から『貧乏人のツラッコ見てやれ!』と馬鹿にされた忠四郎は、十六歳の時一度横浜へ家出したが連れ戻され、母の実家で働いた。その後二年間で貯めた五円の貯金を懐にして、今度は北海道へ家出したのである。
函館まで来たところでお金がなくなり、駅長に相談したところ、『岩内がニシン漁で沸いているからそこへ行くと良い』と教えられた。折りしも春のニシン漁の最中ですぐに仕事は見つかったが、ニシンのモッコを背負って歩きながら握り飯を食べ、昼も夜も働きづめという毎日であった。
これでは身体がもたないと思い、一ケ月はど働いたお金を懐に、旭川へ出て「花輪商店」に雇ってもらった。忠四郎は何とか幾久屋を再興したいとの志に燃え、骨身を惜しまず働いたので、その働きぶりを見た雇用主にかえってあやしまれた程だったと言う。
忠四郎は、花輪商店で四年間働いている内に、富良野村(今の上富良野町の前身)の殖民地が開放され、開拓に入植した人達が『米、味噌などの日用品を売る店をやってくれる人を探している』という話を耳にした。
当時草分地区に入植した三重団体の人達は、鬱蒼とした原始林を切り開き、開墾に日夜精を出していたが、日常生活に必要な米、味噌、塩などの生活物資は、原始林の中に出来た細い獣道(けものみち)を熊に警戒しながら、何人かの男達で旭川まで買い出しに行かなければならなかった。その間、働き手の男達が一泊しなければ帰られなかったので、家族は大変困っていた。
掘立小屋での開業
明治三十一年六月十九日、二十二歳の忠四郎は国許の父から五十円、次兄の富二郎から五十円を借り、三重団体山崎兵次郎貸付地内(今の草分防災センター近くの橋のたもと近く)に間口二間、奥行三間の掘立小屋を作り、富良野沿線で初めての商店「幾久屋」を開業したのである。
商品は、駄馬を曳いて四十キロの道を旭川まで夜中をかけて仕入れした。最初は米、味噌、薬などであったが、次は農機具、金物のほかお客様の希望するものは衣料品でも何でも仕入れしてきたと言う。
男一人なので、洗濯は川の中に棒を立てて水の流れを利用した自然洗濯だった。しかし、冬は筵(むしろ)の戸だったので、マイナス四十度という当時の寒さは大変だったと思う。
翌年三月、旭川富良野間に鉄道が敷かれる事になった。駅の予定地が今のダイイチスーパー付近と言う事だったので、錦町のマルイチ十字街に土地を求めて店を出したが、実際に駅が出来たのは少しずれて現在の所になったのである。
忠四郎から庫三に改名
忠四郎は、新しい住まいの建築とともに明治三十八年に高畠利貞(後のマルイチ薬局)の次女他実喜を妻に迎えたが、子どもを産んで間もなく妻は病死し、忠四郎は赤ん坊を育てながらの仕事であった。
天秤棒の前寵に子どもを入れ、後寵に荷物を入れて行商を続けた。しかし子育てと商売の両立は大変で、亡妻の妹トミと再婚することとなった。先妻の子長太郎は病死したことから、忠四郎の四=死を嫌ってか名前を庫三に改名した。
その後、後妻のトミとの間に私の父の全一、トヨ、元三、公子の四人の子どもが出来た。トヨは婿に小二郎を迎え、精米所を任せた。(両人とも故人である)元三は東京第一高等学校(旧制一高)から北大へ進み、北大理学部教授になった。北大では高分子学科を新設し後継者を育てた功績により、平成十二年に勲三等旭日中授章の叙勲を受けた。平成十三年十二月に故人となった。公子は旭川の小泉木材の小泉渉と結婚し一男二女を儲けたが、渉は五十二歳で死亡した。彼は早くから深山峠の観光開発を提唱し、自ら今の中川ドライブイン前の高台に水飲み場を作り町に寄贈した。今は高台の土は削られて平地となり、ベンチも水飲み場も壊され何も残っていない。
岩手県の「幾久屋」
さて、岩手県日詰の「幾久屋」は明治九年と十四年の二度、明治天皇がお泊まりいただく栄誉に浴した。「幾久屋」の敷地の一部を町に寄付し、小公園が作られ、今でも日詰のその場所に「明治天皇行幸の地」の碑が建てられてある。
「幾久屋」の倒産後、岩手県出身の古河電工の創業者古河市兵衛が、見込みのある同郷の若者に奨学資金を出して援助した。庫三の兄弟もその恩恵にあずかり、大学まで行く事が出来た。
長男伝蔵は早大中退後、日詰の町長に、次男富二郎は検事正、三男庄三郎は隣町の石鳥谷町の関家へ婿入りした。その長男栄一は後に石鳥谷町長になった。彼は雫石川の水利を具体化する有名な「鹿妻堰」を完成させた功績により、四十二歳の現職で死亡した時、国からも表彰され町葬をもって送られた。その息子の鋼次郎は茨城大学教授の時、是非にと頼まれ親子で石鳥谷町長を引き受け、町の発展に功績をあげた。五男の勇五郎は三十三歳で早世し、その娘のヒサは庫三が引き取って婿浩三と結婚させ、マルイチ幾久屋金物店をもたせている。六男は幼死し、七番目の長女シメは南部の豪商、鍵屋の村井源七に嫁いだ。
明治政府最大の疑獄事件と言われた時の大蔵大臣、井上馨が鍵屋の経営する尾去澤(おさりざわ)鉱山を不法に取り上げた件について、源七の父茂兵衛(後に直三郎と改名)は訴えつづけた。時の司法大臣江藤新平が訴えを聞き、不正を確認して井上馨を逮捕すべく時の参議々会(後の帝国議会)に諮ったが、薩長(さっちょう)出身で占める議会の同意を得られず、唯一人、佐賀藩出身の江藤新平自身が司法省を去らざるを得なくなった。茂兵衛は苦悩のあまり病にかかり没する。この裁判の費用でさしもの鍵屋の財もすっかり無くなってしまった。(この間の出来事については、司馬遼太郎の小説「歳月」に書かれているほか、盛岡市の岩手日報の日曜版では「鍵屋茂兵衛物語」が連載中である)八番目の利八郎は古河の奨学金で一橋大学を出て会計士(後に独自の会計理論を立てた)になった。その学識と清廉な人柄を買われて、岩手県公安委員長に就任した。九番目の次女おみやは東京女子高等師範学校(現在のお茶ノ水女子大)を卒業し、後に海軍中将藤吉俊へ嫁いだ。十番目の永十郎は東大冶金科を卒業し、三十代の若さで古河鉱業の足尾銅山所長に就任している。永十郎の妻トヨは学習院の国語の先生で、「主婦の友」にお習字が毎月出ていた。高松の宮妃殿下は教え子である。学校に行かなかったのは、家出した庫三だけである。
日詰の「幾久屋」の氏神は坂下稲荷で、初代七郎兵衛が家運の隆盛を願って京都の坂下稲荷神社の分霊をいただき、幾久屋の敷地内に祭っていたが、明治の初め日詰の志賀理和神社(通称赤石神社)の境内に移された。春の入学シーズンになると幾久屋一族にあやかれるようにと、今でもお参りの人達が絶えないと言う。
さらに付け加えると「幾久屋」は刀鍛冶で有名な、関の孫六兼元(金子孫六)が総本家で、関市で現在二十七代目孫六さんが刀を作っている。六代目の子どもが京都で商いで成功し、北前船で東北へ来て日詰と八戸に定着したのが、南部の「幾久屋」のルーツである。私は二〜三年に一度は関市の梅竜寺にある総本家の金子家の墓参りをする。この孫六の家も、むかし刀鍛冶だけで食べて行けない時、「幾久屋」の商号で米の仲買いをした事が記録にも残っている。
先人の苦労
さて当時の上富良野の農家の人達は、開拓で大変な苦労をして居られたと言う。以前、旭野の故林財二さんからお聞きした話だが、子ども達も栄養失調で、自分はまっすぐに歩いているつもりでも、農道を蛇行しながら歩いていたと言う。
冬は現金収入を得るために冬山造材に出た。少しでも有利な足場を確保するために、朝四時頃から馬を連れて山に入った。夜は暗くなって家へ戻るとまず馬の手入れ、寝るのは早くても十時頃だった。当時は今より寒く、マイナス四十度近くにもなる日もあって、寒さの中での造材作業は厳しく、防寒具も当然粗末なものであったろう。昼は飯金(はんごう 軍隊の大きな弁当箱)に腹いっぱいの飯を食べたが、ビタミンBの不足で、脚気と過労から、多い時は一冬に七人も八人も亡くなったと言う。家の周りは鬱蒼とした見通しのきかない原始林で、林財二さんが東方に十勝岳連峰があるのがわかったのは、明治三十八年に入植して二年も経った頃だとか。
そんな中での商売だから朝早くから夜遅くまで店を開け、行商に歩き、初代の庫三は開拓の人達と同じ苦労をしたと思われる。先人の人達には頭の下がる思いである。
商いの発展
マルイチ幾久屋は、第一次世界大戦頃の好景気に米を扱って財をなした。大正初期の好景気には水田農家より畑作農家が良く、特に豆成金と言われた人達が連日のように、駅前の割烹「のんきや」などに入り浸りだったと言う。
庫三は、東北のおいしい米を小樽で船ごと買い付け、かますの俵に詰めて当時米の出来ない帯広や釧路方面に出荷した。今のこしひかり級のおいしいお米で、その俵には何百俵に一個くらいの割合で金杯を入れた。多分メッキのものだったのだろうが、それが大変な人気だった。「特マルイチ選」とかますに朱書きしたマルイチ特選米は帯広方面で人気をとった。有名な帯広の六花亭の菓子「らんらん納豆」はその名残だ。今はその本来の意味も忘れられ「特@選」とマルイチの字が縦書きで記されている。
庫三は、その頃から貸し売りをしない現金正札販売主義を掲げた。当時は秋払いが一般的で、値段も買う人が店員にいかに上手に交渉して安くまけさせるかが常識のような時代だった。だが、この方針は商売に新しい道をつける思い切った決断だったと思う。幾寅や占冠の衣料品店へ卸業もしていたと言うから、本州や小樽の問屋から安く大量に仕入れていたのだと思う。今は珍しくもない定価販売だが、当時のお客様に理解していただく為に、店の屋根に「呉服反物買う時は」の問いに対して「マルイチ幾久屋呉服店が現金正札で安心して買えるからよろしい」と言う意味の文章を黒板に書き、先生が指差して生徒が並んで答えている絵が大きく描いてあった。それを字を覚えたばかりの小学生が学校の行き帰りに声を出して読んでいた。きっと、お客様に理解していただく良い宣伝効果になったのではないだろうか。
米の販売で大きく利益が出て、神社や公会堂にもたくさんの寄付をしたり、沿線で初めての手押しの消防ポンプなども村へ寄付している。
庫三はほかにもいろいろな事業を手掛けたが、その中の一つに酒造りをやろうとしていた。旭川で日本酒造りを計画し、酒を造る杜氏(とうじ)を秋田から呼び寄せ、樽の設計図まで書いたが、自分は酒好きだからこれ以上酒を飲んでは早死にすると思い、計画を中止したと言う。旭川の男山酒造もまだ無い頃であった。
彼はまた、将来は社会主義の時代が来るからお金を残してもだめになるだろうとも言っていた。これは果たしてどうかは解らないが、庫三は現金問屋をやるべく、上富良野の事業は婿の小二郎にまかせて、長男の全一に旭川に出て現金問屋をやるように勧めたが、妻のトミが『全一はそんな商才はないから』と言って止めたと言う。
終戦後、旭川で現金問屋が次々に出来た。東栄、山室、湯浅などはこの現金問屋で大きくなった会社である。今までは問屋の仁義で、一町村に一軒しか卸をしないと言うのが一般的だったが、現金問屋はどこの店にも卸し販売すると言うのが特徴である。
大阪の大西衣料、名古屋のヤギヒョーなども戦後大きくなった現金問屋で、今の安売り店はみんなこんな所から仕入れをして来ている。
庫三は情に厚く、新聞で可哀相な人の話などを知ると、すぐお金を送ったりする所もある人だった。
しかし「人の保証は親子でもしてはいけない」と言うのが「幾久屋」の代々の決まりである。大正十五年の十勝岳大爆発で村は復興の為に国から多額の借金をした。当時の村の有力者は国に対し連帯保証をしたが、庫三は「幾久屋」代々の家訓にしたがい保証のハンを押すかわりに、明憲寺付近から旧江花小学校の近くまでの何十町歩もの小作の畑を、村へ全部寄付している。今はマルイチ山と西町三丁目の元ラベンダー畑だった所が、戦時中畑づくりをしていて農地法で没収されないで残っているだけである。
明治三十六年に下富良野(今の富良野市)が分村し、大正六年に中富良野が分村するが、その間、マルイチ幾久屋はマルイチ十字街を中心に、今の総合スーパーのように小規模ながら何でも扱っている商店になった。
米に関して言えば、明治四十二年頃、今の光町一丁目当たりに水車の精米工場を造った。十五基ほどあった水車が昼夜兼行で働いて、麦や島津地区で採れる米を海江田信哉さん(島津農場管理人)から一手に分けてもらった分と、内地から仕入れた玄米を搗いていた。大正五年には今の山崎歯科の所に、木炭ガスの動力による外国製の精米工場を建設した。
初売り風景
正月の二日の初売りは、朝の三時すぎから外で焚き火や振る舞い酒を出して、待っているお客様をもてなした。朝の暗いうちから戸をドンドンと叩いて『開けろ!開けろー・』と怒鳴られることもあって、六時前には店を開けた。電灯がついたのが大正九年十二月だったから、それまではランプの暗い明かりの中、お客様が殺到した。店の奥には火鉢が長いカウンターにはめ込まれて並んでいて、お客様には番頭さんが相手をし、小僧が倉庫の中から商品をいちいち運んで来るという販売だったが、人の並みに押されて火鉢近くの人は『死ぬう!死ぬう!』と大騒ぎであった。夜中かけて馬橇で一家が買い物に来る初売りは、町中の人の楽しみであったのであろう。
0幾久屋雑貨店には米、酒、塩、砂糖、いりこ、身欠きにしん、塩シャケ、寒タラ、昆布ようなものから、農機具、縄、筵(むしろ)に至るまで何でも販売していた。一方衣料品は簡単で木綿縞、ネル、染め絣、裏毛メリヤス、木綿糸、綿などで、毛糸や毛糸製品は大正の終わり頃にようやく店に並ぶようになったくらいで、ファッションとか流行などと言うことは想像もつかない話であった。
綿も一個一貫目(約四s)品を一度に十二個の梱包のまま、馬橇につんで買っていく人が多かった。
しかし、当時は家も寒かったのと、親戚などが来て泊まっていくのに、布団をたくさん用意することが、その家のかまどの良さのように思われていたので、少しでも余裕が出来ると、客用の布団を作ったものである。掛け布団に二貫〜二貫五百匁、敷き布団でも二貫目くらい入れたので、本当に重い布団だった。今様の羽毛とか羊毛布団だと『軽くて着ている気がしない』と言って、『丸太でも上に乗せてくれ!』と言う冗談も、今では信じられない話である。
木綿糸は女の人が冬の間自分で着物や作業衣、足袋の継ぎ、雑巾縫いなどに使うので、一束四・五sのものを一人で買っていくのが普通だった。そんな中でも貧しい家では、大晦日に除夜の鐘が鳴ってからもち米を買いに来て、それから餅を搗(つ)いて正月を迎える人も居たと言う。買物はすべて家の主人が財布を握っているので、女の人はいちいち主人に伺って買物をしていた。当時はそれが当たり前の習慣だったのである。
マルイチ十字街界隈
春の雪解け頃は、積もった雪で道路は家の軒先より高くなり、冬中に重なった馬糞が解けて、ツルツルの道に黄色い水が流れていた。そんな中、春を待つ人達が農作業用品を買いに来たものである。日曜日も関係なく、一年中で休みはお盆、正月、神社祭典、それに毎年六月十五日と決まっていた上富良野尋常高等小学校の運動会であった。特に上富良野神社のお祭りは、母村にふさわしい盛大なもので近隣の人達も大勢集まってきた。
一昨年(平成十三年)取り壊したマルイチ薬局とその裏手付近は、広く空き地になっていて、そこにサーカスや見世物小屋が出たものである。終戦直後はどこも食糧が乏しく、食糧を求めて国内でも有数の「木暮サーカス」もやって来た。団員の人達が生のたまねぎを食べながら歩いていた姿や、夜中にライオンの吼える声が恐ろしかったことは、当時小学校低学年であった私の頭に今でも焼きついている。
大正の初めは電気の無い中、アーク灯の明かりでたくさんの夜店が並び、遠くから来た人の中には、マルイチ幾久屋の横で野宿して祭りを楽しんでいる人達も居たと言う。
店の商売も忙しく活気があった。店員さんはみんな男で、ほとんどが岩手県から来て全部住み込みで働いていた。精米部や雑貨店の人達も一緒にご飯を食べるので、一回三十sの米を三度三度、五右衛門風呂のような大釜で炊いたものである。途中で大きなヘラで上と下のご飯をひっくり返さなければ、メッコ飯になる程であった。女中さんも五〜六人住み込んでいて、ご飯の支度に大騒ぎであった。
おかずは漬物、塩ニシンの干物、塩シャケ、野菜の煮付けのようなものだったと思うが、東北の岩手の人達は漬物が大好きで、麦飯の上に漬物を山盛りにして食べていた。
庫三は旭川で働いていた時の苦労を思い、従業員には「麦飯でも腹いっぱい食べさせたい」と言う方針だった。だから漬物は大きな樽に何十本も漬け、裏の井戸の所に馬車で運んできた大根の山を、女中さん達が洗っていた姿や、造味噌を三十pくらいの丸い筒のようにして、ムシロに並べていた事などは、私の小さな頃も続いていた。これらの風景が懐かしく目に浮かんで来る。春のニシンの頃に箱でたくさん買ったニシンを、塩ぬか漬けや身欠きニシンなどに自家加工していて、一面のムシロの上に並べた数の子をよくつまんで食べたものである。
商魂真髄
庫三は大まかなようでいて、金銭の出入りは細かなところまできちんとしていた。家計簿は大福帳のようなものに出入りを何銭、何厘の果てまで記帳しており、その金銭出納帳の一部はわが家に今も保管して、庫三の苦労を偲んでいる。
註 明治四十五年の出納帳にマルイチ幾久屋の家訓として、表紙の裏に東照宮の語遺訓が記されている。
「人ノ一生ハ重荷ヲ負フテ遠キ道ヲ行クカ如シ急クベカラズ
不自由ヲ常卜思ヘバ不足ナシ
心ニ望起ラバ困窮シタル時ヲ思へ出スべシ
堪忍ハ無事長久ノ基 怒ハ敵卜思へ
勝ツコトバカリヲ知リテ負クルコト知ラザレバ
害其ノ身二至ル
我レヲ責メテ人ヲ責ムルナ
及バザルハ過ギタルニ勝レリ
                           金子庫三謹書」
庫三のこの厳しさは、母親カツの教育によるところであったと思われる。カツは剛毅(ごうき)な性格で世間から女傑と評されていた。酔った勢いで日詰の幾久屋を訪れた客も、カツが顔を出すと酔いも冷めて退散した。頭脳も明晰で子ども達に対しても母の甘さを示さなかった。子供達が盛岡市へ出かける時も馬車に乗る事は許さず、四里・十六qの道を歩かせたり、小遣を与える場合でも唯与えるのではなく、必ず『その分は働け!』と広い屋敷の草取りや掃除をさせてから小銭を与えた。
弟の八男利八郎が一橋大学を卒業して古河鉱業に就職が決まった時、北海道で成功した兄の庫三に『今履いているボロ靴では格好が悪いから就職祝いに新しい靴を買ってほしい』と頼んで来たが、母カツの教育を受け継いだ庫三は『新米者は新品の靴を履く必要は無い、月給をもらってから自分で買えば良い』と断ったと言う。
こんなエピソードもある。後に日詰の町長になった兄の長男伝蔵は、碁は二段、将棋は三段の腕前であった。ある時近くの将棋自慢の男が来て戦いを挑んだが、何度やっても負けてしまい悔し紛れに『この野郎・糞食らえ!』と叫んだ。これを見ていた庫三は、黄色いウンチを竹の棒の先につけて持って行き『さあどうぞ、おあげんせ』と差し出すと、さすがの男も鼻をつまんで逃げ出したと言う。庫三にはこんなユーモアと負けん気の強い人間だったことが理解できる。
しかし「幾久屋」の再興を一番喜んでもらう母親のカツが亡くなってからは、すっかり気落ちしてしまい、晩年は事務所で新聞を読んでボンヤリしている時が多かったと言う。昭和八年庫三は肺がんのために五十八歳で亡くなった。
マルイチ十字街の成立
戦後農地改革の名のもとに小作の地は全て失ったが、後に農地以外の目的で使用していた分として、僅かではあったが国が小額ながらお金を払ってくれた土地もあった。小樽や札幌などの学校用地になった所や、札樽道の高速道路にかかった所などである。中でも大きなものとして、東京の浦和市に三千坪の土地があったが、今は坪百万円以上もする場所なので、農地法で没収されなければ大きな資産になっていたと思う。
父全一は小樽高商(今の小樽商大)を卒業後、大阪のメリヤス問屋へ修業に出された。毎日自転車で大阪の街を駈け回って働いたが、庫三の病気で三年程で帰省した。不景気がはじまった昭和八年、庫三の亡くなる少し前に会社組織にして、各部はそれぞれマルイチ幾久屋呉服店、マルイチ幾久屋金物店、マルイチ幾久屋雑貨店、マルイチ幾久屋精米場と独立法人に分社した。
株式の半分は本家の全一が持っていたが、後にすべて放棄してそれぞれの店のものになった。祖母のトミは高畠家から嫁して来ていたので、角の土地は高畠家に贈与し、マルイチ薬局として後に移転してきたが、平成十三年に建物を取り壊し廃業した。ちなみにマルイチ幾久屋雑貨店は、庫三の父七郎兵衛の弟、謹三の娘ふく、つまり、庫三の従妹を後妻のトミの兄高畠龍郎と一緒にさせて店を任せたのである。その孫の一誠(かずしげ)が現在「ローソン」に店名を改めて、妻のくに子さんと経営に当たっている。
全一の妹トヨの娘婿小二郎にまかせたマルイチ幾久屋精米場は、昭和五十六年に旭川へ転出し、現在跡地は山崎歯科医院になっている。
その横の倉庫は上富良野で初めてのコンクリート造りで、庫三が本で勉強し遠藤工務店の先代(藤吉)を指揮して建設したものである。村の会合の帰りに羽織袴のままで、砂ほこりだらけになって、工事現場で指図していたと言う。米が湿気らない最高の倉庫として、当時の国の食糧庁からお墨付きを得たものであった。ちなみに錦町二丁目に残っている石蔵は、それより先の大正三年に建てられた。外壁は美瑛軟石を使用、内部は太い木材を使っている。入り口の重い土造りの戸は破損がひどいが、富良野沿線で現存する一番古い石蔵になった。
当時の市街地は少し掘っただけで湧水し、地盤は極端に悪かった。その後昭和二十八年頃から道路や側溝工事が進んで地下水位が下がっていったが、当時の基礎工事にはヨイトマケの「もんきつき」を充分やったが、庫三は水はけを良くする為に細い素焼きの土管を何十本も埋めて、今の「ピックアップル」の横の川まで暗渠した。当時はフラノ川まで家はなかった。その後道路工事でその土管が壊されると、倉庫は凍上で壁にひびが入ってしまったのは残念だったが、それ以上に、何十年も前にその手当てを既にやってあった先代庫三の深い考えにいまさらながら頭が下がる。
マルイチ幾久屋二代目へ
全一は二代目社長に就任したが、古い番頭が総てを仕切っていて、自分のする仕事もなかった為か、三十代で村会議員になるなど、その後は村の公職に次々と就いた。(詳しくは後掲の尾岸町長の弔辞を参照)
戦争が激しくなり、物資も統制経済で不足し手に入らなくなった。番頭さん達も次々に召集になり、ついに全一も昭和十九年に二等兵(現在の二等陸士)で北支那(中国北部)へ出征した。軍隊では小樽高商を出ているのだからと士官の道を勧められた。だが、将校になったら家に帰られなくなると思い、ひたすら上官に殴られながらポツダム上等兵(現在の一等陸士で終戦の時皆一階級上がった)になった。
軍隊の話では、庫三の兄富二郎の子、金子定一は陸軍少将で後に衆議院議員になった。右翼のボスと言われた男で、彼が金沢の部隊にいた時、久保儀之さんの父茂儀さんも金沢の部隊に居て、彼が上富良野出身と知って新婚間もない一兵卒の彼が連隊長に呼ばれ、声を掛けられ緊張したことを、今でもお母さんの美音さんは話しておられる。
留守を守った母の須美(旧名乙女)は、奈良県十津川出身の父深山竹松(七代目の医者の家系を継ぎ、名寄市で開業)の男三人女五人の末娘である。その内男三人女二人が医者になった。母の次姉で女医になった桜庭シゲさんは、疎開で終戦間近に室蘭から一家で上富良野に来て、やまぜん呉服店の一部をお借りして病院を開院していた。終戦後室蘭に戻って産婦人科を続けていたが、数年前故人となり長男衛(まもる)が勤務医で札幌に住んでいる。長女の原田フジノ伯母は、画家で有名な上野山清貢(うえのやませいこう)氏と結婚し、先妻の子二人を育てて苦労した。彼は第五回帝展(現在の日展)から続けて入選し、昭和五年帝展の審査員になった。昭和十年、昭和天皇に絵を二点献上している。生活が苦しかった時持ち込まれた彼の絵が、名寄の深山の家に沢山ある。芸術家にありがちな艶福家で、彼は後に森田タマさんとも結婚している。
フジノ伯母は、文部省勤務で後に東京外語大客員教授になった原田祐四郎さんと再婚し、二男二女を儲けた。長男麟一さんはフルート奏者、長女あつ子さんは俳優座に所属し、最後まで親を看取った次男伊佐夫さんの妻律子さんは、日本舞踊の名取りなど皆芸術一家だった。その伯母も数年前九十歳で波乱の生涯に幕を閉じた。
弟の深山和圀叔父さんは、医師のまま道議会議員を五期つとめて数年前故人となった。長男の明義は九代目の医者として、函館で開院している。
母は嫁に来て慣れない商家の生活と父全一の出征、六歳の私を頭に生まれたばかりの双子の弟妹を抱えてさぞ大変だったろうと思う。終戦で無事全一が帰還するまでの三年間は、マルイチ幾久屋も店を閉めて休業していた。子ども四人を育て食べさせる為に、祖母トミと母は慣れない畑仕事をして凌いでいたのである。その当時のことを母は『落ちぶれて知る人の情け』と今でも言っている。
お世話になった人々
女世帯で留守を守っていた頃、父全一が戦死したと言う噂が流れた事があった。マルイチ幾久屋が盛んな時に出入りしていた人達の中で、手のひらを返したような態度になる人が多い時、変わらぬお付き合いをしてくれた人達もいた。東中の故上田勘七さんと息子の良夫さんや、江花の故佐々木源次郎さんなどである。困った時に親身な交友を続け助けて下さったその人方には、母は今もその恩を忘れず親しくお付き合いをさせていただいている。
上田勘七さんは店を再開した後、娘四人(ミエ子、君子、豊子、倉子)が中学を卒業するとすぐに『マルイチ学校で修行させる』と言われて、皆さん嫁に行くまでの六〜七年間、住み込みで働いて下さった。皆さんは頭の良い人達で、その後札幌に行かれた長女のミエ子さんの長男は、北大農学部の大学院の教授をして居られるし、ご主人の松井武雄さんとミエ子さんは、二百組以上の縁組をまとめ、知事表彰、全道農業会会長表彰、そして国からの紺綬褒章まで受けられている。
江花の佐々木源次郎さんは『困っている奥さんを助けてやれ!』と言って、空襲の心配のあった市街に娘のサクさんを残して下さった。この親の言葉もあって、彼女は出征した婚約者を待ちながら無給で働いてくれた。彼女は七年待って、シベリヤから帰還した萩原清秋氏とめでたく結婚した。現在は娘夫妻と自衛官になった孫二人に囲まれ幸せに暮らして居り、そんなサクさんとは、母は今でも親子のように親戚付き合いをさせていただいている。
もう一人忘れられない人の後藤くに子さん(現在は松田くに子)は今、旭川に住んでいる。彼女も商売上手な人で、結婚するまで一生懸命に全一が留守の幾久屋を守ってくれた。「統制経済になる」とラジオが伝えた夜、大番頭の小野寺さんが夜行列車を乗り継いで小樽の問屋から大量の商品を仕入れた。その商品が庫の中に山積みになっていたが、さしもの商品も統制経済のため、ほとんど売れてしまい、帽子ばかりが沢山残ってしまった。彼女は『二個買って手提げ袋を作ったらいいよ!』などと上手に勧めて、最後には一品も無くなって店を閉めた。
戦後の窮乏生活
その後、明憲寺横の畑で母、祖母、父の妹の公子叔母、六歳になった長男の私で、慣れない畑仕事が始まった。お米は、東中の上田勘七さんにお願いして、五反ほどの水田の耕作をしていただき手当てした。祖母の才覚のお陰で食糧不足の中、我々も飢えを凌ぐ事が出来た。当時の人は皆そうだったが、食べるものに不自由し、私も腹がへってこの草は食べられるとか、友達と他所の畑のニンジンや大根を無断で土のついたまま食べたが、ニンジンの甘くておいしかったことは、今でも忘れられない。
海江田さんのリンゴを盗んでつかまり、許されて泣きながら帰る私を追いかけて来て、そっとリンゴをポケットに入れてくれた事は、六十年近くも昔の事だが今でも嬉しかったことを思い出す。家計の足しに小学生ながら兎を飼っていた。昔の有我古物商に一羽十円くらいで買ってもらった。ある日、私達一家が昼食に味も何も無いトウキビの粉の団子を食べていた時、訪ねてきた近所のおじさんが『美味そうだな!』と言って一口食べ、『まずい!』と言ってペツペツと台所の土間に吐き出した。こちらは『昼食としてみんなで食べているのに馬鹿にして!』と子ども心にも腹がたち、その屈辱感は何十年経った今でも忘れられない。
店は閉めていたが、半分を商業協同組合に貸し、そこが配給所になっていた。又その中の一部は食糧営団と言って、いずれも統制経済の中、各戸に割り当てで配られる切符で、品物や食糧を配給する所である。
終戦直後の昭和二十年の秋、徴用で朝鮮から強制的に連れて来られて、芦別の炭鉱で働かされていた朝鮮の人達三十人程が汽車で来て、衣料品や食糧のあるこの食糧営団になだれ込んで来た。既に故人となった小林呉服店の小林博さんと、今の遠藤工務店の会長夫人の遠藤みえ子さんが、若い身でありながらその人達を相手に交渉に立った。敗戦直後の事で有り、今まで朝鮮の人達にひどい事をして来た日本人として、どんな復讐の仕打ちを受けるかと、恐ろしがってみんな逃げ出した中で、商品や食糧は持って行かれたが、彼女の勇気を後で知った人達は、皆感心したものである。
父の復員から再興へ
昭和二十一年の秋、父全一が無事帰還した。しかし、復員直後は栄養失調もあってか、ぼんやりしてすっかり無気力になり、『農家でもしよう』と言っていた。その頃、昔小樽で取り引きのあった「戸出物産」の出張員が来て、『農家なんか金子さんに向かない。商売を再開しなさい』と強く勧められた。また東京の、やはり以前に商売で出張員で来ていて、帽子の問屋を興し、成功した池田喬さんからも『商品を流してあげるから』と再興を勧められた。そんなことから新円封鎖で、今までの財産であったお金は一切使えず、泣く泣く売った土地のわずかな資本を元手に商売を再開した。店の半分は商業協同組合に貸したままで、残りの半分で店を開いた。当初は衣料に限らず仕入れ出来るものは何でも販売した。
そんな中、湯たんぽを販売したがこれが粗悪品で、一晩でへこんでしまい、お客様から苦情が来た。しかし、返金する金も無く、お客様は怒って『これを電柱にぶら下げて宣伝してやる!』と言って帰られた事があったが、申し訳なく思い出している。
その後、段々と商売は盛んになり、私も時々父と旭川の問屋へ行き、一反風呂敷に仕入れた商品を背負って帰る事もあった。しばらくして商業協同組合にも出てもらい、全部を店に使えるようになった。後に旭川の小泉家へ嫁した公子叔母と私が、毎朝店から倉庫への広い板の間の拭き掃除が日課であった。店は祖母と母と女子社員で、全一はその頃から町の公職に就き、忙しく出るようになった。
その後、中学を出て直ぐの山本保さんが、名寄から初めての男子社員として入社した。彼は私が家へ戻る昭和三十七年まで十一年間働いて下さった。商才のある人で、現在「北海道を飲む」と云うブランドでヨーグルトを東京、大阪の大手デパート・スーパーヘ卸しをして活躍しておられる。
商売の修行
私の弟妹は、長女の泰子は藤短大を出て苫小牧の潟Cワクラの取締役をしていた尻江元興へ嫁ぎ、次女の矩子は共立女子大英文科を出て仙台の医師伊澤潔へ嫁いでいる。次男の尚史は学習院大学を卒業し苫小牧の前田敏江と結婚し住友スリーエムで部長職勤務。皆商人と違う道を歩んでいる。
私は富良野高の入学式で宣誓文を読ませていただき、二年生の春、旭川東高へ転校して北大経済学部に入学した。学生時代、旭川の大町一丁目に朝倉さんと言う方が居て、所有していた狸小路の土地の一部を金市館(現在合併してラルズになった)の本店に売却した関係で、朝倉さんの紹介で春休み、夏休みに金市館でアルバイトをした。大学を卒業と同時に加藤良雄社長にお願いして、そのまま金市館に入社させていただいた。月給は七千円で退職まで変わらなかった。その代わり、自分の希望する売り場を三ケ月くらい毎に移動させてもらい勉強した。旭川駅前支店(今のワシントンホテルの場所)の開店手伝いにも行ったが、それを機会に社長にお願いして支店開設の企画からやらせてもらった。
釧路支店開設では、人口と衣料消費指数などから予測して、十二月開店月売上予算を四千五百万円と設定し、そこから在庫や経費、社員数などを割り出した。しかし残念な事に現場の支店長、主任が各々勝手に仕入れして、当初、在庫を予算の三倍でスタートした。実際の売上は四千五百五十万円だったから、予測は完全だったが、当初の過剰在庫が重荷になり、三ケ月ほど過ぎて社長命令によって、人員整理をさせられた。その間に私の作った売上予測の計算方法や、値札包装紙の発注先などを書いた「支店開設の手引き」はその後もずっと使われていた。春浅い釧路の夜の駅を誰の見送りもなく淋しく離れた。
支店長時代
しかし本店に戻ると社長に呼ばれ、次の開店予定の室蘭支店の支店長をやるように言われた。最初は男五人、女二十人程で始まったが、営業は好調で私が家に戻るまでの一年八ケ月の間に三度増築し、女子社員は六十人程になった。朝六時、寝ている男子社員の背中に水を掛けて起こし、みんなでマラソンをしたり、時には海岸で腰に縄を付けて潜り、朝の味噌汁の貝などを取って来たりした。皆十代の若い者なので意思統一には心を砕いた。毎日夜十二時頃まで働いた。私は室蘭では元旦に一日休んだだけだった。しかしその休みの元旦は、賄いのおばさんも休み、コンビニなども無い頃なので、食べるものは何も無く途方に呉れた。そんな折に女子社員の青木さんのお兄さんが、銀行の支店長をしており、部下の方々を呼んでいるので、一緒に来て食事をするように言われた時は本当に有難く、もう四十年近くも前の事ながら忘れる事は出来ない。
当時私は二十五歳くらいで月給は七千円だったが、支店長手当てを五万円頂いた。今の百万円以上になるかもしれない。私はそのお金を女子社員に支店長手当てと言う名目で支給した。金額は一人二百円から五百円までで、働きぐあいで五百円が三百円に下がったりしたが、皆はそれが励みになると言って喜んでくれたし、下がった時は本人も気を抜いた事を認めて納得してくれた。
金市館の加藤社長は婿養子であったが、独学で高等文官試験(今の国家公務員上級試験)に合格するはど頭の良い人だった。先代は戸板から商売を始めた人で、そのせいかどうか金市館の支店開店には、しばしばヤクザが金をせびりにやって来た。室蘭支店にも来たが『私もこの若さで店を任されて、命がけでやっている』と言って断った。二人連れの内の一人は特攻隊員くずれのヤクザだったが、なぜか意気投合し『何かあったら私の名前を使え!』と言ってくれた。金子哲二さんとか言ったと思う。釧路支店の時は、金とビール一箱を持たせてタクシーで返し、すぐ警察に通報して捕まえてもらったら、一ケ月程で出てきてお礼参りに来たが、運良く私は不在だった。
室蘭支店が好調だったので、実験店舗として食品のスーパーをやりたいと社長に申し出たが、駄目だった。金市館がその頃食品スーパーに進出していたら、北海道の流通業の地図も変わっていたかもしれない。私は学生時代に株で儲けたお金で、二ケ月間ほど日本全国を廻り、スーパーをやりたいと思って研究をしていた。ダイエーが神戸市、三の宮の裏道の倉庫で店を開いた頃で、ジャスコ(イオングループ)の岡田卓也会長さんにも、店の二階でコーヒーをご馳走になり、お話を聞かせてもらった。銀座に日本セルフサービス協会があり、そこの紹介状をもらって大学の卒業論文を書くと言う名目だったので、色々な人に会うことが出来た。ちなみに「ダイイチスーパー」は、当時「帯広フードセンター」と言う店で、北海道で唯一軒、日本セルフサービス協会に加盟している店だった。昭和三十四年の事である。
帰郷し家業に
昭和三十八年、家業を継ぐために金市館を退職したが、洞爺湖温泉の送別会に社長も参加して下さり、二十万円の退職金と「断行成百業」(断じて行えば百業成る)の達筆の揮毫を頂いた。掛け軸にして今も大切にわが家の床の間に飾ってある。
室蘭次長の佐々木石雄氏は加藤社長の甥にあたり、頭の良い商売上手な優秀な男で、ラルズと合併した後、金市館出身の数少ない役員で現在専務取締役を務めている。
昭和三十九年、二十八歳の時見合いで伊達市の中〆(なかしめ)池田の娘、満代と結婚した。見合いは後になるほど悪くなると信じていたので、これが初めの終わりであったが、その通りだと今でも思っている。
昭和四十一年に店舗を取り壊して二階建ての店を新築した。ちなみに、その時壊した前の店は草分から錦町のマルイチ十字街に移った時の、明治三十三年頃に建てたもので、富良野沿線で一番古い木造だと思う。この店は、昔離れ馬が飛び込んできて馬主が青くなって追って来たが、怪我人も無く、店も茶碗を二〜三個壊れたくらいで済んだことから、『縁起が良い』と馬主さんはご馳走になって帰ったと言う。
この建物は現在錦町の住宅の横にトタン板で壁を囲い、そのまま物置として残してある。造りは一部二階建てで、ここで沢山の人達が寝泊まりして商売をした所である。材にはカンナ掛けもなく、チョンナを使って丸太を角材にした跡も見られる。何度も手直しした為に内部は変わったが、外観はほとんど昔のままである。
当時の写真を見ると道路にはまだ切り株が残り、葦原の湿地だったようで、歩く所に板を渡してある。店の前にプラウが七台並んでいるのが見える。
この写真を見て、スガノ農機の菅野祥孝社長と「土の館」館長の穐吉忠彦さんは、『この頃のプラウはほとんどが輸入品であり、多分これもアメリカ辺りからの輸入品で旭川にもあまり無く、札幌や伊達方面でずっと後になってから、少しつつ作られるようになったくらい珍しいものだ』と話された。(写真は「土の館」博物館に大きく伸ばして飾ってある)
新たな展開へ
さて、当店も高度成長に乗って、お陰で業績も順調に伸びて行った。昭和四十七年、ニチイグループのNAC(ニチイアイランドチェーンの略で、平成十三年に破綻したマイカルの前身)の全国組織に加盟させていただき、商品の供給から経営指導までお世話になった。加盟により私も大変勉強になり、店の営業にも大きくプラスした。当時は大型店化の初期で、ニチイから食品、衣料、雑貨の総合スーパーを建設するように勧められた。
反対する父を説得し、やっとOKを得るのに一年半かかった所で、ふじスーパーの進出の話が飛び込んできた。ふじスーパーもNACグループに加盟したいと申し出ていたので、本部は『それなら一緒にやって衣料品部門を幾久屋がやれば良い』と言われた。しかし、食品を直営しないテナントのみでは採算が合わず撤退した。結果としては、こんなに競争が激しく不況の時代、大型化をしなくて良かったと思っている。一年半も反対してくれた父のお陰であった。
その頃大型化したNACの北海道の仲間は、統合されサティ(現在ボスフールに店名変更)になったが、恵庭市、栗山町などの大型店は売却され、大都市の店舗のみが残されているだけである。私はこのNAC(マイカルナック北海道協同組合)の理事長を十年程勤めさせていただいたが、ボスフールの大川祐一社長の勧めもあって、平成十三年に、皆さんに諮って北海道だけマイカルグループから脱退した。反対者もいて大阪の本部との交渉に手間取ったが、同年七月までに総ての出資金を戻し、各社に相当額の配当も完了した所で親会社のマイカルが破綻したので、非常に幸運であったと思っている。
大型化の構想も思うにまかせず、そのエネルギーを四十六歳の時、和田松ヱ門町長、一色正三商工会長、高木信一農協組合長さん方の推薦を受け、町長選挙に出馬した。農家の方や多くの人達の応援をいただいたが、準備不足と力不足で当選する事が出来なかった。
はじめは、今の教育委員長の久保儀之氏と二人で個別訪問のスタートであった。奥様が私と北大同期で後に北大社会学部長になった布施鉄治さん、奥様の晶子さんは札幌大学教授になったが『当選したら町の政策シンクタンクのプロジェクトチームを作ってあげる』と言ってくれた。また、北大同期で後に道の副知事になった林陽君、出納室長の武田祐男君なども、『当選したら町の発展に力を貸してあげる』と言ってくれた。私も町づくりに夢を持って「挑んだが、残念だった。
この時、家内の兄の親友だった故高橋辰夫衆議院議員と、当時赤平市長の佐々木肇さん(現在道議)それと後に苫小牧市長になり、現在道議会議員で私の所と親戚にもなる板谷實さんなども応援に来てくださった。私は無所属での立候補だったから旭川から来た自民党の相手候補の応援弁士が、高橋辰夫代議士に『党員以外の応援をするのはけしからん』と言って党紀委員会にかけると言われた時、平然として「どうぞ、どんどんやってくれ」と答えられた。代議士は故中川一郎先生の子飼いの弟子で鈴木宗男議員とは最後まで争った正義感あふれる熱血漢。中川一郎先生の三回忌の法要が大樹町で行われた時、直前にマスコミに『中川先生を殺したのは鈴木だ』と発言した事で、暴力団風の男五〜六人に力尽くで出席を阻止され、高橋ご夫妻が法要に出られなかったことは新聞にも出て有名な話である。この時東京でも三回忌を行う分裂法要だった。この文章を書いていて大変お世話になった故高橋辰夫先生のことをぜひ記しておかねばと思い一言加えさせていただいた。
支えてくれた妻・満代
家内が結婚した頃は、住み込みの女店員が七人も居て、通勤の人も皆お昼は店で食べていた。この炊事にはたくさんの人が手掛けるので、父は『火が心配だから』と言ってプロパンを使わせなかった。魚を焼くにも七輪の炭火であった。二十人近いごはん支度を三人の子育てをしながら、家内は中学を出たばかりの若い子と二人で、三度三度やっていた。風呂も雑把を焚いて湯を沸かした。
家内の実家は当時伊達市と室蘭市に五店舗の店を持ち、兄達が呉服店、家具、電気店をやっていて、年商二十億円以上の北海道でも有名な企業で、家内の満代も京都女子大卒のお嬢さんだったが、嫁に来て十年間は店に出ることも無く苦労したと思う。後に店に出て婦人服を担当し、やがて呉服その他すべての販売に当たったが。商人の娘だけあって商売上手で、私はずいぶん助けられた。六十歳になる今も朝から晩まで店に出て、忙しい時は昼食も事務所でおにぎりだけと言う生活が今も続いている。
家族の近況
平成二年に次男の益三が店の跡を継ぐと言って、日大工学部を卒業後すぐ戻ってきた。長男は『自分は商売に向いていないから』と、東海大学航空宇宙工学科を卒業後航空自衛隊に入り、現在市ヶ谷の空幕勤務で三佐を拝命している。六年程前に富良野の高田市長のお世話で、布部の渡辺保之様の娘、直美と結婚した。長女の修子(ながこ)は旭川東高から多摩美大映画科を出て、現在東京で三人の子育てに奮闘中。夫砂川法彦は沖縄出身である。
益三は店に戻ってきてすぐ「帰望店」と言う名の「きもの展示会」を開いた。跡継ぎのご披露も兼ねたものだったが、バブルの末期でもあって、昔からのお得意様がとても喜んで下さった。お花をいただいたり、今年八十八歳になる母へも『おばあちゃん跡継ぎが出来て良かったね』と声を掛けて下さるなど、この時の三日間の売り上げ五千五百万円と言う記録は、もうなかなか超えられないと思う。ほんとうに有難く、祖父庫三、父全一と先代が培って来た信用を、昔からのお得意様が憶えていて下さり『この機会に何か買ってあげる』と申し出ていただいた時には涙が出た。
平成九年、道路の拡幅を機会に、以前から求めてあった宮町三丁目のふじスーパー横へ、店を移転新築した。ジャスコの家訓に『店には車をつけてお客様の居られる所へ移るべし』と言う言葉があるそうだが、近くにエーコープも新築移転し、町の人口も東の方へ移っていると思う。
移転後、幸いに「シャディのサラダ館」が大変忙しい。益三は、五年程前に大森明様のお世話で、姪に当たる旭川の岡江浩義様の娘、美佐と結婚した。
彼女は明るい性格と親のしつけの良さで、お客様には大変好かれており、サラダ館を担当してよく働き、評判も良く喜んでいる。益三は一度結婚に失敗し、先妻との間の女の子二人が福島県に居るが、二人とも聡明で美しい子だ。この文を読んで自分たちに誇りを抱いて立派に成長してほしいと、心から願わずには居られない。
未来を見つめて
私の尊敬する作家の五木寛之先生は、二十一世紀は「民族と宗教のトレーランスだ(寛容)」と述べている。仏教、イスラム教、キリスト教などの融和が出来ないものだろうか。「宗教村」とでも言うようないろんな宗教が十〜二十ヘクタールくらいずつ一ケ所にたくさん集まって、そこに宗派を越えて仲良くするようなものが、この町に出来たらと夢想し、死ぬまでに何とか実現できないものかと真剣にいつも考えている。昔、聖徳太子は仏教が日本に入って来た時に、仏教反対派の物部一族と争って天下を取ったが、太子は今でも日本に根付いている宗教(「木にも川にも海にも命がある」と言う考えのアニミズム)も認め、その上に仏教を信じて良いと言う方針を出したから、日本は世界でも稀な神仏習合が出来たと言う。「宗教村」のようなものは、日本人にしか出来ないのではないだろうか。テロも民族間の戦争も、元はと言えば宗教戦争が大きな原因の一つであることが多い。
九州の平戸は一六〇九年にオランダ東インド会社の商館が作られ、完全な鎖国が行われるまでは、長崎の二ケ所だけヨーロッパとの交流があった。その関係で、平戸市の高台に聖フランシスコザビエルの教会が建てられてある。しかし、幕府はキリシタン弾圧の一貫として、教会の周りを取り囲むように、いろんな宗派のお寺を政策的に建てたのである。狭い所ではあるが今となってはそれはそれで、エキゾチックな風景になっている。しかし、富良野地方にふさわしい「宗教村」は、そんな敵対する為に作るお寺ではなく、宗教の和解の為、大きくは世界平和を願って作るお寺や教会なのである。美しい富良野の地にこんなユートピアが出来、「トレーランスの森」とでも名付けられるものが出来たら、町の為だけでなく国の為、大きく世界の為にもどんなに良い事だろうかと思う。
かつて深山峠には丸太小屋にラベンダーの花、遠くに大雪山十勝岳連峰が横たわる素朴で美しい風景があったが、今は商業主義の乱開発ですっかり変わってしまった。昔を覚えている旅人の悲しみの声を、聞いた人も居ると思う。
一二〇年経った今も建設が続いていて、完成まであと一八〇年はかかると言われる、テレビのコマーシャルの画面にも出た、スペインの有名な「サグラダファミリア」と言う建物がある。これを設計したガウディに魅せられた男達の話を柱に書かれた「ガウディの夏」と言う五木寛之先生の本の中に、東京のビル街を眺めながら男が『資本の城・権力の建物がある。だがそこには無用の情熱とでも言うものが無い。しかし、それが無いと決定的に《無》と感じてしまう…。』と。二十一世紀に必要なものはこんな「幻想の城」かもしれない。そして美しい富良野地方に、そんな風景が一番似合っているのではないだろうか。高度成長期は「より高く、つまり売り上げも金儲けももっともっと!」といった「かもめのジョナサン」ではなくて、今こそ飛べなくなったアジサシの鳥の話、「リトルターン」のような生き方を考えてみたいと思う。それが出来る事が先人の人達の労苦に報いる道ではないかと考える。二十一世紀に受け入れられ、町の人の為になり、将来の子孫の為になる事業とは何だろうかと考える。
初代庫三は酒造りを企画し、五十年後に生まれた現金問屋を計画するほど、先見性に富んだ人だった。私は今こそ先人が苦労して続けてきた跡を、そのまま追い求めるばかりでなく、先人が何を求めてたのか考え、先人が求めたもの《心》を求めて、町の人々に愛され、人々に受け入れられる何かを求め続けて行きたいと思う。
お得意様の変わらぬお引き立てを心から感謝しつつ筆を置く。
〔資   料〕
             弔  辞

ここに謹んで、今は亡き上富良野町自治功労者故金子全一殿のご霊前にぬかずき、衷心より哀悼の言葉を申しあげます。
店頭で接客をしておられるご健在のお姿を思い出し、満感こもごも胸に迫り、追慕の念ひとしおのものがございます。
去る三月十六日に体調を崩して町立病院にご入院されたと聞き、間もなく快癒されてお目にかかれるものと思っておりましたが、この度の突然の計報に接し、言いようもない悲しみを受けております。あなたの温顔にこの世で再びお目にかかれないという事実を自らの心に言い聞かせるとき、運命の厳しさを嘆かずに居られないのであります。
あなたは、明治四十一年五月十一日、上富良野開拓初代の金子庫三氏を父上に生を受けられ、地元上富良野尋常高等小学校から、現旭川東高校の前身である旭川中学、更に現在の小樽商科大学である小樽商業高等学校を卒業されました。昭和八年に父上の跡を継ぎ幾久屋呉服店社長に就き、以来家業の盛運を高めながら、各般の公職や要職を歴任されたのであります。
あなたの温厚、誠実で責任感の強さは地域住民の信頼を厚くし、昭和十一年から昭和二十二年まで村会議員に就かれ、戦中、戦後の動乱期の村政に携われました。
また、上富良野中学校建設委員長として尽力され、引き続き昭和二十六年から三十年まで上富良野中学校初代PTA会長として、教育環境の充実に貢献されました。
商業振興に閲しましても、昭和三十三年から任意商工会時代の副会頭として法人化に奔走され、昭和三十五年の現上富良野町商工会設置認可後も引き続き、昭和四十四年まで山本逸太郎会長を助けて副会長を、更に、昭和四十四年から四十九年までは商工会長として、町の商工業発展に尽くされました。
一方では、町の行政進展にも広い見識を発揮され、昭和三十七年から四十四年まで教育委員を、この内昭和三十八年から四十二年までは、教育委貞長を務められました。
他にも、昭和三十一年から六年間社会教育委員、昭和三十八年から二年間総合開発審議会委員、昭和四十一年に開基七十周年町史編纂委員、昭和四十四年から五年間都市計画審議会委員、昭和四十五年から四十八年まで四期にわたって特別職報酬等審議会委員、昭和五十五年から平成二年まで文化財保護委員会委員長などを務められました。
また、昭和五十三年に上富良野町開基八十年を記念して開館した上富良野町郷土館の建設に当たっては、建設促進活動への熱意を尽くされ、また、建設費への篤志を寄せられるなど、上富良野の歴史を後世へ引き継ぐ礎(いしずえ)を築かれました。
また、この歴史保存の実践にも身を投じられ、郷土史研究活動の有志と共に、昭和五十五年十二月に「かみふらの郷土をさぐる会」を設立、信望と熱意をかわれて初代会長として就かれ、平成四年の十周年を機に二代目高橋寅吉会長に引き継ぐまで、多くの会員と共にご活躍されました。機関紙の「郷土をさぐる」は、先日第三代菅野稔会長の下で第十七号が完成したと伺っており、あなたの意思は確実に受け継がれております。
上富良野町では、昭和四十九年に、教育委員長をはじめ数多くの功績と功労を称え、自治功労者として表彰したところでありますが、その後も変わらぬ、いや、以前にも増して文化、産業の振興、発展にご貢献されたことは、多くの町民の認めるところであります。昭和六十三年には、昭和四十三年から昭和六十二年までの永きに亘って会長を務められた柔剣道連盟が、上富良野町スポーツ賞を授与されており、ご活躍の広さが偲ばれるところであります。
あなたは、子息隆一氏に社長を譲り、世の常ならば、満九十一歳のご高齢に際しては、ご隠居されるところでありますが、会長として現役におられ明治人の気骨を感じ入ったところであります。
また、お孫さんの益三君が次代を担うべく経営に携わっており、家運長久の安堵の中で、悠悠自適の生活をされておることとお聞きしておりましたが、入院されたと聞き案じていたところであります。
全快するものと信じておりましたのに、残念でなりません。ご家族の皆々様の温かいご看護、また医療薬石の効もむなしく遂に長逝されましたことは、痛恨の極みであり惜別の情を禁じえません。
あなたが長年にわたり、上富良野町の教育及び文化、産業などの向上に限りない情熱を傾けられましたことは感謝に堪えぬところであります。
今は静かに、あなたが生前遺されたご遺徳を偲び、心から敬意を表しますとともに、上富良野町民を代表してお礼を申しあげます。
このうえは、あなたが貫かれた尊い意志を体し、わが町の更なる発展のために、一層の努力をお誓いし、ここに安らかなご冥福とご遺族のご多幸を心からお祈り申し上げ、弔辞と致します。

                     平成十二年四月二十五日
                     上富良野町長 尾岸 孝雄
〔副 資 料〕
明治三十五年草分神社創紀の際、三重団体他の移住者が、自分の経歴等を木札に記して奉納した「木簡」が、草分神社社殿から発見された。その中から商店に関して記載されている木札を記録した。

「明治二十九年三月二十九日札幌ニ移住、同年四月二十日深川ニ来り、同年十二月三十一日永山番外地ニ入り、明治三十年五月二十八日本村移住者ノ不便ヲ思イ且ツ将来ノ目的ヲ全セン為来住シ合掌小屋ヲ建設シ、同月三十日荒物商ヲ開営セリ、ソノ当時貨物ノ運搬非常ノ不便ニシテ、駄馬ヲ以ッテ運ヒテ商業ヲ営ムニ道路モ開通ナキ処ノミシテ只刈分道路アルノミ、住民ハ僅二十戸ニ不満、明治三十一年初春来漸々移住者及土地實見ノ為メ来野スルモノアリト云ヘトモ、旅店ナキ依リ宿泊セシ人其ス、本村商店ノ草分元祖トス
徳島県名東郡斎津村大字南斎田浦村九十八番地ノ住人
斎藤助太郎(二十八年)誌ス」

「移住ノ当時本村未開ニシ、旭川ヨリ米味噌運搬シ商店ハ阿石井支店ナシテ斎藤助太郎氏アルノミ、全村ノ住民僅々三十戸ニ不満、三十年ノ三月ヨリ移住セシモノ七十有戸、商店モ年々タチ本村道路開整ノ初メハ、北二十六号道路ヲ国道工事此両工事ノ見回り帳付ヲ為シ、米壱升四十五銭、麥壱升弐拾参銭ノ高ノ事アリ、草分当時ノ現況ヲ記ス元愛知県三河国嶺田郡河合村才栗ノ住人僧 島義空記ス
明治三十年七月弐拾五日  北海道札幌ニ移住
明治三十年九月拾日  富良野ニ探検出張
明治三十一年一月弐日  本村移住
明治三十一年六月拾五日愛知県ヨリ転籍」


「明治参拾壱年六月拾九日単身旭川町大花輪商店ヨリ請暇ヲ得テ 上富良野三重団体山崎兵次郎氏貸付地内十勝別分道路端ニ 弐間三間掘立小屋建築移住ス 居ル事数月 翌年三月上富良野市街地ニ新築移転ス 今日之家屋ニマルイチ印幾久屋商店即チ是ナリ
      明治参拾五年拾月拾六日 記之   金子忠四郎

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔