郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

各地で活躍している郷土の人達
札幌・上富良野会と私

札幌市厚別区厚別南四丁目 久保 勝美
昭和十五年八月二日生(六十二歳)


はじめに

昭和六十三年初夏のある日、南 順二(時事ジャーナル社長、元北海タイムス社長)さんと和田俊雄(道職員OB、故和田元町長実弟)さんのお二人が、私の勤務先である道庁総務部総務課に訪ねて来られた。
御用の向きは「札幌やその近郊に在住する上富良野出身者など郷里に何らかの縁のある人達が集まる、いわゆるふるさと会″をつくりたい。会の立ち上げに協力してほしい」とのことだった。
私は直ぐに賛同したのだが、これにはいささかの経緯がある。
ふるさと会との関わり
昭和四十年代の中頃、当時和田松ヱ門町長の下で総務課長を務めていた私の兄栄司から「在札ふるさと会」をつくれないものかという話があった。そのことについて在札の同期会などで話題にしたこともあったが、昭和四十七年に東京に勤務替えになったこともあって、兄の方からはこの件について特段言ってくるようなこともなかったので、私の頭の中では棚上げの状態になっていた。
東京事務所には足掛け六年という長期の勤務になったが、その東京時代最後になる昭和五十二年度の仕事の一つに「在京ふるさと会連合会の結成」があった。当時、東京および近在の道内市町村の在京ふるさと会は「ふるさと根室会」など五十ほどあった(当時はまだ在京の富良野会も上富良野会もなかった)。その個々の会をまとめたネットワークとして連合会を立ち上げようとするものである。
在京ふるさと会の目的は「会員の親睦を図ること」以外に、多くの会では「ふるさと出身の勤労青少年に対する支援」を大きな目的としていたように思う。
これは、高度経済成長時代に「集団就職」などで地方から東京圏域に出てきた青少年に対して激励や支援をしていこうというものである。歌手井沢八郎のヒット曲「ああ上野駅」の名曲が彼等勤労青少年の「応援歌」であったことはNHKTV「そして歌は誕生した」(平成十四年八月放映)にみるとおりだが、在京ふるさと会はまさに「応援団」であった。
「在京ふるさと会連合会」結成の仕事に携わって「在札ふるさと上富良野会」の立ち上げが気がかりになってきたころ昭和五十三年四月、本庁に転勤となった。
札幌に戻ってしばらくして、兄栄司と同期の当時北海タイムス社長であった南順二さんに仕事でお目にかかる機会があり、「札幌上富良野会の結成を望む声があるのですが」と切り出してみたが、「社長業は社業のほか公職も数多く、少し整理しなければ身が持たんよ」とこの話題にはこれ以上深入りさせまいとの様子だった。
それから丁度十年、北海タイムスの社長を退かれた南さんが身体にも余裕ができたからということで、以前から何かとお世話をいただいている道庁OBの和田さんと御一緒に私のところにおいでになったのが、冒頭部分の記述である。
この間、町は和田町長から酒匂町長に代わり助役も安田助役になっていて、町から南さんに会の立ち上げについての要請があったことはもちろんのことである。
札幌上富良野会の結成に向けて
さて、立ち上げることに依存はないものの、いざ取り組むとなるとそれに必要な諸々の事柄を拾い上げ整理し、必要な情報を収集することなどをはじめとしてその仕事量は結構たいへんな量と思われる。
このへんの仕事に携わる人を何人か集め、いわゆる「準備事務局」をつくらなければならない、と私の意見を申し上げると、「そのとおり」となった。「私以外に誰か心積りは」と尋ねたが、特にないという。
それでは、実務のヘッドになってもらえそうな人がいるので会ってもらえないかと申し上げ、先方に連絡をとると運良く在席していたので、直ちにお二人を同じ道庁内の生活福祉部総務課に御案内した。
そこには花輪洋一課長が待っていてくれた。突然のことだったが、花輪さんも即座に賛同された。
実務の人集めについては花輪さんと私に任され、ある程度人が決まった段階で準備会を開こうということで、この日は別れた。
実働部隊は、近くで集まりやすい人ということになるとやはり職場を同じくする者がいいということになる。が、同じ道庁といっても上富良野出身ということになると意外に知らないものである。しかし、一人に話すとあの人もいるこの人もいるということで情報は増していくものだ。
とにもかくにも、次のみなさんに加わってもらい、初会合(世話人会)を昭和六十三年七月二十三日、フジヤサンタスホテル(中央区)で開催した。
出席者は、上述の南・和田・花輪・久保のほか及川隆雄(及川会計事務所)、東海林誠、佐々木弘、泉川睦雄、石橋賢敏(以上道庁)。打合せ事項は、@名簿作成A設立総会開催日時B会則案C会長等の人選D総会の持ち方などについて協議した。
まず始めなければならないことは、「名簿作り」である。どのような皆さんが札幌やその周辺に集まっておられるのか、出来るだけ情報(消息)を集めなければならない。町で収集している名簿、各学校の卒業生名簿などできるだけ集めた。その数は六百人を超えるものであったが、名簿作成の時期が古いものにはすでに転居しているものなどが多数あり、四百人を超える程度が確かなところであった。
その後、幾度かの協議を経て、南順二、和田俊雄、安井慎太郎、長瀬賢一、後藤政人、及川隆雄、花輪洋一、久保勝美、東海林誠、佐々木弘、泉川睦雄、石橋賢敏、辻内敦子が発起人となり、設立総会を昭和六十三年十月二十九日(土)午後六時、フジヤサンタスホテルで開催することを決めた。
結成に百六十五名が集う
設立総会の日、会員百五十名に町からの参加者十五名を加え百六十五名の参加を得たことは、我々の予想を超えるものであった。
総会は、会則を決定の後、会長南順二、副会長和田俊雄、幹事長花輪洋一、幹事として久保勝美(事務局長)、石橋賢敏、東海林誠、佐々木弘、泉川睦雄、辻内敦子、監事として長瀬賢一、後藤政人を選出した。顧問として、町からお出での酒匂町長、小野議長、菅野農協組合長、掘内商工会長、南観光協会長、平井道議会議員と、床鍋北農中央会会長、西尾道議会議員(欠席)の皆さんにお引き受けいただいた。
総会に引き続き、平井道議の乾杯の音頭で懇親会がはじまった。横路道知事のメッセージや祝電披露、床鍋繁則さんのスピーチ、酒匂町長以下町からお越しの皆さんからの祝辞や挨拶をいただいた。
ホップ園の御縁で出席されたサッポロビールの二階堂正さんからは「おいしいビールの飲み方」の御指導をいただいた。その時、司会役の私は「上富良野のキャッチコピーにビールの里かみふらの″」「手造りのかみふらのビールを」といささか興奮気味で申し上げた記憶が鮮明にある。こんにち上富良野の「地ビール」を口にできることを思うと、急激な時代の流れにひとしおの感慨を覚える。
懇親会は、出席者をふるさとの地域毎に紹介をして大いに盛り上がり、休む間もなく町の皆さんから戴いた数々のおみやげを景品にした「お楽しみ抽選会」で最高潮に達した。小野三郎町議会議長がお開きの乾杯の音頭をとるころには、すでに予定の終了時刻はかなり過ぎており、互いに元気で再会することを約し、それぞれが家路についたのは、時計の針が午後九時近くを指していた。
当日の模様については、翌日の北海タイムスの朝刊が、写真入りで「札幌上富良野会を結成。ふるさとの応援を誓いあった」と報じている。
この設立総会・懇親会は期待以上に成功裏に終えることができたと自負している。これも準備の段階から幾度か加わっていただいた安田助役さんをはじめ役場の皆さん、町の各団体や企業など皆さんの御協力の賜と感謝している。
十五周年を迎える
この年の暮れ、十勝岳が噴火した。
噴火が沈静した翌平成元年六月十七・十八日、「ふるさと訪問ツアー」を実施し、十勝岳山開きに参加してふるさとの無事を祈願することができた。このツアーの実現にあたっても、町や観光協会などの多大な御支援をいただいた。
平成九年七月三十一日、盛大に開催された上富良野開基百年記念式典に、南会長・和田副会長とともに参列できたことは大きな感激であった。同年十月十一日・十二日「ふるさと訪問ツアー」参加者三十七名が、開拓記念広場において会員から拠出のあった協賛金を基にして上富良野開基百年記念の植樹をし、郷土のさらなる発展を祈念した。.この年、「札幌上富良野会も設立十周年記念の年であった。
回を重ね、今年十四年の総会で十五回を迎えることができた。出席者も例年より多い百二十名近くを数えた。今年もまた、昭和六十三年の設立総会以来議会や商工会など立場こそ違えほとんど毎回御出席いただいている尾岸町長をはじめ、平田町議会議長各団体等の要職にある皆さんにお越しいただき、地方自治史上画期的な地方分権が進行する中、市町村合併問題など課題の山積する状況などをお聞かせいただいた。
この間、会長は十周年を機に南会長が退き花輪洋一に替わった。副会長は和田副会長から原田洋子に替わり、さらに薮下守・東海林勲・久保勝美が加わっている。幹事長は花輪、久保、石橋賢敏、東海林誠から小田島和平に。幹事・事務局長は、久保、石橋、見附長生から辻内敦子に。その他の幹事は升田清文、泉川睦雄、狩野博孝、松井彰子、小川清一、葛本喜代子、見附長生。監事は長瀬賢一、後藤政人、佐々木弘から石橋賢敏・東海林誠に替わっている。
継続は力なり
「本会は、会員相互の親睦をはかり、その共通する郷土愛のもとに、上富良野町との交流を深め、もって郷土の繁栄に寄与することを目的とする。」と会則第二条に掲げ、昭和六十三年発足以来十五年が経過した。この目的、特に「郷土の繁栄に寄与する」ことから顧みると恥じ入る思いであるが、この「郷土の繁栄」を胸に、「継続は力なり」と会のお世話をさせていただいてきたことを幸せに思っている。
毎年の総会・懇談会には必ず小中学校の同期の幾人かが顔を見せてくれる。辻内さん、薮下君、東海林(勲)君も同期で世話役を引き受けてもらった。それまであまりお付き合いのなかった人とも、この会のお世話を通じて深い絆を得ることができた。見知らぬ人とも多くの絆が得られた。
絆が広がれば、「お別れ」の機会も増す。
平成七年、初代監事の長瀬賢一さんが逝去された。
そして、本会生みの親であり長い間親しくお付き合いさせていただいた南順二初代会長(長瀬さんと同期)が昨年六月に黄泉の国へ旅立たれた。昨年の総会には病み上がりでといいながらも元気な姿を見せておられたのに、今年はもう居ない。
また、本会設立に当たって御支援いただいた酒匂町長も任期半ばの平成四年に亡くなられている。毎年、総会の開催案内の返信でも会員の方の計報が寄せられる。世の常とは言うものの、寂しさは禁じえない。
もの思う第二の青春期
身近な人々が亡くなられることや六十を越した歳のせいでもあろうか、「人生の意味」や「自己が今こうして存在する不思議」を思うことがある。遠い若き日にも、これらの命題に思い煩っていたことを思えば、今は「第二の青春期」を生きているといえそうにも思う。
アウシュビッツその他の強制収容所における体験記「夜と霧」の著者でオーストリアの精神科医ビクトル・エミール・フランクルは、「人生の意味は自分を越えた向こうから問うている」「どんなときも、人生には意味がある」という。
近頃、「自己存在の不思議」について思うとき、「縁」という言葉に惹かれる。「縁」という言葉はもともと仏教の言葉とのことだが、血縁、地縁、社縁など一般日常用語としても使われている。仏教の言葉の意味はよくわからないが、とにもかくにもいろいろな「縁」あって今の自分が存在している、と素直に思えるのも歳のせいだろうか。(歳のせいだとすれば、歳を取るのもいいものだ。)ふるさと会は、まさに地縁である。在京ふるさと会連合会の結成に携わったことも、札幌上富良野会のお手伝いをさせていただいていることも因縁といえないこともない。
そして、ふるさと会との関わりは、私の「人生の意味」の一つなのかもしれない、などと思ったりしている。
久保勝美(くぼかつよし)氏のプロフィール(編集委員作成)
昭和十五年八月二日 上富良野村市街地一町内(現・大町)で久保吉一・千文の三男として出生。長兄は久保吉昭氏(大町在住)、次兄は栄司氏(本町在住)である。
昭和三十四年三月 富良野高等学校卒業後、同年四月北海道庁勤務。総務部を主に種々の業務に従事した。その中で通算して最も長く係わった職員研修・人材育成業務で全国自治研修協議会から平成十二年に表彰を受ける。
平成十三年三月 道職員定年退職後、翌四月学校法人札幌静修学園に勤務。
現在同学園評議員・札幌静修高等学校事務長の任に携わる。
現下の関心事などをお聞きすると、次の様に答えてくれました。

・「生涯学習」「フランクル心理学」「五郎部俊郎・歌は美しかった」
・健康生きがいづくりアドバイザー北海道協議会会員
・すすきのアーラ!あずましい会会員(まちづくり)
・生涯学習一級インストラクター(生涯学習)
・NHK番組モニター

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔