郷土をさぐる会トップページ     第20号目次

我が人生に悔いなし
「思い出ずるままに」

勝井 勇 大正六年三月六日生(八十六歳)

 《教職についたので召集なし
                生存の喜びを感じつつ》


私は昭和十二年から四十年間教職についた。戦前・戦中・戦後と激しく変化した社会情勢の中、今考えると夢のようだ。
昭和十二年四月に入隊、八月三十一日に陸軍伍長にて除隊、国民兵に編入された。教職に従事していたので召集をまぬがれ、戦地に立つこともなかった。時局を認識し戦争に協力した一員でもあった。
小学校時代の同級生や教え子の中にも戦死した者が多数あり誠に残念なことである。死んだ者が一番損した時代になってしまった。現在の自分を振り返ってみて、幸せな人生であったと思える一番のもとは、召集されなかったことから始まったとつくづく思っている。
戦中戦後の中富良野小学校時代は労力奉仕の時代だった。高等科の担任児童をつれて援農又援農、水田の田植、除草、稲刈りと学業より大切な時代だった。農協の土管工場でまだ余熱のある窯からの土管出し、駅の土場で坑木の台車積み等々、時代の要求に沿って頑張ったものだった。それでも空襲の恐ろしさから逃れ得た喜びと、食糧増産の意欲で疲れも感じない時代だった。この児童達が校長昇任のお祝いに同期会を開いてくれたり、私の好きな「花摘む野辺に…」の合唱で迎えてくれたりしている。昭和五十三年に多田氏が中心となり、私の担任した事のある全学級の児童に呼びかけて「勝井 勇先生を囲む会」を催してくれた。このような会は珍しい事であると特に感激したことであった。つくづく教師になってよかったなあと感謝している此の頃である。
戦後のインフレ
昭和二十年八月、日本はポツダム宣言を無条件受け入れの敗戦だった。耐乏生活も終わり心機一転新しい希望に満ちた生活が始まると、物資の生産が追いつかず、結果はインフレの社会情勢となってしまった。ちなみに私の俸給で当時を振り返って見たい。
昭和 十二年 四月      五五円
   十三年十一月      六〇円
   二十年 六月      九五円
  二十一年 四月     一〇〇円
       七月     六二〇円
  二十二年 一月   三、三〇〇円
  二十三年十一月   六、六三三円
  二十五年 九月   七、六三八円
      十二月   八、三一三円
  二十七年 一月  一九、三〇〇円
   三十年 四月  二八、八〇〇円
  三十四年 十月  三三、九七〇円
このあたりで一応インフレは納まったと思われるが、物価の上昇に給料が追いつかずサラリーマンの大変な時代だったことが思い出される。
テニスに興じて
私は昭和七年からソフトテニスに精を出した。学校の部活として頑張っていたが、途中身体をこわし、交友会の役員だけを受け持った。上富良野小学校勤務時代は、旧役場の中庭に設けられたテニスコートで、本間庄吉氏、金子小二郎氏、酒匂佑一氏などと日が暮れるのも忘れて遊んだものだった。家畜診療所が出来コートが狭くなってからは、小学校の中庭コートで汗を流したことが思い出される。
中富良野小学校時代には戦が烈しくなり、コートもかぼちゃ畑に化けてしまって残念がったことが思い出される。昭和五十年に退職して町のテニス連盟に加入し、六十年に四十五歳以上のもので組織する水曜テニスクラブの会長として楽しみ、優勝したこともあった。八十歳近くになって体力の限界を感じ断念したが、楽しいスポーツ生活が出来たことを喜んでいる。
ゲートボールー上富良野町に広まる
町の老人身障者センターに勤務していたときの事であるが、昭和五十六年九月、鷹栖町町民グランドにおいて老人軽スポーツ講座が開催され、私は役場職員の納谷富市氏、老人クラブ会長笠原重郎氏の三人でゲートボールの指導を受けた。なかなか難しい規則が多いが、馴れると結構面白いのではないかと感じたことだった。
五十七年に入って用具を購入して貰いコートを作成し、七月に第一回目の指導を行った。江花・日の出・里仁・島津・東中などの老人クラブヘ指導に出かけた。十月には本部の井出 保氏の応援を得て全町の講習会を開いた。私はこの年度で退職したが、五十九年に第一回のゲートボール大会が開催された。
その折、審判長をつとめ手当てとして五、000円をいただいたことが記録されている。
(日の出クラブが全国制覇へ駒を進めたこともあった。)
投票箱か人命か
昭和六十三年十二月十六日に十勝岳が二十六年振りに噴火した。その後、地震、小噴火が続き、泥流、赤熱現象、火映現象等々が連日テレビで放映された頃であるが、統一選挙が近づき二月、上川支庁長が状況調査に来町したときのことであったが、当時、私は選挙管理委員長を務めていたので、種々尋ねながら勉強した。もしも泥流が流れてきた場合、「投票所はどうすべきか」「投票箱を所持していて避難途中に身の危険を感じたとき」はどう対処すべきか、等々勉強した。投票箱よりも人間が大切だという結論を得て、当日を迎えたが山は何事もなく無事終了し安堵したことである。
馬魂碑について 町「霊園条例」制定にいたる
妻の母方の両親が富山県から移住し、馬の取引をやっていたが、住宅の近くに馬魂碑を建て霊を慰めていた。この碑は大正六年に建てられたものであり、爾来毎年十月十七日を期して盛大なお祭りが催されていた。(現在の大町二丁目付近)主人公が札幌へ転出したので、私の家でその管理を続けていたが、五十八年に地主から「早急に取り除いてはしい」との申し出を受けた。
さて、どこへ移動するか、大町にある私の畑では町の真中だしと困っていた折、そのような土地があると聞き役場に問い合わせたが駄目で、何とかしてほしいという願いに答えてくれた当時の農政課長の(片井昭治氏)骨折りで、家畜の霊園条例が町議会で議決制定されたので、感謝しながら現在地に移動を完了することができた。(町墓地の道路を挟んで向側)このことが全国的にも珍しいという事で、読売新聞社が「霊園条例のきっかけを作った元教員であった勝井 勇さん(七十二歳)が」と報道されたことが思い出される。
「上富良野町には全国でここだけという馬の霊園条例がある。昭和五十八年九月に町議会が議決した。町内に点在する馬頭観音・馬魂碑を一箇所に集め、かって馬産地として永久にその霊を弔う条例である。」と紹介されたのである。
私は空知で生れたのであるが、最初の赴任地が上富良野町であったことから、二十一年という長い期間お世話になり退職してその住民となった。私を育ててくれた上富良野町の元教員ということで、社会から可愛がられ、能力の無い私が種々の役職に任ぜられ、生きがいを感じながら楽しい人生を送ることが出来たことを感謝しつつ拙文を終ります。

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔