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『泥流地帯』と父のこと

東神楽町南十三号左二 安井 弥生
大正十一年三月二十二日生(八十一歳)

はじめに

三浦綾子先生は、非常に多くの感銘深い小説を残されましたけれど、その中に「泥流地帯」があります。
大正十五年の十勝岳の大爆発による泥流の大災害に対し「拓一・耕作」の兄弟が、あらゆる苦難に耐え、元の美田に復興する苦闘の青春が描かれ、人生の報いとは何かを問う名作ですが、この小説の中で「上富良野村長 吉田貞次郎」という実名で出ているのが私の父でございます。
また、「ていは小学二年生で、弥生はまだ五歳だ。二人とも賢そうなつぶらな目をしている」という書き出しで登場します「てい」は私の姉で、「弥生」というのは私自身がモデルでございます。
爆発災害の当時、数え年五歳だった幼い子供であった私も、今数え年八十一歳のおばあさんになりまして、小さい時の記憶はさだかではありませんし、その上体調をくずしておりますので、郷土をさぐる会の要望に十分お応えできないかも知れませんが、精一杯に記憶を辿って記しました。
大正十五年五月二十四日十勝岳大爆発の日
私は、大正十一年三月二十二日に、当時上富良野村長の吉田貞次郎と母アサノの三女として生をうけました。そして、数え年五歳のとき、大正十五年五月二十四日、十勝岳大爆発を体験し、九死に一生を得たわけでございます。
その日は朝から雨が降っておりまして、ゴーゴーと山が鳴っていたそうです。丁度私の家では、母屋を新築中で、その日は左官屋さんが来て壁を塗っておりました。それであまり雨が降るので一服しようか、と休憩していた時のことです。あまり山がゴーゴー鳴るので、祖母が母に「ちょっと外を見ておいで」といったそうです。私の家のすぐ前に、釧路へ通ずる国道があり、そのまた向こうに国鉄富良野線の線路が走っています。国鉄の路面は平地より高く盛り上げられていますが、家から外に出て母はびっくりしました。線路の向こう側に隣の家が流れて浮いて来ているではありませんか。母は「大変だ大変だ」といって家に飛びこみ、それで祖母をはじめ左官屋さん、私の姉と兄、それに左官屋の弟子もみんな逃げ出しました。
私は、左官屋さんの小母さんが私をおぶってあげるといってくれたのだそうですが、私は母でなければ嫌だといってきかず玄関で泣いていました。それを母が見つけ、急いで私をおぶり皆のあとをついて走りました。
祖母は六十七歳で一番年をとっているので、少し遠回りになるが路幅が広い畦路を走り、他の者は全部一刻も早くと田んぼの中を直線に走ったそうです。それで私をおぶった母も、田んぼの中を皆のあとをついて走りました。
そのうち、祖母の声で「覚悟せよ」というような声がきこえ、ハッと振りかえると、祖母の姿は泥流にさらわれもうなかったといいます。
私の家から西の方向に三百メートルほど行ったところに、米村さんという家があり、その米村さんの後方百メートルのところに小高い丘があり、みんなその丘まで逃げようとしていたようですが、そこまで逃げて行くことはできず、やっとの思いで左官屋さんたちは米村さんまで辿りついたそうです。私をおぶっていた母は、すっかり泥まみれでした。しかしその母屋まで着くことは出来ませんでした。流木で二進も三進も行かなくなったらしいのです。その時母がうっかりとおぶっていた私を落としてしまったそうですが、そこはたまたま流木やその家の薪などがぎっしり詰まった所であり、そこであわてて母は私をおぶり直し、納屋のさしかけまで辿りつき、私を馬車の上に置き救いを待ったそうです。国鉄の線路の高さが泥流をせき止め、私たちは助かりました。
自分たちが助かったと知ると、思いはさっき泥流にのまれてしまった祖母のことです。ことに、母は「おしゅうとめさんを死なせて、嫁の私は生きていられない。私も死ぬ」といってきかなかったといいます。左官屋さんが一生懸命に母をなだめてくれたそうです。
いまはトタン屋根ですが当時は柾で屋根を葺いており、その柾を止める釘に私が頭をぶつけ痛い思いをしたことを今でも覚えています。また、私が「神さん仏さん助けて下さい」「神さん仏さん助けて下さい」と叫んだことも今も覚えています。私たちはじっと座って救いを待つよりありませんでした。そのうち、先に母屋に着いた左官屋さんが私たちを見つけ助けに来てくれましたが、母屋と納屋の僅か二十メートルか三十メートルくらいの間を、何十分もかかったということです。そしてやっと入った米村さんの母屋には畳が水で浮いており、布団を貸してもらいそこに座って一夜を明かしたそうです。姉の記憶によると、もう助からないと思いながら走ったが、助かってしまうとこんどは恐ろしくなってガタガタと歯が合わないぐらい震えながら一夜を明かした。何も食べなくてもお腹は空かなかった、と申しています。
十勝岳からわが家まで直距離約二十五キロメートルぐらいですが、爆発してから約二十五分で泥流が流れ着いたといいます。爆発は五月ですから、山にはまだ雪が積もっており、その雪を一瞬のうちに解かし、木や岩やあらゆるものを巻き込み、泥流となって山麓を襲ったものです。流れてきた泥流はなま暖かったそうです。
十勝岳爆発災害の翌日
父は、その日、市街にある役場につめており、私たちのところに帰ってきませんでした。
翌日十時頃、大勢の人達と一緒に父が線路づたいにわが家の方へ戻ってきました。捲くれあがった富良野線の線路が、米村さんの近くまで流され移動していたそうです。線路ぞいに帰ってきた父は、「三重団体は全滅」とのうわさが流れていた頃なので、「かわいそうなことをしたけれど、子供たちはみな死んだなあ。網走高女に行っていた姉と旭川中学に行っていた兄は家にいなかったが、残り三人は死んでしまった」と思いながら帰ったといいます。
私たちが一夜を明かした米村さんの家から父たちがいる線路まで約三百メートルぐらいあるが、その間は泥水と流木で連絡に二時間もかかる始末なので、待ちかねた消防の人などが線路からこちらに向かい、大声で「誰それは生きているか」と呼びかけ、「生きているよ」と答えると、「誰それは生きているか」と次の質問が来るなど、真剣なやりとりが続きました。
そのうち、勇敢な青年団の一人が泥の海に飛びこみ助けに来てくれました。私と姉と兄の三人は米村さんの下駄箱にのせられ縄で引っ張ってもらい、二時間もかかり、やっとの思いで大勢の人が待っていた線路の上に辿りつくことができました。
私たちは、このとき、線路の所まで来ていた父とやっとの思いで会うことができました。大勢の人々の中で父がニコッと笑い白い歯を見せたのを、私は忘れることができません。しかし、今にして思えば、子供たちは皆無事であったが、最愛の母親を失い、父はどんなにか複雑な思いであったかと思い返しております。
それから、父は災害救助の指揮のため役場に帰り、私たちは山伝いに市街の親類の家まで歩きましたが、着ているものも身体中ドロドロでした。途中小高い山ぎわに国鉄の線路工夫の官舎がありましたが、そこに住んでいた人たちが、通りかかった私たちに新しい衣類を出して着せてくれたそうです。子供には子供のものを、大人には大人のものを。災害助け合いの温かな気持ちが村中に燃えていました。
姉のていは、ドロドロの泥の中から見つかった遺体を見たことがあるそうですが、この災害で亡くなった方が百四十四名で、今もまだ何人かが行方不明で遺体が見付かっていないそうです。
爆発災害の復興事業は
田んぼも畑も一面泥の海で、大きな石と大木が大量に流れてきていました。それも、あっという間の出来事ですから、皆呆然としておりました。しかし、こうしては居られないとして、父が先頭に立ち災害復興をめざすことになりました。ところが村の中には、復興に頑張ろうとする人がいる一方で、復興は不可能だとする人もあり、意見が二つに分かれたそうです。いくら税金をつぎこんでも、もし復興できなければどうなるか、ということで、災害を受けた土地を放棄しようという意見もあったそうです。道庁から来た人や学識経験者の中にも、ただの泥流ではなく硫黄の混じった泥流のこの状態ではとても復興はむりである、という意見もあったそうです。
これに対し、父は、かつて本州から移住しこれまで三十年かけ汗水を流し造ってきた美田を、その先祖の努力に報いるためにも、ここで放棄するわけにはいかない。自分たちの手で復興しなければ先祖に申し訳ない。石にかじりついても復興しなければ、ということで、北海道庁長官とかいろいろな人を血を吐くような思いで説得し、最終的にはその熱意に打たれて復興の方針が決定したといいます。
父は物静かな穏やかな人で、家にいるときは静かに本を読んでいるとか、机に向かっており、子供たちは誰も父親から叱られたという記憶はありません。そんな静かな人の中に、どこにあれだけの闘魂がかくされていたのか、いまだに信じられない思いです。
上富良野ではいよいよ復興の事業に取り掛かりましたが、何をおいても泥流の中の大木や大きな石を片付けなければなりません。木は火をつけて燃やすと、硫黄の匂いと青い炎があがりました。後片付けには近隣町村の青年団等のほか軍隊の手伝いもあり、天皇陛下からの御内帑金をいただいた上、色々なところから義捐金や義捐物資をいただきました。
いよいよ整地の段階に入り、上川農業試験場で試験田を造り鉱毒除去や客土や施肥等の試験が行われ、作物の収穫もしだいに増加してきました。復興には約十年かかりましたが、その間にいろいろなことがあったようです。復興事業に対する反対運動は終始激しくありました。「泥流地帯」にもありますように、反対派の人たちは義捐金などを父が横領したのではないかと検察庁に告発し、父は検察庁に呼ばれたが、そんな事実はない、とすぐ帰されました。
そのようなさまざまな妨害がありました。
父はどのような妨害や反対運動にも屈せず、一途に復興のため尽くしました。父は反対する人たちにも協力する人たちにも、何一つ弁解めいたいい方はしなかったそうです。反対するものも協力してくれる人たちも同じ上富良野の住民だから何もいうことはないと申していました。
上富良野村は二回の開拓史が
北海道はどこの市町村でも、明治年間に、未開の樹林や原野に本州から入植し、農業開発を行った開拓の歴史があります。ところが、上富良野だけは二回の開拓史があるのです。特に、自然の猛威に屈せず、あらゆる苦難を克服し、北海道有数の美田を再現した大事業について父がお手伝いできたことを、その娘の一人として誇らしく思います。そして、三浦綾子先生が、その大事業を背景に優れた筆力でヒューマニズムを探求していただいたことに心から敬意と感謝を捧げる次第です。
父が歩んだ道、夫が歩んだ道
父は姉が生れた年の、大正八年六月二十四日に村長に選ばれ、私が女学校三年生の昭和十年六月十七日まで、四期十六年間を村長として在任しました。
その後、戦時中の昭和十七年四月の総選挙で衆議院議員に当選させていただきました。しかし、終戦により衆議院の解散、そして父は公職追放になりました。
戦後の混乱と失意の中で、父は昭和二十三年七月二十五日に胃癌で亡くなりました。享年六十三歳でした。もう少し生きて欲しかった!と、子供の私達は今も思っています。
私は、昭和十九年に三菱鉱業株式会社の秋田県尾去沢鉱業所勤務の東神楽村出身の安井吉典と結婚しました。しかし、昭和二十年四月に夫の父である東神楽村長代理助役の安井吉太郎が逝去したため、夫は家業の農業を継ぐために昭和二十一年五月に会社を退職し帰郷しました。
昭和二十二年、夫が戦後初の自治体選挙で村民の皆様に推されて、全道最年少の三十一歳で東神楽村長に当選し、二期目、三期目は無競争でした。
運命なのか、私の父吉田貞次郎が歩んで来た道を、夫である安井吉典が歩むとは想像もしませんでした。
昭和三十三年、夫も私も考えもしなかった大きな転機が訪れました。
それは、私の父吉田貞次郎が在任した衆議院議員に、北海道第二区の各界の皆様から夫に出馬要請がされました。
夫婦で、家族で、親族で相談、東神楽村民や後援の皆様そして関係団体との協議を得て立候補を決意し、四十二歳で衆議院議員に初当選をさせていただきました。
以来、当選十一回、在職三十一年八ケ月間の長きにわたり、東神楽町民の皆様、私の生れ故郷の上富良野町の皆様は政党を越えて応援をいただき、又第二区管内の皆々様に大変お世話になった事に心から厚く厚くお礼申し上げます。
その間、夫も激動する国政の中で政党の要職、衆議院の各要職を経て、最後は衆議院副議長となり、平成二年一月二十四日の衆議院解散で、その任を終えると共に、三十一年八ケ月にわたる衆議院議員としての政界から引退しました。
父の村長、衆議院議員、そして夫の村長、衆議院議員の選挙、後援会、政治活動を長年にわたって子供として妻として陰から支え見守って来ました。
時代は違いますが、父がそして夫が多くの皆々様に長年にわたってお世話になりました事を心より厚くお礼申し上げます。
「泥流地帯」の執筆の動機は
三浦先生が「泥流地帯」をどうして書かれるようになったのか、その動機をおききしたいと思っていましたのに、とうとう生前中にそのチャンスがなく、一昨年十月、綾子先生が亡くなられ一年になるのを前に主人と共にお宅へお参りに伺ったとき光世先生にお聴きしました。光世先生は「実は、あれは私が綾子に頼んで書いてもらったものの一つなんですよ」といわれました。「綾子は、むずかしいな、といっていました。」また、小説に出てくる主人公の耕作は光世さん自身をイメージしたもので、兄の拓一は光世さんのお兄さんをモデルに書いたもの、だそうです。
姉によりますと、先生は何回も何回も現地調査に上富良野へ来られ、綿密にあの人にきき、きき残しあの人にきくというように、調べて調べて調べ抜いた末、書かれたものだそうです。
三浦綾子先生の曖かい心遣い
私は留守勝ちの主人に代わり知人の結婚式に出席することがあり、祝辞を求められるとき、無断で三浦先生がよく使われる「愛は忍ぶ」という言葉を引用させていただくことがあります。そしてあるとき、そのことを三浦先生にお話ししました。その時、先生は何もおっしゃらなかったのですが、しばらくたってからある日突然ご主人の光世さんとお二人で私の家に訪ねて来られ、「愛は忍ぶ」と書いた色紙を額に入れお持ち下さったのです。私はもう嬉しいやら恐縮するやら、何ともいいようのない気持ちでした。先生って本当にそういう方でした。純粋で心のやさしい人でした。
美しい十勝岳と共に
お天気のいい日には、私が住んでいる東神楽からも十勝岳を仰ぐことができます。
上富良野ではすぐ眼の前に十勝岳がそびえ噴煙を見上げ、春夏秋冬の四季の折々に心をなごませてくれたり、勇気と感動を与えてくれています。
あんなに、多くの人々の命を奪い苦しめた十勝岳ではあるけれど、子供の時から馴れ親しんできた美しい十勝岳は、やっぱり私にとって懐かしい山々です。姉もいつもそういいます。
父の頌徳碑
昭和二十年八月十五日の終戦により、父が関わった大政翼賛会や衆議院も解散されると共に、公職追放の身となりました。
昭和二十二年頃から父の体調が思わしくなり、村民の皆様から、父の功労を讃える頌徳碑建立の話があって、役場庁舎前に建立の直前になって諸種の事情で中止されたのです。
父は昭和二十三年七月二十五日に六十三歳で他界しました。
翌年の、昭和二十四年六月十二日に上富良野神社前の町有地に「吉田貞次郎先生頌徳碑」が上富良野村民一同にて建立されました。
父の頌徳碑は、上富良野町開基百年事業として、父や私共の縁のある草分地区に建設された「かみふらの開拓館」の歴史広場に、平成九年十月に移設されると共に、三重団体副団長であった田中常次郎さんの胸像と、父の胸像が並んで建立され、その除幕式に出席させていただきました。
その地には、三浦綾子さん著「泥流地帯文学碑」が建立されていますので、これも何かの縁とつくづく感じております。
「かみふらの開拓記念館」は、私の生家の母屋を解体し移設、見事に復元されました。
父の書斎、白樺の木で組まれた格子天井、当時に使用していた生活用品の一部が展示されていて、父母の思い出と共に、生活していた当時の事が走馬灯のように駆け巡り涙しました。
上富良野の開拓の歴史、大正十五年の十勝岳大爆発と復興、そして父の足跡を、この様な形で遺していただいた上富良野町の皆様の暖かい配慮に、心から感謝とお礼を申し上げます。

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔